ヒトはなぜ利己的になるか
Hさんは、愛媛県の若いみかん農家だ。彼の住む町は、2年前の西日本豪雨で大きな被害を受けた。山の斜面にあったみかん畑が1000箇所も土砂崩れで流され、町を離れる人や、長年続けたみかん栽培を諦めるお年寄りも出てきた。被害が大きすぎて、行政による復旧はなかなか進まない。このままでは、ただでさえ過疎化・高齢化が進んできた町が、さらに衰退してしまう。
そこで彼は若い農家仲間と一緒に、自分たちで農地の修復や道路の泥出しをやることにした。そして復旧が一段落すると、彼らは地域を盛り上げるために会社をつくり、みかんのネット販売や移住者の受け入れなどを行い始めた。ここまでは、よくある「地域おこし」の話だ。
ネット販売をするにあたり、彼らはちょっと変わった仕入れ方をすることにした。自分たちの生産したみかんをそのまま売るのではなく、いったん地元のJAに売り、同じ町の他の生産者たちがつくったみかんと一緒にされたみかんを改めてJAから仕入れて通販サイトで売る。JAを通すことで仕入れコストが上がるけれど、ネット販売などできない他の高齢農家にまで利益が行き渡るようにしたのだ。つまり彼らの会社は、自分たちが儲けるためではなく、地域を潤すためにある。こんなことをする会社があるだろうか。
これだけでも驚きだけれど、さらに続きがある。彼らの町では晩秋〜初冬のこの時期、みかんの収穫の人手が足りなくなる。都会でコロナで仕事を失って路上生活する同世代の若者たちがいることをニュースで見て知ったHさんは、そうした人たちに短期でもいいから自分の町に来て働いてもらい、再スタートの足がかりにしてもらえたら、と考えて準備しているという。災害復旧にあたって多くの人達に助けられたから、今度は困っている人たちに自分たちが何かしてあげられたら、という気持ちからだ。被災地の人たちが、都会の僕らを心配してくれていることを知り、驚いてしまった。都会の人は、なかなか思いつかないことだと思う。
最近流行りの「ウィン・ウィン」ではない。多少、自分の利益が損なわれても、地域の人たちのため、さらには見知らぬ都会の人たちのために動く。どういう育ち方をしたら、そんな利他の心を持った若者になるのだろうか。あるいは、都会にいる僕がそれを奇異に感じてしまうのはなぜなのか。僕らの社会はいつから、人が利己的であるのが当たり前になったのだろうか。
ここからは想像になるけれど、きっとHさんにとって、生まれ育った町の人達は「他人」ではないのだと思う。人口も多くない自然豊かな町で、小さい頃から地域の大人たちに可愛がってもらって大きくなった。だから、水害で誰かが亡くなったり、みかん栽培が続けられなくなったりすることは、他人事に思えない。自分たちの会社だけが儲かって地域が衰退したのでは意味がないと、きっと思っているのだ。
江戸時代までの日本は地域分散社会で、大部分は7万あまりの自然村の集合体であり、ほとんどの人が自分を「日本人」としてではなく、村落共同体の一員としてアイデンティファイしていたし、それぞれの村ではある程度、自治が行われていた。だが明治維新以降、中央集権化と富国強兵の近代化政策によって、そうした自然発生的な地域コミュニティは解体されていく。国は国家神道や学校制度によって人々を「日本人」「臣民」につくりかえ、さらに戦争中は「隣組」を作らせるなどして地域コミュニティを国家統合に利用した。戦後の高度経済成長にともなって第一次産業が崩壊すると、地域コミュニティの解体は決定的になった。
それでも今も各地に昔ながらの地域コミュニティの名残が残っている。そうしたコミュニティは抑圧的で窮屈な面があり、かつての自民党はそのつながりに根ざして存立してもいたのだけれど、同時にそれは一人ひとりに居場所や役割、生きる意味などを与えていたし、窮乏などから救ってくれる互助的なセーフティネットでもあったのだ。
そして、Hさんのような利他性は、しっかりした持続的な地域コミュニティがあることで育まれるのではないだろうか。都会のマンションで隣に住む人と話したこともなければ、その人のために動こうという気持ちは起きにくい。小さい頃から地域の大人に見守られて育ち、老若男女で祭りや共同作業を行い、さらには自分の面倒を見てくれた年長者を支え、見送る。そういう地域コミュニティの一部であるという実感を持ち、普段から地域で助け合って生きていれば、地域の人の困りごとは他人事ではなくなる。それは、「国」などというフィクションを愛するとかいうことよりも、もっと身体的でリアルな感覚だと思う。
さらに言えば、身近な地域コミュニティの一員として助け合って生きている人は、その延長上で同じように遠くの他人も思いやることができるのではないだろうか。よく田舎に行くと知り合ったお年寄りが野菜をたくさん持たせてくれたりすることがあるが、普段から身近なコミュニティで融通しあっている彼らにとって、遠くから来てくれた客人も同じようにもてなすのは自然なことなのだろう。メディアやネットで遠くの出来事もわかる現代、ローカルコミュニティがしっかりしていれば、グローバルな助け合いも可能になるのかもしれない。
その対極にあるのが、昨今の日本の新自由主義政策だ。すべてを市場での競争に置き換え、弱者は自己責任だとして切り捨てる。それによって日本の第一次産業も、商店街も衰退させられ、地域コミュニティは崩壊してきたのだ。集落で協力して農作物をつくったり、収穫を分け合ったり、近所で子どもの面倒を見あったりする暮らしと違い、何でもお金買う生活では利他性が育つ余地はない。(ちなみに、よく「左翼が日本を駄目にした」などという人がいるが、近代化・産業化と新自由主義政策を長年にわたって進め、中央集権化と国家主義を推進して地域コミュニティを骨抜きにしてきた自民党こそが、実は日本のよきものを破壊してきた張本人だ。)
残念ながら自分は、昔ながらの地域コミュニティの中で育つことはできなかったけれど、次の世代のためには、どうにかしてそういうものを取り戻していきたいと思う。