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【ジブン哲学】五感が鍛えることは、その人の幸せにつながる!〜保育現場の事例から考えたこと〜

島根旅3日間を終えて、今日は高知に移動DAY。

島根旅で、保育仲間とわちゃわちゃ話したのですが、

その中で、「面白いな〜」と感じた学びをシェア。

「五感」と「不便」と「幸せ力」のお話です。

踊りのステップを、目で見て覚える子どもたち

保育現場での、とある出来事。

ある踊りをマスターするのに、踊りのステップを、足のマークと番号を床に貼って、リズムに合わせて、その通り踏めばいいよーとなったそう。

でも、それって、踊りを踊れるようにはなるけれど、本来、踊りを習得するプロセスの中で、子どもに感じてほしい「音を感じて、身体で表現する」という段階をスキップしてないか?

そんな話でした。

視覚に頼りすぎると、声での指示が通りにくい?

この「最近は、なんでも視覚情報に頼りすぎじゃないか」という問題提起。

実際、小さい頃から身の回りのものが「なんでも視覚化」されてる環境にあることで、声での指示が通りにくくなっているように感じているとのこと。

優しさ故に、情報発信者が歩み寄って、わかりやすく視覚化する。情報の受け手も、たしかに受け取りやすい。

一見それは良いことのように見えるけど、中長期的に考えると、その子の五感(視覚以外)の成長を鈍らせてる可能性がある、と。

なるほどなー。

不便って、実はいい面もある

筋肉と同じで、五感だって、使わない機能は衰える。

日々、その感覚を使うということが、鍛えることにも繋がってるんだよね。

不便であることこそが、その人の生きる力につながってるのかもしれない。

最高に便利で、視覚優位な現代社会

これって、五感をぐんぐん伸ばす乳幼児期には、極めて重要であることは言うまでもないけれど、

現代人みんなに言えることなのかもね。

私たちは日々、スマホ・パソコン・テレビ・新聞・SNS・YouTube・ゲームなどに、どれだけの時間を費やしているだろう?

子どもたちだって、これから成長して大人になれば、そんな便利で視覚優位な現代社会で生きていく。

だったら、別に視覚優位の教え方でいいじゃん。これからの社会で生きていくために必要な資質・能力を育ててるんだよ。

そんな考え方もできる。

…でも、ホントか???

ちなみに、五感(視覚以外)を私たちが使うシーンって、いつだろう?

私たちの日常生活で、視覚以外の感覚を使うことって、なんだろう?

たとえば、味覚。
この料理は、うまい・まずい。
この食材は、素材の味が良い・悪い。

意外と、自分軸で判断できてる人って少ないのかも。お店のレビュー評価が高いから、良いお値段するから、和牛だから…みたいな、外からの情報だけで味わってるパターンがある。

たとえば、触覚。
自分の着る服の素材とかは、触って確かめたいか。でも、こだわりない人も多いし、最近はネット注文もあるし。

とりあえず、家事・仕事ができれば、そこまで繊細な触覚は必要ないのかも。

嗅覚や聴覚だって、そうだよね。
人間が知覚しやすいように、「⚪︎⚪︎の香り」って書いてくれてたり、音量調整機能でカバーしてくれてたりする。

そう考えると、現代人って、視覚以外の感覚は使わずに、日々過ごしてるのかもね。

本当にそれでいいの?五感が衰えると、幸せ力が低下する。

ただ、私は「それで本当にいいのか!?」と言いたい。

感性を開いて、心で味わってこそ、日々の生活の豊かさに気付くことができて、幸せを感じながら過ごすことができると私は考えるからだ。

心を殺して、言われた通り、家と会社の往復で、機械のように、無機質な日々を過ごしていては、

「自分の時間」を生きてないじゃないか。
「自分の人生」を生きてないじゃないか。

五感を使うことで得られる幸せの一例

たとえば、食事。
自動車にガソリンを入れるのとは訳が違う。

生存のための摂取だけが、食事ではない。
味わうことで、心が満たされる。

繊細に味わえる感性(味覚)を、私は持ち合わせているだろうか。

たとえば、自然。

太陽がポカポカ気持ちいい。(触覚)
水が流れる音に癒される。(聴覚)
空気が美味しいな。(嗅覚)

そんな風に日々感じることができれば、満たされない心を満たすために、SNSやYouTubeで面白い情報を探し求めて時間を費やすこともないのだ。

五感を鍛える = 感性を磨く = 心のアンテナの感度を高める → 幸せを感じながら生きられる

五感を鍛えることは、感性を磨くこと。それはつまり、心のアンテナの感度を高めることで、幸せに生きるために必要なことなのだ。

もしかしたら、いままで私たちは、そういう教育を受けることなく育ってきたのかもしれないけれど。。。

だから、保育現場で感じた問題提起を、私は「どっちでもいいじゃん」とは思わない。

小さなことの積み重ねだから。似たような経験を繰り返すことで、じっくりゆっくり育っていくものだから。

現代人は幸せを感じながら生活できているか

視覚優位の世の中で、現代人が幸せに暮らせてるなら、別にいいんだろうけど、全然そうなってはいないから。

だからこそ、目に見えるものばかりを追いかけるんじゃなくて、目に見えない感覚こそ見逃さず大切にしてほしい。

だって、心って、人の目には見えないものだから。

「便利」と「安易」は違う。不便を経験するからこそ、見えるもの。

以前、「便利」と「安易」の違いについて書きました。

知ってて使うのが「便利」。
知らずに使うのが「安易」。

文明の利器があることを前提に(当たり前のことだと感じて)、その上にあぐらをかいていては、いつか足元を掬われるだろう。

不便を経験してみないと、本当の意味での「便利」は感じることはできない。

そして、私たちは「当たり前だと感じていたこと」が、実は当たり前ではないことを知って、「ありがとう」の気持ちが湧いてくる。

まとめ

不便を経験することも、一つの学び。

五感を鍛えることは、自分の快・不快を正しく感じ取り、自らの幸せを掴むために必要な力。

転ばぬ先の杖で、その子の生きる力を奪うことがないように。

失敗も、試行錯誤も、悩みも、葛藤も、成長の糧となるように見守って、「助けて!」ってなったら、いつでも助けてあげられる。

そんな人になれたらいいな。

少なくとも、その「目」を持ててる自分でありたい!

ではまた!

しゅんたろう

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