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なぜ私は努力をするのか

この記事は私はなぜ努力をするのかという自分への問いかけとその答えであるとともに、私が道を見失ったときに再び戻ってこれるようにするためのものである。よって、読者に何か有益な情報を与えるものではない。もし参考になるならしてもらう、程度に考えている。おそらく何にもならない。そのようなものである。

フロントアンサンブルプレイヤーという肩書を失いつつある今、私はなぜ努力しようとするのだろうか。それはただ一つ、下手になりたくないからである。何年もかけて手に入れたものを、手放したくないからである。小3の秋から身に付けてきた技術や考え方をそう簡単に手放すわけにはいかない。この13年間で得てきたものすべては、今や私の所有物である。それを捨てるということは13年間を無駄にするということと同じである。この13年の間、私は何をやってきたのだろうと迷い、悩むことも多くあった。しかし、どうにかここまでやってこれたわけである。この経験は私に、言葉にできない大きな何かを与えてくれた。漠然としすぎているが、そうなのである。技術や思考を忘れ去ってしまうことは、それらすべてをなかったことにしてしまう。そう考えている。迷いごとや悩みごとは、何かに起因して発生するものである。その何かがマーチングである以上、マーチングで得たことを記憶から消すことは迷いごとや悩みごと、そしてそれらをどう解決したかという過程すべてを消すことと同じである。
だから私は努力をしようとするのである。新しいマレットを買って心機一転、自分のペースで一歩一歩進んでいこうとしているのである。いつか復帰するかもしれない。というかするだろう。これは確定路線、と言ってもいい。だからその日までに、私は成長していなければいけない。古巣へ帰ったときに、出ていく前より上手くなっていなければいけない。別に義務でも何でもないが、OBの意地とでもいえよう。上手くなって必ず戻る。誓う。
私は所属団体に忠誠を誓っている。2020年5月7日。あの日、この団体を人生の一部として生きることを決めた。だから私はこれからもそこに向かって努力を続ける。あの日持った意志をいつまでも持ち続ける。

ここまでマーチングのことばかり書いてきたが、その他のことにおいても努力をする理由がちゃんとある。
たとえば、米文学研究。これは高質な論文を書き上げるため、というのが目的ではあるが、その裏には、自分の米文学への知見や思考を広げ、深めたいという意思があった。できるだけ専門性の高い論文を、一方でオリジナリティに満ちた論文を目指した。だから亀井俊介『マーク・トウェインの世界』を借りて読み漁ったしCharles Neider "The Autobiography of Mark Twain" から引用した。卒論執筆を通して、私は確実にMark Twainへの理解を深めることができたし、黒人奴隷の存在、当時の「家庭」、「良心」などについて深く考えることができた。努力してきてよかった、と思っている。

努力には、目的や将来像が不可欠である。仕事においては売り上げを上げること、そして本社に戻り広報本部として勤務すること、あわよくば上位会社にジョブチェンジすること。このような像を持ちながら働いていくことになる。働いていく中で、自分がどのような方向に行ってしまうのか、正直今はわからない。なぜか急に転職しだしたりするかもしれないし、やっぱ教師やるわとか言っているかもしれない。わからない。でも、どんなときでも努力している私でいてほしい。しているとは思う。しかし、目的や将来像がないと努力はできない。闇雲になどできないものである。それらを見失った私はこれを読むだろうか。読んでいたら、まず今何をしたいか考えること。どうなりたいのか。どのような大人になりたいのか。ライフプランは?じっくり考えてみるといい。そして何らかの像が浮かんだら、それに向かって歩き出せばいい。よい未来が待っていますよう。

令和6年3月16日


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