【連載】家族会議『他人事の人生』
「親戚で一番幸せな家族になろうよ」のひと言から始まったわが家の家族会議。その様子を、録音記録をもとに書き記しています。
前回の記事はこちら。
家族会議12日目#9|他人事の人生
――家族会議12日目を分割してブログにしてきた。この日は主に、父がどうして上から目線になったのか、その上から目線がどこから始まったのか。そんな話をしてきた。
父:
これ(家系図をまとめた冊子)見たらわかる通り、この本そのものが上から目線だ。
わたし:
その本がプライドだよね。
――家系図は、伯父(父方)がまとめた。
家系図を作り、由緒ある家である証を残そうとした、その意識こそが代々受け継がれてきたプライドだ。
しかし、今や家系図でも作って誇示しなければ保てない。だからわざわざ作った。自分たちが「上」であることを証明し、上から目線でいるために。
父は伯父が作った家系図に、それを感じたという。
そこまで分かっていても父は…。
自分もその一員で、自分にもその意識が受け継がれ、自然と「上」だと認識し、ごく当たり前に人を見下してしまっていることにまで考えが及ばない。
父:
そこに私の小さい頃の成績が相まって、上から目線っていうかそういうものに拍車をかけて、お父さんの幼少期が形成されて、ずっときたということだと思います。あとは枝葉まだあんのかもしらんけど
――こう分析していて、それが自分のことだと思っていない。
ここまで自分で言ってるんだから、「もう自分が上から目線であることを認識できただろう」。そう思っても、まったく認識できていないのだ。
自己愛性パーソナリティ障害だから?
わたし:
そうだね。いろんな経験が積み重なって、きっとそうなってる。
母:
でもその本にそういうことを感じるなんてすごいね。
わたし:
プライド?
母:
プライドの塊だって感じたっていうか。そう思ったのはすごいなと。
わたし:
そうだね。
なんかプライド自体はさ、悪いことではないわけだから。プライドを持つことはすごい大事なことっていうか。そのプライドをどう扱うかみたいな感じかね。
母:
うん。
わたし:
扱い方要注意なのがプライドで、扱い方を間違えると周りに嫌な感じを感じさせちゃう。
母:
イメージとしてさ、同じ意味なんだろうけど「誇り」っていうと、なんかもっとなんていうか違う。
誇りとプライド、イコールなのかもしんないけどイメージ違うよね。プライドっていうとなんか、バンバン人に何かする感じ
父:
ギスギスしたものか。
母:
誇りだと自分で、1人で、自分の中で思うようなことが誇りってイメージがあるな。だから、泉が言ってる、扱い方があれだけど持っていいっていうプライドっていうのが、誇りに近い感じかな。お母さんのイメージで言えば
わたし:
自分の軸としてというか。
母:
どっちかというと誇りに合うなって感じで。プライドは何か、人とぶつかるっていう
わたし:
軸にするものではあるけど、盾にするものではないみたいな感じかな。
母:
そうだね。プライドのイメージが、その盾にする感じのイメージがあるな。
わたし:
武器になっちゃうんだね。
父:
私がこれ(本『上から目線の構造』)を読んだ、大雑把な感想です。
――父は自分のどこがどう上から目線なのかわからないという。だから本を読んでもらった。
だけど結局、書かれていた特徴のひとつを取り上げて「ここは違う。だから違う」と、正当化の材料にしかならなかった。
それでも、「幼いころ小さな村社会で成績一番だったことで上から目線が形成された」と分析できたことは多少の進歩と見るべきか…。
しかしそれが自分と結びついていないのだから、ほとんど意味がないだろう。
父を見ていると、全てが他人事に見える。
自分の人生でさえも。
- 家族会議12日目おわり -
ある精神科医の先生が言っていたという話を聞いた。
父を思い浮かべたとき、パッと出てきたのが祖母だ。
わたしから見て、父が依存しているのは「母親」であり、「母親の教え」なのである。依存するものを亡くしても父が生きていられるのは、「教え」が根付いているからだろう。
しかしその「教え」は万能ではなかった。むしろ間違っていた。しかも間違いが明らかになったのは、祖母が亡くなったあとのことである。
もう、母親に教えを乞うこともできない。
母親の教え通りに生きてきて家族が壊れたとき、父になすすべはない。
そもそも、母の教えを指針として生きてきた父は、自分の人生を歩んでいない。当然、教えの範囲外のことには対処できないし、自分で選び考えて行動したわけではないから、自分の責任だとも思えないだろう。
父がなんでも「他責」にするのは、人として生きてこなかったからだ。
父が自分の人生を「他人事」のように捉えるのも納得できる。
母親あっての父。
母親がいるからなんとか生きてこられた父。
言い換えれば、母親に生かされていた…?
そこに執着があるのかもしれない。
生かしてくれている存在。
つまりは神か…。
だから、母親が絶対なのか…。
母親の教え通りに生きてきて起こったことが、自分の責任じゃないのだとしたら、それを母親の責任にしたいのが普通の心理だろう。
でもそこで、母親のせいにだけは絶対にしないのが父だ。
母親は神のような存在であって、心の中でひそかに反発することすら許されない。
かといって、自分に起こったことは明らかに自分の責任ではないのだから、母以外の誰かの責任だと考える。
そういうことか。
他責なのも自分本位なのも、自分達さえ良ければいいということだ。
上から目線もそう。
はた迷惑な教えである。
<次回に続く>
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