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003.こっちは黒猫のジジ、じゃなくて白黒猫のジジ




昔飼っていた猫のことを書こうと思います。
吉本ばななさんの本を読んでいると犬猫のことをよく書いているのですが、そのあたたかさといったらもう、人より大事になさっているのではないかというくらいの(そんなことはないかなおなじくらいかな)、強烈というよりはじんわりの遠赤外線みたいなあたたかさなのです。




うちの猫の名前は「ジジ」でした。魔女の宅急便のビデオテープ(時代よ。)が擦り切れるほど観て、そしてセリフを覚えるほど好きだったわたしは迷わずその名前をつけました。当時小学5年生だったわたし。
その日は地域のお祭りの日だったと思います。今でも交流のある幼馴染と浴衣を着てお祭りに行き、「今日は家に猫が来るんだ〜」と話した記憶があります。


その子は手乗りサイズくらいの小さな小さな白黒の猫でした。知り合いの知り合いの遠い知り合い(つまりはよくわからん)のブリーダーがいて、売り物にならない雑種だからもらってほしいということでした。今で言う、完全に保護猫。あんなに小さいあの子は、全身ノミだらけで、目で見てもわかるほど虫がすごいので、ノミ取りシャンプーを急いで買ってきてシャンプーをしてシャワーで流したら、流れてくる水が血の色でした。それほどノミにやられて全身傷だらけだったのです。
シャンプーしてるときからものすごい鳴いてたけど、シャワーで流してるときはもっとものすごい鳴き方で、小学生のわたしでも痛がって鳴いてるのがわかって、見ていられないほどで、一緒にあの子とワーワー泣いて「もうやめて〜!もうやめて〜!」って言ったのを覚えています。
すぐにタオルにくるんで、病院に連れていきました。


そんなあの子はノミも無くなりガリガリだった身体もふくよか(成猫になるとかなりのデブ猫になりました)になりすくすく育ちました。
犬派だった(え!)わたしは手のひらサイズの仔猫に追いかけられては怖くて逃げていました。(猫の真っ直ぐで静かな瞳がこわかった)
やんちゃで野性的でちっとも可愛げのない!ツンデレでもなくツンツンBOYに成長したのです。笑
性格もあるのでしょうけど、三つ子の魂百までじゃないけど、元いたとこの環境も関係あるのかなって思ったり思わなかったり思ったり。どっち


共に過ごした日々は濃厚というよりは、ただ側にいたという表現のほうが合ってるかな。
そっと、彼が私達に寄り添ってくれて生きていたという感じ。離れずくっつかず。たまーにすっごい距離が近くなってこっちがびっくりするけど。
布団で寝てると胸のあたりに全身で乗っかってきて、猫パンチでほっぺをたたいてご飯くれって起こしてくるし。笑 ねれないんだけど!



ふと急に寂しくなるみたいで、とくに大好きな私の母が帰りが遅いとか帰ってこないとかそういうときは「わお〜ん、わお〜ん」って低い声で鳴きます。犬?


あと印象的だったのは、どこいったのかなーと探してみると暗がりの中でポツンとすわっていて、お風呂の窓の月明かりをじーっとみている姿をよく見ました。まるで宇宙と交信してるみたいだねってよく母と言ったものです。



帰宅して玄関のドアを開けると、必ずドアのすれすれのとこに座ってお出迎えしてくれたつんつん時々デレデレな彼。母や私の足音がちゃんとわかるんです。他の人の足音には反応しないからすごいんです。動物のそういう能力には本当に感心してしまいます。


それから彼は私のお腹に長女がいる頃まで生きることになります。19年生きました。
娘が生まれる前にいれかわりのように命を終えていきました。



最期って本当に不思議で。
今までその身体にあった魂がすうっと抜けて、「亡き骸」になる。その言葉がぴったり当てはまる。
亡くなったおばあちゃんや知人もそうだった。義理実家の犬たちもそう。多くを見てきたわけじゃないけど、みんなとても尊くてきれいだった。自分の命が終わる最期までしっかり生き抜いた証がそこにちゃんとあって、身体や顔に刻まれていくんだ。それがとてもきれいでした。





ふと気がつくと、私の人生には動物がいてくれる事が多い人生だったなあ。と。
振り返ると、濃厚な時間を過ごしたというより、そっとほんのりあたたかい温度でそこにいる彼ら(ジジと義理実家のダックス2匹)だった。
今はもういないけど、一生彼らは私の記憶の中で元気に走り回っている。












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