撮り終わった映画を観ている
昨日投稿した「雲の中のおっさんが空から見てる」の続きといえば続きです。
投稿の中で「自我については未だによくわかっていない」と書きました。
はい、よくわかってないです。
ただ、「今のところの理解」が無いわけではないです。
ブログは途中経過・プロセスの記録を残すにはもってこいのメディアなので、未熟ながらも今の自分にとっての「自分とはなにか」「世界とはなにか」などについて学んだこと、考えたことをアウトプットしたいと思います。
撮り終わった映画を観ている
「撮り終わった映画を観ている」というのが今のところ自分にとって一番しっくり来る人生観であり世界観です。
「撮り終わった映画」を「観る」(観はじめる)ことがトリガーになって何事も起こるという考え方です。
つまり「撮り終わった映画」を「観ない」という選択肢もあり、かつ、「観ない」ものは「存在しない」。言い換えれば、「観る」から「映画が在る」とも言えます。
じゃあ、「観ない」となにもはじまらないじゃないか
では「観ない」という選択肢をなぜみんながみんな選ばないのか…という疑問がわきますよね?(僕はわきます。)
観なければなにも起こらない。はじまりもなく、終わりもない。
人生がそもそもなく、よって、楽しいことも苦しいこともない。つまり、なんの問題もない。完璧な平和が「観ない」という選択肢にはあるんです。
ところがやっぱり観てしまう。
これには諸説ありますが、究極的には「空」(くう)であるというのが根本にあると僕は考えています。
「なにかとなにかの相互依存関係で物事が成り立っている」という関係性、これが「空」だと言われます。そして、映画の中身、つまり人生・世界というものの中はいたるところ関係性だらけであり、関係性を差し置いて存在できるものがない。存在の中に関係性があり、その関係性の因子もなにかとなにかの関係性で成り立っている…このように再帰的に掘り下げていくと、無限に関係性が現れるが、「実在」と言えるものはどこにも見当たらない…これが「空」の思想です。
「観る」という行為と「映画が在る」という存在が切っても切り離せないものだと思うんですね。観なければ映画は存在しない、映画がなければ観るという行為もない。存在のON/OFFが相互依存的なんです。
だから、「観ない」という選択肢を発見したとしても、もう時既に遅しで、我々は「観る」方の選択肢の中にいる。映画ははじまっている。ある意味では「観る」「在る」方を経験しているから、それを足場にして「観ない」「無い」という状態を考察できているとも言えますが、とにかく映画の中にいるから映画が無いという状態を想定できるということです。
華麗なるダブルバインド。
こういうことを考え始めると僕の心は苦しくなります。ぎゅーーーっと締め付けられるような、もしくは、じっとり冷や汗をかくような感じです。
そして脳が麻痺するポイントがやってきます。知性においては究極的に苦しい状態です。でもね、この麻痺ポイントほど、自分の行動を掻き立てるものが他にない。苦しい反面、大好きなんですよね、この感じ。
「空」という洞察を活用して物事を眺めるのが面白いのは、完全に死角だった側面が見えてくるからです。麻痺ポイントを通過して、冷静になる地平みたいな領域に達したとき、上のレベルから俯瞰するような視点を手に入れることができます。
人生のエネルギー源
だから、人生という観点からすると、「空」はとてつもないエネルギーの源と言えます。
なぜなら、全てがそこからはじまってしまうからです。
我々には「はじめられずにはいられない」という性質が備わっているように思うのです。それは「空」の裏返しです。「空」(空っぽ、empty)ゆえにそのままにはしておけない。なにかで埋める、なにかで置き換える、なにかへ変化させる…そういった行為を絶え間なく継続してしまうこと、これが人間(精神+身体)の本性の一部だと思うのです。
「撮り終わった映画」を「観はじめてしまう」のもその一環だと考えます。
観なくて済むものを、やっぱり観てしまう。人情ですね(笑)。
時間と空間は発明品
時間や空間という概念(アイデア)は、この映画を観るため(観続けるため)に必要な発明品だという理解を今はしています。
これに関しては、ラメッシ・バルセカールさんの説明が一番わかりやすい。
横幅が数マイルもあるような大きな絵を鑑賞しようと思ったら、移動しながら観ることになりますよね。絵は最初からそこに全て描かれていますが、個人がその絵を鑑賞するためには時間の経過が必要になります。
要約するとこのようなことをラメッシさんは言ってらっしゃいました。
すごく秀逸な譬えではないでしょうか。
我々の人生の映画、世界を描いた映画を「観る」ためにどうしても時間と空間が必要だったから創り出されたのであって、そもそも「観ない」のならそんなものは不要であり、映画の側からしても「俺ぁは、どっちゃでもいいだよ」というスタンスではないかと。映画は我々個々人の判断や都合を「超えた」ところに在ると思うんですね。個々人の価値観で自然法則がコロコロ変わってしまったら不便極まりないですよね? 世界という映画の中のドラマが全然成り立たなくなってしまう。非常にややこしいことになると思います。
映画の中で役者ができること
この映画と役者の関係性について、我々凡人の側はどう考えればいいのでしょうか? やはりここでラメッシさんが抜群に響く表現をされています。要約すると、
登場人物自身が「私がいる」と思っているにも関わらず、映画は進行することができる
ということです。
このテーマについては、お釈迦様が世界一シンプルに
出来事は起こり、行為はなされるが、そこに個々の行為者はいない。
とおっしゃっています。この言葉は正に事実をそのまま言っているのだと思います。
つまり、映画が進む(世界が回る)のは、役者(個々人)に主導権が無いが故だ = もし役者が映画とは別に実存し、映画の主導権をそれぞれが握ることが可能だったら、映画はこんなふうにうまくはまとまらない、ということではないでしょうか。
アリストテレスの「全体は部分の総和に勝る」とは正にこのことで、個々の役者が役を全うし、それらの行為と作用が連鎖し続けているからこそ無数のドラマが起こり、映画はそれらを包括し、結果として鑑賞可能なもが顕現するのだと思います。
参考文献
このテーマについてはまだまだ語ることがあります。語り得ないことに沈黙するまでは語る自由があると思っているので。
ひとまずここに書いた理解に達するまでの道のりで読んだ本を挙げておきます。
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