「むなしさ」の味わい方を読んで
多くの人は、むなしさという感情を避けよう、忘れようとつとめる。それを味わうとは・・・?
新聞の書評欄で、『「むなしさ」の味わい方』を先に見つけたのは母だった。
著者は、きたやまおさむさん。「帰ってきたヨッパライ」が大ヒットした、元フォーク・クルセダーズの一員で、精神科医でもある。
劇場と日常との落差の中でかつて感じていた「むなしさ」。
そして、日常が劇場化している現代にはびこる「むなしさ」。
本書で北山さんは、「むなしさ」の正体を解き明かし、味わうことを提案する。
「むなしさ」というのは、姉が時おり口にする言葉でもある。
姉から「むなしさ」という言葉を聞くと、わたしは不安になる。
深刻なむなしさに襲われたとき、人はどうなってしまうのだろう。
この本を読もうとと思ったのは、姉の「むなしさ」へのヒントがあるかもしれないと思ったからだった。
しかし姉は、「読まなくても『「むなしさ」の味わい方』って言葉だけで、楽になれる感覚がある」と言った。
人が嫌い、遠ざけ、なんとか埋めようとするむなしさを、「味わう」。
その発想そのものが、「むなしさ」への向き合い方の、新たな切り口になるのかもしれない。
本の中で北山さんは、フォーク・クルセダーズのメンバーで、自死した加藤和彦さんへの思いを綴っている。
ふたりが生み出した名曲『あの素晴らしい愛をもう一度』がリリースされたのは1971年。
わたしが生まれる前に発表された曲だけど、そんなわたしでも知っているほど有名な曲だ。
「あの、素晴~らしい、愛を、もう一度~」というサビのフレーズとメロディ・・・。懐かしく思う人も多いだろう。
本を読み終えてから、あらためて『あの素晴らしい愛をもう一度』を聞いてみた。
そこで、あの有名なサビに入る直前の歌詞に、軽く衝撃を受けた。
そして目頭が熱くなった。
北山さんの、加藤和彦さんへの思いを読んでいたからだ。
そもそも、この曲こそが「むなしさ」を表現していたのだと、本を読んだ今、感じている。
人が、自分の生涯を閉じてしまうきっかけにもなり得る「むなしさ」とは、なんなのだろう。
北山さんによれば、人はみな、母親のお腹の中にいるときは完全に密(満たされた)の状態にいるという。
そこから生まれ出て、徐々に母親との間に距離(間)ができ、そこでむなしさを体験していくことになるそうだ。
わたしたちは、その間(ま)を、むなしさを、埋めて満たされた状態になりたいと願う。
本能的に、満たされた状態が幸せであるということを、知っているからなのだろう。
しかし、もう二度と母親のお腹の中に戻ることはできない。
そして空いてしまった間を、外のもので満たすこともできない。
「完全に満たされた状態になることはない」ことを知っておくことが、むなしさの対処法のひとつということだ。
北山さんは「間(ま)」について、こうも指摘する。
「間が空く」ことに、現代人は慣れていない。と。
効率が追求されてきた現代社会には、「意味のないもの」がない。
何にも使われていない空き地、何もしない時間、そうした意味のないものが徹底的に排除されてきた。
無駄を嫌い、空き地は何かに活用され、時間の合間は情報収集に活用される。
間を埋めるものであふれているから、「間が空いてどうしよう」と悩むことも少ない。
心に空洞が空いても、満たせばいい。
しかし、その考えこそが危険だという。
こうした妄想は、現実との落差を生み出し、突如として絶望的な「むなしさ」を感じさせる。
だから・・・
間を急いで埋めようとするのではなく、間を間として過ごしてみる。
むなしさを感じたら、じっくり噛みしめ味わってみる。
そうしてみませんかと、本書を通して提案している。
具体的な方法としては、『”ゆ”に身を任せる』ことを挙げていた。
ゆっくり、ゆったり、ゆとり、ゆ(湯)などの「ゆ」。
こうした時間こそが、「新たな自分の発見やクリエイティブなものを生み出す契機になる」ということだ。
北山さん自身もそうだった。
なんでもない「間」に、多くの歌が生まれたのだという。
「あの素晴らしい愛をもう一度」の歌詞も、北山さんのクリエイティブ作品だったのだろう。
確かに、サビ前の情景の描写は、映像を見せられているかのように思い描ける。それがあるから、サビが心に染み入る。
排除するでもなく、忘れるでもなく噛みしめる。
むなしさは、醜いものではなく、蓋をする必要もないのだ。
むなしさを味わう。
この言葉を覚えているだけでも、心に余裕が生まれそうだ。
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