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対人関係、同じ気持ちになる必要はない
たとえば、子どもが人を叩いてしまったとき。
ダメなことだよ、と諭す手段として「自分がされたらどう思う?」と問いかける場面があると思います。
でもそれって、本当に有効なのでしょうか?
「自分がされて嫌なことはしない」が通用しない
こんにちは、元国語教員、現ライターの国語の庭です。
学校現場にいたとき、こんな場面に出くわすことが結構ありました。
「自分がされたら、どう思う?」の問いかけに対して、
「どうも思わない」
「別に、平気」
「これくらいのことじゃん」
「向こうが我慢すればいいだけ」
こんなふうに答えてくる子が、わりといて。
すんなり指導が入らないことがありました。
思春期だから?
反抗心から言っているのかな?
話をしているとどうやらそんなこともなく、「自分が人に叩かれたり嫌なことを言われたりしたとしても、別にいい、気にしてない」と本気で思っているケースも結構ありました。
それでも、どうにか伝えないといけなくて。
やってはいけないことや人の痛みを伝えるのって、結構難しいです。
自分がされても大丈夫なのに、なんであの子は嫌がるの?
子ども自身がそう思っていると、一旦指導を終えた後も結局同じトラブルを招いてしまうんですよね。
何度も繰り返し伝えて、根気強く付き合っていくしかないんだろうなぁ…。
「自分がされたらどう思う?」って、通用しないんだよなぁ。
どうすればいいんだろうなぁ。
そんな時出会ったのが、この本たちでした。
どちらも、ブレイディみかこさんの著作です。
2冊の本の中で共通して出てくるのが、「エンパシー」でした。
この「エンパシー」が、今回のお話のメインです。
他者の靴を履いてみる
「エンパシー」って何?って思いますよね。
本の中では、次のように紹介されていました。
■エンパシー(empathy)
1 他者の感情や経験などを理解する能力
このエンパシー、「他者の靴を履いてみること」とも表現されています。
英国圏では一般的な表現のようですが、少なくとも私は今まで出会うことのなかった表現で、新しい!と思いました。
特に、「他者の靴を履いてみる」という表現。
足の大きさや形って、1人ずつ違いますよね。
靴を買うとき一番に気にするのはサイズかなと思いますが、同じサイズでもメーカーによって甲の厚みや横幅の広さって違っていますよね。
自分にぴったりフィットする靴がなかなか見つからない、って人も多いのではないでしょうか。(私もそのひとりです…)
そして、購入した後。
長年同じ靴を履いていると、生地が少し伸びたりやわらかくなったりして自分の足にフィットするようにだんだん変化していきませんか?
そのころには、同じメーカー、同じサイズの靴を履いたとしても、「あれ、自分の靴じゃない…」って感覚になるような気がします。
「他者の靴を履いてみる」というのは、自分と相手は違う、ということを前提に置いた上でその人の思いを考えてみることです。
自分の靴と他者の靴は、違うもの。
それをわかった上で、相手の靴を履いてみるんです。
大切なのは自分の感情、ではない
エンパシーと似た言葉に、シンパシーという言葉があるそうです。
本の中でも言及されています。
■エンパシー(empathy)
1 他者の感情や経験などを理解する能力
■シンパシー(sympathy)
1 誰かをかわいそうだと思う感情、誰かの問題を理解して気にかけていることを示すこと
2 ある考え、理念、組織などへの支持や同意を示す行為
3 同じような意見や関心を持っている人々への友情や理解
ここで厄介なのは、日本語にするとどちらも訳が「共感」になってしまうこと。
でも、違うんです。
エンパシーは能力だから、身につけるもの。
相手は誰であってもかまわなくて、自分がかわいそうだと思わない相手や同じ意見の人でなくても、その人の立場だったらどうだろう?と考えて、理解することです。
シンパシーは感情で、自分の内側から湧いてくるもの。
自分がかわいそうだと思う相手や「そうだよね」と共鳴する相手に対する感情です。
本の中で著者も指摘されているのですが、日本語でいう「共感」って、どちらかというと後者の「シンパシー」の意味に近いような気がします。
かわいそうな人に対して、同じ気持ちになること。
自分が相手と同じ気持ちを感じること。
自分が相手と同じ気持ちになることにウェイトがあるような気がします。
だから、「自分がされたら、どう思う?」「嫌だよね」っていうのは、シンパシー的なアプローチに当たるのかなと思います。
自分の「嫌だな」と相手の「嫌だな」を結びつけるというか。
だから、そこで自分が「嫌だ」と感じていなかったら、相手の気持ちはいつまでたっても理解できない感じがします。
それに対して、エンパシーには自分の感情は考慮されません。
自分が「嫌だな」と思っていなくても、相手にとっては嫌なことなのかもしれない。
自分の感情はひとまず置いておいて、相手の視点で考えてみる。
相手の立場に立って、相手だったらどう思うかを考えてみる。
それがエンパシー。
相手の立場に立ったときに、自分の感情を抜きにして徹底的に相手目線で考えることができるか。
自分の感情は関係ないんです。
自分が嫌だと思っていなくても、相手は嫌だと思っているかもしれない。
これって、子どもに限らず大人にとっても大事な考え方だと思いませんか?
