COTEN RADIOと世界認識の話しが面白い
最近は朝の5:30前後に起き出して、朝のルーティンやって、仕事する。
みたいな日々を送っています。朝型ライフで健康的かも、なのですがそれに伴って夕食時間も早くなり19時前後に夕食を取ると、お腹も膨れていい感じに眠気に襲われ眠ってしまいます。すると、3時間位眠ってしまうので22時とか、その辺に起き出すわけですね。
そうすると、また就寝するには、ちょっと早くPCの前に座ってブラウジングやらメールチェックなどを思わずしてしまうと、これまた沼って延々、みたいに時間が過ぎます。
さて、今日はそんな感じで起き出してBGMじゃなくて、なにかのきっかけでSpotifyでPodcastingを聞きながらの、ながらブラウズモードに入りました。
Apple Podcast界隈では、常時というか、かなりの頻度でPodcastランキング1位になるCOTEN RADIOの深井龍之介さんという方がジョイ伊藤こと伊藤穰一さんとJoiさんのポッドキャストで対談していました。
その内容がかなり面白かったので、じゃあこの深井さんがやっておられるCOTEN RADIO、聞いてみようと思って聞いてみたら面白かった。というお話です。
最新回である、【52-1】 豊臣秀吉と徳川家康〜歴史を動かす信長イズムの継承~【COTENRADIO秀吉・家康編1】という7/21配信のエピソードを聞きました。
この中で、当時のホトトギス男子3名(信長〜秀吉〜家康)の戦国時代に「世界をみんなを敵だと思っている人」と、「ある程度の人たちが仲間なんだ」と思ってる人たちで、世界観、世界認識が異なると。
属人的な性格の問題ではなく、当時の世の世界認識が、どちらに立脚していたのかの違いだと語っておられる箇所がありました(10:22あたり)
その世界認識の持ち方で、その人の挙動が変わっていくと。
ホトトギス男子3名(信長〜秀吉〜家康)は
という世界認識の持ち主たちだと言うわけです。
なるほど!と。で、耳に意識をそばだてて、ブラウズしていた手は止まって次を聞くわけです。
世界認識。
重要なキーワードだと思います。
キーワードというよりは、むしろ、その世界認識こそが自身の世界を創り出しているのが人間ということも言えると私も思っています。
世界認識は、生い立ち、その環境といったものによって形成されると思いつつも、本人の資質、感受性もあるように思っていましたが、いやそんな属人的なことを乗り越えて、当時の世を、世界を、どう見るか、どう認識するか、一種のパラダイムですね。時代を覆っている全体認識、「時代精神」または「ジートガイスト (Zeitgeist)」と呼ばれるものに大きく左右されているんだなと思いました。ある時代や文化の思想や感覚、信念、価値観などを総括して示すこの言葉、ジートガイストは、社会全体の主流の思考や感情の傾向を表し、その時代特有の文化的、政治的、経済的な状況によって形成される時代精神として哲学や歴史学、社会学などで広く使われてきた言葉です。
その時代を覆う、時代精神の上に個人の世界認識が形成され、その世界認識から個人の歴史が紡ぎ出される。単純化していうと、その時代の、そのエリアの、文化圏の世界常識というのか。
先に引用した信長・秀吉・家康の戦国時代、あの尾張を中心として日本の真ん中辺の、今で言う名古屋界隈のエリア常識に周辺の大名たちも染まっていって、日本の戦国時代の世界認識が形成されたという感じでしょうか。
面白いですね。
COTEN RADIOの深井龍之介さんの経営スタンスや考え方は伊藤穰一さんとのトークの中で多く語られていてCOTENという会社のビジョンや取り組みは以下のようなもの、とのことでした。
かなりの長文引用になりますが、興味深かったので、このテキストを読まれた方で興味を持たれた方はJoiIto's Podcastの二回にわたってのトークを聞いてもらえればな、と思っております。
日本という国の人文知の形成において、2009年から2010年にかけて日本の民主党政権が当時実施した「事業仕分け」の影響は大きかったと思います。
研究継続を断念した、学者も多数おられたようです。
当時の民主党政権が盛んに論拠にしていた「短期的成果主義」を学問・研究分野に求めていったところで、そもそも深井さんが語っているように、人文科学なんて短期的成果、来年の年度末の売上、利益の形成の役になんて全く立たない、そういう学問です。
だけど人文科学によって生み出されてきた人文知は、人が紡いできた豊穣な思考の積み重ねを知ることで、自分たちのものの見方は刷新されていく契機を得るし、自身の世界認識や、価値観を変容させていける。
私の中ではウィトゲンシュタインという言語哲学者が語っていた「言語の限界が認識の限界である」という言葉が、そうであったように、一生、向き合い続ける言葉と出会えるかどうか?
