「人新世の『資本論』」
いま話題の「人新世の「資本論」」を読んだ。素晴らしかった。
僕はマルクスに、微妙な感情を抱いてきた。自分は理系出身だし、マルクス自身の著作は「資本論」はじめ通読したことはない。大学時代にはまだ学生運動の時代の残り香もあり、「資本論って左翼の聖書っぽいけどゴリゴリしてて難しくてめんどくさそうだな」と思っていた。一方で、環境を破壊し貧富の格差を生む資本主義というシステムに違和感を抱いていたこともあり、気になる存在でもあった。
もちろん、ソ連や中国や北朝鮮のような不自由な社会がマルクス「主義」の帰結であるとすれば、そんなものは願い下げだ。ベルリンの壁崩壊前の東ベルリンやユーゴを訪ねたことがあるが、なんとも地味で暗い雰囲気だったのを覚えている。でも僕は、ああいうのは「本当の」共産主義や社会主義ではないのではないか、とも感じていた。ソ連の「五カ年計画」みたいな経済至上主義、生産力至上主義は最悪だとも思っていた。ていうか、「主義」となった時点でダメなんではないか。
その後、いろいろな本を読んだりするうちに、(まともに読んだこともない)マルクスの魅力は、マルクス主義と呼ばれる社会変革理論よりも、資本主義システムの中で人間が人間らしさを奪われてしまう「疎外」という考え方や、社会学の授業で見田宗介先生が説いていた資本と労働の関係、貨幣や価値や交換の理論などの洞察の鋭さに、ちょっと興味を抱くようになった。そもそも貨幣とは何なのか?といった資本主義の仕組みそのものを解き明かす営みは、既存の株式会社やら銀行やらの存在を前提にしてそのダイナミズムを扱う近代経済学より、ずっと本質的で哲学的で魅力的に思えたのだ。
本題に入る。本書で斎藤氏は、人類生き残りのための処方箋として、脱成長、脱グローバリズム、協同組合などの連帯経済、といったものを提唱している。これら自体は僕も前から関心を抱いてきたもので、もちろん大切だけれどそれほど新鮮味はない。
斎藤氏は、たとえばスティーグリッツのような「脱成長資本主義」や「持続可能な資本主義」というものはありえないし、ケインズのように「分配」による格差問題の解決も行き詰まるし、テクノロジーに希望を託すのも単なる逃避なのだということを示した上で、「脱成長コミュニズム」に移行しなければ人類に未来はない、と説く。SDGsだって気休めにしかならないし、当選したとみられるバイデンの「グリーンリカバリー」でも不十分というか、「やってる感」があるだけ本質的解決を遅らせてしまう面もあったりする。
なにより、時代遅れだとか、諸悪の根源だとか、さまざまな変な誤解を持たれてきたマルクスの考えにこそ、実は人類の未来を拓く可能性がある、と示してくれたのが大きい。そう、マルクスが晩年に到達した境地は、実は現代のさまざまな草の根の現場の実践の最前線、たとえばスタンディングロックの先住民によるパイプライン反対運動やスペインのモンドラゴン協同組合といった動きと世紀を超えてシンクロしているというのだ。それらは、北朝鮮や中国の共産党独裁やソ連のスターリン主義の悲劇とまったく別ものなのだ。(ちなみに、ああいう不自由な独裁国家は、ナチスや日本の軍国主義と同じカテゴリーの「全体主義」という)
資本主義は、惑星地球のヒト社会に生まれたガン細胞のようなものだと思う。それは増殖を繰り返し、やがて宿主である人類を殺してしまう。そのゲームの中で競争に敗れずになるべく上層に踏みとどまる工夫を重ねる生き方を選ぶのもいいが、それは個人としても種全体としても持続可能ではないし、本質的な幸福ももたらさない。
大地に根ざした、あたらしい生き方、地域コミュニティのあり方を目指したい。