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閑話休題~中学時代の message for~

ピースするぼく 自己紹介

中学の頃の話。

英語の先生でⅠ先生って人がいた。当時で多分30代中盤くらいの小太りの男の先生だった。
実直だし優しい人なんだけどあんまり器用に何かをこなすタイプではなくむしろかなり不器用な感じ。
自作の定期試験の設問や解答用紙には不備(誤字は当たり前、文章として成立していない、設問はあるが解答する欄がない等々)がありまくり、しかもその対処法を考え込んでしまって結局試験終了の数分前まで何も指示を出せない、そんな感じの人だった。
その先生喋り方も独特な人で、授業開始の時の挨拶で「お願いします」って生徒と教師が一礼するんだけどI先生が言うと「おいしやす」って言ってるように聞こえるからなんかもう挨拶は「おいしやす」でいいかって生徒側もなってた。
「徒然草」なんかも「つれづれ」が発音できずに「つぇぜ草」って言ってたなそういえば。
英語の発音もなんかこうすごい特徴的で、口とか舌の筋肉をフル活用して発音する感じで。それがまた女子からの評判が悪くてすごく気持ち悪がられてた。確かにあの口の動きはちょっと気持ち悪かった。(特にthの発音はすごかったよね)



とは言え基本的に「いい人」だったからぼくは割とそのI先生とは仲が良かった。ぼくは当時バレー部でI先生は女子バスケ部の顧問で同じ体育館での部活だったこともあり部活終わりに一言二言言葉を交わすことが多かった。とにかく何事にも全力投球な姿勢でありながら体罰はしない非体育会系な感じがぼくらの教師世代からすると希少だったこともぼくがその先生に割と好意的だった大きな理由かもしれない。



中学当時ぼくはあまり英語が得意ではなかった。英単語とか構文てそれをそのまま覚えないといけないじゃん?これあんまり共感を得られないんだけどさ、漢字はどんなに画数が多くても必ず正方形の枠の中に収まるから覚えるの比較的簡単だと思うんだけど、英単語って理論上無限通りのアルファベットの組み合わせがあるわけだからその時点でぼくは匙を投げてた。
2年の時のある定期試験、I先生の作った英語の問題を解いてたら、たぶん最後の問題だったと思うけど日本語の文章を英語に直して答えろっていう設問だった。その設問はいくつか小問が並んでて一番最後の問題が「私はきみに伝えなければならないことがある」みたいな文章だったと思う。
その時の単元で「〜しなければならない」「~すべき」という意味のmustとかhave toを教わったところだったので恐らく「伝えなければならない」の部分でmust辺りを使わせる意図の出題だったんだと思う。直訳すると「私はしなくてはならない、きみに伝えることを」みたいな文章を英訳するのが正解なんだろうなというところまでは英語が苦手なりにも分かったんだけど到底文章として成立している形に直すことができない。
ってことで諦めてぼくはダメ元で



「I have a message for you.」



この英文を書いて解答用紙を提出した。不思議なもんで今でも覚えてる。


それから一週間くらいしてテストの返却があった。正直どんな答えを書いて提出したかなんてほとんど覚えてなかったしとにかく英語は苦手教科だったので特に期待などしてなかった。
それぞれ自分の解答用紙と一緒に模範解答の書いてある用紙の二枚が配られた。
件の「きみに伝えなければならないことがある」の問題、予想通りmustをつかった構文の応用が正解だったんだけどその模範解答の下にカッコ書きで「I have a message for you.(御手洗 案)」ってぼくの解答が書いてあってぼくの解答用紙にも〇がついていた。
その時履修している単元で初めて出てきた英単語だったり構文を解答するのが学校のテストというものだ。直近の単元の理解力を計るのがテストの目的である。ぼくの書いた「I have a message for you.」の中には新しい英単語や構文は一切含まれていないので定期試験の性質上おそらくぼくの解答は正解ではないはずだ。
全員分のテスト用紙を返却した後I先生はテスト全体の解説をした後に「最後の問題は僕の準備した答えとは違いますが御手洗君に解答が英語として素晴らしかったので模範解答用紙に載せてあります。英文法に縛られた頭の固い英語と違ってとても自然で頭の柔らかい英語です。」みたいなことを言ってたと思う。
ぼくは分からないからそう書いただけで自然な英語を答えようなどという意識は全くなかった。そもそも「英語として柔らかくて自然」という概念自体がなかったんだよね。ぼくの解答に〇がついていたことよりそっちの方が印象深かった。
どちらかと言えば固い印象を受ける「伝えられるべきこと」という日本語を「message for you」と英訳したことがすごく柔らかくて良い、みたいなことをしきりに言っていた気がする。
「伝えられるべきこと」を「あなたへのメッセージ」と英訳するのは流石に意訳が過ぎるので厳密にはやっぱり誤答だと判断されても文句言えないかな、今思えば。


その先生国語の授業も受け持ってたんだけど「ととのえる」を漢字に直せって問題があって、「整」の整えるは小学校で習う漢字だしわざわざ中学のテストに出さないだろうから「調」の方の「調える」を書いてテストを提出したんだけど、結局それも「整」の方で良かったみたい。「調べるの方の『調える』と書いた人がいましたがこの人はめちゃめちゃ本を読んでる人です。もちろんこれも正解です。」ってテスト返却時に言ってたけどさ、すんません、たまたま知ってただけです。読書の量は普通です。
あとで調べたら「調える」の方はギリギリ常用外の漢字の読みの可能性があるかもしれないので×をつけられても文句は言えなかったらしい。

教えていない知識をテストで解答すると×をつける教師
の存在が一時期話題になってたけどI先生はそういう連中とは対極に位置していたことがこの事からもわかるだろう。



I先生、自分の子供が生まれたとかで早退のための正規の手続きを経ないまま学校ほっぽり出して病院に向かっちゃったりとかいろいろまっすぐすぎる人特有のやらかしをやっちゃっててそれらが原因かは知らないけど結局2年ほどで他校に転任してた。
ぼくはそれ以来I先生とは一度も会ってないけど目撃情報がちらほらあるからまだ地元のどこかで教師をやってるんじゃないかな。



まあ、そんなこんなでその件以来「I have a message for you.」という一文はぼくの中で”本来の意図した正解ではないけど及第点以上の何か”の代名詞になったことは確かだ。
表現はなんでも自由という安易な思想とも一線を画す、「文法や単語のスペルを守る」という一定のルールの枠の中での自由。有限な要素があるからこそ無限な表現性が生まれる。



ただの実話なのでこの時の経験が元で「今ではぼくも立派な英語の先生」みたいなきれいなオチはない。
オチはないが一応専門家(のつもり)として美術絵画を制作しているぼくの中で一つの指標になっていることは確か。

以上、閑話休題。

有限無限


生きることで精いっぱいです。