奪われたままの意思
わたしは大切にされてきたってことだな。と、読売新聞の『人生案内』を読みながらしみじみ。
質問者は30代の女性。
母子家庭で育ち、小学生のころから母に代わって家事や妹の世話をしてきたという彼女は
と、質問を寄せていた。
わたしには自分を尊重する感覚があると思う。その感覚を身につけることができたのは、主に母親のおかげな気がしている。
「自分を大切にする」「自分を尊重する」というのは、質問者の女性がいうように感覚的なものだと思う。
頭で理解してできるようになるものではない。
そしてその感覚を身につけるには、最相葉月さんが言うように「自分が大切にされる経験」が必要ということだ。
最も自然なのは、「幼少期に親から大切にされる」ということだろう。
もちろん、必ずしも「親」でなければならないわけではない。
しかし親がいる環境であって、その親から大切にされないというのは、子供にとって大きなダメージになる。
その後の人生の幸福度を左右するほどに。
だけど、幸せになれないわけではない。
感覚は、大人になってからでも身につけることができる。はず。
子供のころに身につけるよりもハードルは高いだろうけど。
この質問者の女性の場合
と言っている。
この欲求が、この意思が、何よりも大事なんだとこの頃実感している。
現状が苦しいのだという認識。
そんな現状を変えたいという欲求。
自分の状態を把握し、それを変えたいと思う、その気持ちがすべてのはじまりになる。
わが家では父と妻子との間に問題を抱えている。
父は自己愛性パーソナリティ障害だったと最近判明して、今は心療内科に通ってもらうことになった。
だけど当の本人には、自己愛性パーソナリティ障害を治したいという欲求がない。
そもそも、自分がそうだと自覚もしていない。
家庭の不和に問題意識はあるものの、それを自ら何とかしようという意思がない。
そもそも、妻子が変わればいいと思っている。
心療内科に行ってくれるのは、一見変えたいという意思があるようでいて、ただ言われるがままに行っているだけだ。
求めに応じてくれるだけマシだという意見もあると思うけど、行っても何にもならないことを思えば、「行かない」という意思を示してもらったほうがマシに思えてくる。
変えたいという欲求が、変えようという意思がなければ何もはじまらないのだ。
父の意思は、子供のころから母親に、世間に、奪われたままである。