そういう認識を与えてくれる言葉と出会えるかどうかは人の一生を左右する、とそう思っています。
そういう意味で15年前に行われた「事業仕分け」は私からみても無知蒙昧な政治家が行う愚策にしか映らなかった。当時の文部科学省担当の「仕分け人」は、今年2024年に都知事選で落選した蓮舫氏だったことは象徴的です。
さて、脱線しました。ウィトゲンシュタインのことば、に戻ります。
平野超訳では「人の言葉の限界が、その人の世界の限界である」と、ちょっとわかりやすい感じに訳されています。
原文では「Grenzen meiner Sprache bedeuteh die Grenzen meiner Welt.」とウィトゲンシュタインは書きました。
研究者によれば、この一節はよく誤解される箇所であるそうで、私も誤読しているかも知れませんが、誤読を含めて、その一文の連なりが人に、様々な思考を喚起することを示しているとも思うので、人文知の可能性という、この記事の内容としてちょっと書かせてもらいます。
例えば虹の色を、世界各国でどう認識して、どのような言葉で虹の色を言葉で表現しているのか?という事を見てみます。
日本では一般的に赤、橙、黄、緑、青、藍、紫の7色とされていますが、アメリカやイギリスでは藍色がない6色、ドイツやフランスでは紫も青色に含めて5色とすることが一般的です。また、インドネシアでは4色、台湾の一部の部族は3色、南アジアの部族の中には赤と黒の2色だと考えているところもあるようです。アフリカには、日本の7色に黄緑色を足して8色だと認識している人々もいます。
そこには、色から色の連続的な階調があるだけで、この階調を何分割して捉えるか?という色の認識の仕方と、分割した範囲の色の名前をことばの表現として、どういう名前で表現して、共通言語化するかという、その色名セットを使う部族、エリア、文化圏の一つの共通認識が色名という言語となります。その最大公約数が7色の虹という7つの色名として定着する。
つまり、この可視光における色の帯を、どれだけ微分化して、色の名を付けるか?つまり、この色は、あの色とは違うよね?
ああ、確かに違う、違う。
という色の違いが、複数人の間で認められなけれは、え、これと、その色って同じじゃない?という事で見える人には、その微細な違いがわかるけれども、わからない人にとっては赤とオレンジは同じ色程度にしか認識できていない、という事があるわけです。
中国・フランス・ドイツ・メキシコでは5色(赤、黄、緑、青、紫)。
ロシア・アフリカ、東南アジア諸国では4色(赤、黄、緑、黒)。
台湾のブヌン族、アフリカのショナ語族では3色(赤、緑、黒)。
日本では一般的に、虹は7色(赤・橙・黃・緑・青・藍・紫)。
というように虹の色の認識に各国語で違いがあるそうです。
上の書いたように赤とオレンジは、日本以外では、赤としてしか捉えていないようなんですね。(赤の解像度が粗いということになります)
で、これは色が見えていない、という事ではなく、色を識別して、自分以外の誰かと赤とオレンジの色の違いで識別をしないと混乱が起きる。
だから識別できる名前を付けて、赤とオレンジは別もの、としないと不都合があった社会だった、という世界認識上の問題だと思うわけです。
世の中におきる事態は常にグラデーションの中にあると思います。
それを法体系の中では、善と悪、罪と罰を措定していく。
善と悪の間にグラデーションはなく、白か黒か、です。
けれども、事態は実際には、ちょっと善く、ちょっと悪いっていう事態があったりします。罪に問えない罪、罪とは言えない罪。なんていうのもあります。そして、そういう素材は文学素材になったりもします。
人はそういう事態のグラデーションの中を生きていて、そのグラデーションの中の、どこかに身を置く。
つい最近の事例でも、体操女子日本代表でパリ五輪代表を辞退したエースの宮田笙子選手(19)の話題がSNSで盛んに議論対象となります。