エンパシー的な考えを持っていたら、パワハラとかセクハラとかってもっと少ないはず…。
エンパシーのない自分自身
「他者の靴を履く」「エンパシー」と出会って、私はこれまでシンパシー的アプローチしかできていなかったなぁ、と反省すべきできごとを思い出しました。
過去のことですが、友人Aちゃんの誕生日会です。
仲のいい数人で集まって、お祝いします。
毎年同じメンバーだったのですが、その時期ちょうど新しく仲良くなったBちゃんがいました。
せっかくだから誘おう、ということでお声がけすることに。
ただ、お誘いしたころから、Bちゃん、あまり積極的ではないというか。
自分のことは気にせず、もともとのメンバーだけでお祝いしてきたらどうかな、という雰囲気が出ていました。
でも、私はBちゃんが参加する以外の選択肢は考えていませんでした。
このメンバーで仲良くしていきたいし、お祝いごとなのだから参加する方も楽しいはず。
もし私がBちゃんの立場だったら、参加したい。
当時の私は、Bちゃんの靴を履けていませんでした。
「新参者の自分は話題についていけないかもしれない」
「まだ仲良くなって間もないし、気まずい思いをするかもしれない」
ある程度出来上がっている内輪ノリの場は、Bちゃんにとってはアウェイになるわけで。
緊張、不安、ドキドキがあるのは当然のことでした。
でも当時、不安を浮かべるBちゃんの発言に返していたのは、寄り添うなんてものとは程遠い言葉でした。
「もしBちゃんが参加しなかったら、Aちゃんは気まずい思いをするかもしれないよ」
「Bちゃんをのけ者にしたみたいじゃない?」
もしBちゃんを除外していたら、今後遺恨が残るかもしれない。
Bちゃんの立場を考えての発言だったのかもしれませんが、それは本当は保身ためでもあったように思います。
Bちゃんが不参加の場合、「私」や「Aちゃん」がどう思うか。
Bちゃんの目線では考えられていなかったと思います。
今振り返って思うのは、Bちゃんに対してもう少しできるアプローチがあったのかもしれないということ。
もしかしたら、Bちゃんの気持ちを汲み取った上で、不参加の手順を踏むこともできたかもしれません。
参加するにしても、もう少し前向きになれるような寄り添い方ができたかもしれません。
結局、ランチ会はBちゃんにも参加してもらって、無事に終わりました。
ただ、無事、とはいってもそれはあくまでも私の目線で、やっぱりBちゃんは気まずい思いをひた隠しにしてがんばって参加してくれていたのかもしれません。
もう少し、Bちゃんの本心を聞いて理解できておけばよかった。
そんなふうに思いました。
エンパシーは、能力です。身につけることができるものです。
まだまだ自分には足りないなと思います。
自分の靴に慣れすぎてしまって、ついついそこを基準に考えてしまいます。
周りには「他者の靴」があること。
これを忘れず思い続けていけば、エンパシーは身についていくのではないかと思っています。