
障害児育児/差別はたいてい悪意のない人がする、を読んで。
我が家には、脊髄の病気で生まれたので、歩けず、車椅子で生活している息子がいます。
で、車椅子の息子に関係ありそうな、本を読みました。
差別はたいてい悪意のない人がする
韓国のベストセラーであり、日本の話ではないのですが。
で、本の中にある「障害者差別」の実例が、日本の話かと思うほどで。
隣の国にちょっと移動したくらいでは、嫌な感じの障害者差別からは逃げ出せないのね、と思って悲しくもなりました。
で、本なんですが、内容が盛りだくさんで、情報量が多すぎて、処理できない私。
そのなかで、なんとか読み取れて、腑に落ちたのはこのエピソードなんですが。
「障害者がバスに乗ると余計に時間がかかるから、その分、追加料金を払うべきではないでしょうか」
という、著者が教えている学生が、ノートに書いた一文が載っていたのですが。
著者は、この視点こそが、差別につながると言っていたんですよね。
なぜなら、「障害者はバスに乗るのに時間がかかる」ということは、
「障害者に時間を奪われたので、奪われた時間分を支払えー」ということを障害者に言っているんですよね。
つまり、健常者側での視点です。
で、私がこのエピソードを読んで思ったことは、
「バスに乗るのに時間がかかるのは、
バスにスロープがないとか、手すりが不十分とか、車椅子のスペースが小さいからじゃん」
「バスが、健常者向けに作ってあるんだから、
車椅子が乗るのに時間がかかっているんだ。
こっちは健常者に合わせてやってんだから、むしろ料金を割り引けー」
なんですよね。
健常者側から車椅子を見ると、「バスに乗ると余計に時間がかかる人」なんですが。
車椅子から見ると、「スロープのないバスを作っておいて、乗るのが遅いと文句を言う健常者」なんですよね。
つまり、「差別というのは、こちら側から見るか、向こう側から見るかで、風景が違っているだけだ」ということ。
なので、自分たちは、どの位置に立っているのかな?
という思いを持って、自分の立ち位置を確認しなければ、差別は分からない。
私も、車椅子の息子が生まれたことで、悪意のない差別を、わずかなら受けてきました。
まあそれは、
「悪意のない差別を受けると、けっこう打ちのめされるんだよ」
ということを知るよい経験になったな、と思っているのですが。
なので、私からは、できる限り、人には悪意のない差別をしたくないんです。
でも、悪意がない分、自分の中の差別を見つけられない。
ですが、この本は、自分の中の悪意のない差別を見つけられる方法を、教えてくれる本でした。
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