松岡映丘筆「宇治の宮の姫君たち」から眺める源氏物語の近代(國華1548号要旨)
菊地絢子
松岡映丘(1881~1938)は、大正・昭和初期に活躍した日本画家で、伝統的なやまと絵の手法による歴史画や物語絵画などの古典主題を好んで描いている。「宇治の宮の姫君たち」は、現在は六曲一双屛であるが、もとは六曲一隻屛風として制作された。大正元年(1912)の第6回文展には、現在の右隻にあたる隻が出品され、初入選を果たしている。
右隻最大の特徴は、古典的なやまと絵技法を用い、現存最古の源氏絵である国宝「源氏物語絵巻」を参照して図様を構成することにある。右隻に描かれる橋姫巻の一場面は、「橋姫」から姫君たちの図像を、「東屋二」から薫の図像を引用し、一つの画面に新しい図様として再構成したものである。姫君たちに背を向け、左隻の月へと視線を向ける薫の図像の引用には、宇治での垣間見からはじまる薫と大君の一連の物語に対する映丘の物語解釈が投影されている。これは、薫と大君の贈答歌をはじめ原典における2人の関係性にたびたび用いられる「隔てる」の語意を軸にしたものである。映丘は、「国宝源氏物語絵巻」から単にそれらしい図像を引用するのではなく、三条の隠れ家に浮舟を訪ねた薫が締め出されてしまうという「隔てる」に見合ったエピソードを持つ「東屋二」の薫の図像を引用したのである。
左隻の主題は、須磨巻の源氏が左大臣邸の勾欄で桜を眺めながら中納言の君と須磨出発前の別れを惜しむ場面と比定されている。しかし、その内容は「宇治の宮の姫君たち」という作品タイトルには相当しない。左隻も右隻と同様に「宇治の宮の姫君たち」を描くものとして、椎本巻の八の宮の死後、薫が宇治の大君を訪ねるその後の物語を描いたと比定したい。左隻の椎本巻の季節とは齟齬のある桜を含む春の庭の情景は、薫が弁の君とする自身の出生に関する昔語り、つまり柏木と女三の宮(薫の実父母)の出会いの物語を想起させるモティーフではないだろうか。
映丘は源氏絵という古典主題を自己の文脈に息づかせるにあたって、主題に対する丁寧な読み解きから自己の解釈という世界を展開させる。一見擬古的な、定型イメージのひねりのように見える引用と再構成は、自己の解釈という新たな表象を付与するためのものであり、そこに彼の功績があるといえよう。
一方で、映丘は新やまと絵として文展で評価を得るために、物語解釈や絵解きといった強い物語性を諦めざるを得なかったとも言える。「宇治の宮の姫君たち」以降も映丘は源氏絵を描き続けているが、いずれの作品でもその背景に潜む物語への眼差しより、趣向を凝らした構図や風俗的な動作表現によって劇的にワンシーンを切り取ることへ関心が向けられていることは明らかである。