立派な罪、罪に問えない罪、罪とは言えない罪。いや、そもそも違法行為などしていないのだから、その罰は重いのではないか?と事態に対する意見のグラデーションが顕著な出来事でした。
そして、そのグラデーションの中のどこに、自身の意見を定めるか?というのは、その人の罪と罰ということの認識にかかってくるわけです。
私達が命名されるのは、弟Aと妹Bとは違う、兄弟の中のCという名前だからこそ、家族の中でCちゃん、と母親が呼んだ時、私だけが母の元に行く訳です。三人がゾロゾロ、母親が呼んだからと行って行かなくて済むわけです。
母親が子どもたち3人を呼ぶ時、全員呼びだければ「わたしの子どもたち〜」とは「みんな〜」とか、そういう類概念レベルの言葉で呼び、個人レベルで呼び出したければ「Aちゃーん」と呼ぶ訳です。
名を付ける、命名とは、自他を分別するための大切な儀式です。
脱線ついでに書きますと、2024年のNHKの大河ドラマは「光る君へ」ですが、その中にユースケ・サンタマリア演じる安倍晴明が出てきます。
陰陽師として有名な晴明ですが、彼の言葉として「この世で一番短い呪(しゅ)は名である」というものがあります。
呪(しゅ)とは物を縛るという意味で、陰陽師が呪詛などをかけるためには、誰に、どういう呪をかけるのか?という意味では、最低限、呪の主語と述語が無ければ呪詛のかけようがないのです。
だから、名というのは呪詛の基盤となる、特定の誰かを、縛るために必要な主語=呪(しゅ)であるわけです。
もっと考えると、命名された「名」を私達は生きることになります。
「一郎」と命名された人のペルソナと、「三郎」と命名された人のペルソナが違うよなぁーということを感じる場面、多々あるかと思います。
名によって形成される人格的な磁場もあるように感じます。
「名」によって他の誰でもない「私」となり、「名」がなければ誰も、私を他と区別し、特定して呼べないわけだから呪詛のかけようもない。
特定して縛る、呪詛の対象とできるのは陰陽師的世界観からすれば名があるから、だから「この世で一番短い呪は名である」ということになります。
はい、ということで虹は共通の自然現象、可視光帯域の光が分光してできた色のグラデーションであるとして、それを認識、命名する細密さと粗さの単位が部族、民族、国などの言語圏で違うのです。
「人の言葉の限界が、その人の世界の限界である」
というウィトゲンシュタインの言葉に戻ります。
虹を4色と捉える文化圏には、かつてフェリシモが出した500色の色鉛筆のような企画は、成立しにくい気がします。
色に対するボキャブラリーが少ないということは、色の識別に、それほと頓着しない文化圏といえ、カラーバリエーションの豊かなデザインから商品を選んでもらう、みたいな色によるデザインバリエーションみたいなことは展開しにくいお国柄、ということでもあるかも知れません。
ということでCOTEN RADIOの深井龍之介さんの話しから、世界認識、言語認識、色名命名と色認識といったところへ、話しはどんどん進みましたが虹色ひとつとっても、世界認識は実はひとつではなく、民族、国家、文化圏で多様であるということ。
そしてその世界認識の多様性を考察し、世界認識の獲得や、理解や、自身の世界観を広げてくれるのが人文科学分野、歴史であり、文学であり、美学であり、哲学であったり、ということになるわけです。
宮沢賢治の『春と修羅』は、多様な色彩語に満ちた作品ですが、この色彩語のルーツは鉱物学によるところが大きいと研究されています。
文学、詩作、といった人文知はもとより、鉱物学といった自然科学を横断的に、シームレスに歩んでいた賢治だからこその色彩感覚に満ちたものですが、それは光の分光スペクトル由来の色彩語ではなく、地上の鉱物由来の色彩語からということが、最後まで地元岩手での農業にコミットしていった賢治らしい由来です。この宮沢賢治のような人文知の知性が他分野横断的に、かつ色彩感覚に満ちた作品を残し、そのイマジネーションあふれる作品世界に私達を今も誘うのも人文知というものが遺してくれた遺産によるものです。
さてCOTEN RADIOの深井龍之介さんが語る人文知の話しに戻ります。
そして筆者も今、ハマっている生成AIの活用という意味では、ツールとして重要な生成AIであるものの、そのアルゴリズム特性からして、それだけでは足りないと。
生成AIの回答の中身を、チェックする、レベル分けする、カテゴリ分類の担保、といったところに人文知の研究者たちの積み重ねてきたものが重要だということです。
生成AIというツールを良きものにするためには、単一の価値観だけに生成AIの使い方、可能性を狭めてしまわないで、人類の世界認識の獲得、拡大、形成の寄与に役立つよう、育てていく、その使いこなしを含めて人文知を重ねていく必要を感じました。
世界を単純化して二項対立的な図式に持ち込む人たちがいる一方、世界がそもそも持つ複雑性、多様性はそのままに、世界認識を更新する、アップデートできる道を残す試みは貴重です。世界は単純ではありません。といって複雑なままでは認識の獲得を得にくい中、明快にしていくのが人文知の役割でもあると思うのです。
世界は単純ではない、といって複雑なままに置いておくのではなく、緻密な観察によって明快にしうるものでもある。それが言語の働きでもあり、とはいえ言語の限界が、私達の世界認識の限界でもある。
その言語の限界を見据えて、語りうる限界の際まで語るという努力を積み重ねるところに初めて世界認識の更新が生まれるうるのでしょう。
他方、限界は限界ということであって、限界の先、語り得ない領域もあるということを認めてはじめて、言語化しえない沈黙の先にある、世界の秘密の一端を私達は覗き見る余地もありますが、ここは襟を正した科学者は語らない領域、語り得ない領域です。ウィトゲンシュタインは、そこについて自覚的でストイックだった、と思います。
ウィトゲンシュタインの言葉に導かれつつ、あれこれ夢想しましたが、ウィトゲンシュタインの言葉に出会う前、言語の限界が認識の限界などとは、露ほどにも思っていませんでした。ですが、言葉が無いということは認識できていない=存在していない、ということと同義です。
赤と黄色しかない文化圏では、橙は認識できていない=無いのです。
認識されなければ、言葉が付きようがありません。赤と橙と黄色は違う、と認識できているから、橙の言葉の必要が生まれ、その色を言い現す、言葉が生まれる訳です。先に掲げた虹のグラデーション図の中に、私達は橙=オレンジ色を認識しています。けれども、橙の言葉を持たない民族にとっては、その色は赤か黄色かに含まれているのです。つまり認識のメッシュが粗くて細かく橙という色認識を持っていない=無い訳です。
問題を打開したり、解決するためには、その問題の何が問題なのか?を言語化できないと解決の糸口が見えてきたりしません。何かがヘンだなーという感じはあっても、言語化されていないと、そのヘンの問題が、何なのかを突き止められていない、つまり問題のグラデーションの幅の中の、どのレンジにある問題なのかがフォーカスできていない、ということです。
そのように、あらゆる問題、課題は、言葉にできれば、8割解決できたも同然になります。言葉によって認識のフォーカスを絞り込めたからです。
陰陽師であれば呪をかける対象にターゲットロックオンできた、ということです。
そのように言葉と認識、その集合としての世界認識は、私たちの考え方、規範を大きく措定していきます。
「人文知と社会の架け橋になる」をビジョンに掲げている今後のCOTENの深井さんの取り組みに注目しながら、生成AIが通過したあとの社会の見通し、世界認識の変化の参考にしていきたいと思いました。