うつ回復に役立つ仏教の教え10選
この記事では、うつ病の苦しさを楽にしてくれる仏教の教えをまとめました。
仏教とは簡単に言うと「苦しみを取り除く考え方」のことです。うつ病というのはまさに「苦しい」という感情で心が埋まってしまった状態です。うつになると視野が狭くなり、ネガティブな感情から抜け出せなくなってしまいます。
そこから抜け出すためには、自分と向き合い、うつになりやすい考え方や行動を変えていくことが大切です。
この記事では、うつの回復に役立つ仏教の教えを「脱うつ仏教10選」として紹介しています。
何度もうつ状態を繰り返してしまう、どうやってうつから抜け出したらいいのか分からないという人は、ぜひ参考にしてみてください。
うつ病になったのは誰のせい?
本題に入る前に、1つ質問させてください。
あなたはうつ病になったのは、どうしてだと思いますか?
これまでいろんな方のお話を聞く中で、「ブラック企業のせいでうつになってしまった」とか「恋人に裏切られてうつになった」とか、様々なうつのきっかけを聞いてきました。本当に大変な思いをしてきた方を、たくさん見て来ました。
また、とくに大きな事故・事件などが起こった訳ではなく「なんとなくやる気がでない日が続くようになった」という方もいます。
私自身は、うつになったきっかけは「親の離婚」と「交通事故」と考えてきました。
きっかけと書いていますが、正直、うつになったのは離婚の原因を作った父のせいだと思っていました。
父は私が大学生のときに仕事を放り出し、家のお金を持ち出し突然姿を消してしまいました。「一体何が起こってるの?」「パパどこ行っちゃったの?」と当時はかなり困惑しました。捜索願いを出しても見つかりませんでした。
父は、1年半後にホームレスのような姿で借金を作って帰ってきました。そして母と離婚しました。驚いたことに悪びれた様子がなく「俺は苦しくて仕方なくて家を出たんだ」とのことでした。父には残された私たち家族の苦しみではなく、自分の苦しみしか見えないようでした。
当時、父にいろんな怒りを感じたし、私もうつになって苦しみました。うつ病になったことを父のせいにして恨む気持ちも持っていました。父にいくら「俺は苦しかったんだ」と言われても「私のほうが苦しいのに」としか思えませんでした。
自分の苦しみしか見えていなかったのは、私も同じでした。
仏教の基本は「自分の中に問題を見ること」です。
私がうつ病になったのは誰のせいでしょうか?父のせいでしょうか?両親の離婚のせいでしょうか?離婚の2ヶ月後に遭った交通事故のせいでしょうか?
うつ病になったということは、大きな視点で見るとこれまでの生き方がズレている、本来の自分を生きられていない可能性が高いです。
生き方がズレるのは、自分と向き合えていないときです。自分を大事にするとか、心の声を聞いてあげるとか、将来の幸福のために長い目で今どうすればいいか判断する、とかができていないのです。
本来の自分を生きられていないと心が苦しくなっていきます。そこに何か1つきっかけが起こるとうつ病を発症してしまう、ということが起こります。
自分の中に問題をみること
うつ病になったことを誰か(何か)のせいにしているうちは、うつはよくなりません。(昔の私のことです)
自分勝手な父のせいでうつになったと思っていた私も、自分と向き合う中で私自身の中にもいろんな問題があったんだと分かっていきました。自分の中にうつ病の原因を見たときに、苦しさが和らいでいきました。
そして今では「パパも苦しかったんだな」と父の苦しみに思いが至るようになりました。
「あなたは、うつ病になったのはどうしてだと思いますか?」
と聞きましたが、今どう思っていても、
「うつ病になった原因を、自分の中に見ること」
これがとても、大事になってきます。
すでにお読みいただいた方からの感想が届いていますので、ご紹介します。
読者様の感想
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Dさん
このnoteを読み終わる頃、自分が悩んだ時期は“間違っていない” “大丈夫、自分は這い上がれる”と優しい気持ちになれました。
自分にとって、仏教の教えは刺さるものばかりで、この教えは脱うつだけでなくビジネスや社会で生きる上でも大切な考えだと感じました。
2600年もの間、人を救う教えは大切な考え方を教えてくれます。
コキリさんの過去の辛かった経験も知れたのは勇気づけられました。
自分に染みましたし、鬱で悩んでいた昔の彼女がいましたが、この考えは伝えてあげたかったなーっとすら本当に思います。
Rさん
読んでいるうちに、近所のお寺の住職さんから話を聞いているような感覚になりました。 人の責任にしたくなることがあふれている今の時代、自分の責任を意識することはむしろ余計なストレスを溜めないためにも必要なことだと思いました。
Kさん
自分は読書が苦手なので、音声データにしてもらえると嬉しいなと思いました。
Rさん
きっかけが何であろうと自分で立ち止まり振り返り分析出来るのはすばらしいことと思います。何もかも上手く行く人生何てありません。壁にぶつかったり暗闇に迷い込んだり。でももがいている所に一筋の光が見える様な仏教の教えは心が軽くなります。それを自身の体験でわかりやすく解説してくれてるコキリさんの言葉は心があたたまります。
Mさん
読みやすくて率直にすごい!って思いました。
誰かにアドバイスしてもらうとき、あーでしょ。こうしたらいいよ。と自信満々に言われると、その圧で素直になれないことがある。
コキリさんの文はお寺の住職さんの話聞いてるみたい。指が勝手にスクロールしてました。
Sさん
現実は常にこちらの都合にお構いなく、過酷ですが、苦しくなったときに読むのがおすすめです。
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それではここから、うつからの回復に役立った仏教の教えを「脱うつ仏教10
選」として紹介していきます。
私はどうかな?と自分に問いかけながら読んでみてください。
脱うつ仏教10選
1 まずはこの世には苦しみがあることを受け入れよう(一切皆苦)
あなたはうつ病になったことを、すぐに受け入れることができましたか?
私は、全くできませんでした。
うつ病と診断された20歳のとき、誰にもバレないように一生懸命隠そうとしました。当時大学寮に住んでいたので、廊下で他の寮生に会うときには笑顔を取りつくろい、自室に戻ると布団の中でうつうつと過ごす、ということを繰り返していました。
隠そうとした理由は恥ずかしかったから、弱い自分を認めるのがイヤだったからです。うつ病になったことで周りの友達から「弱い人」と思われるのを恐れていました。うつ病になるような自分には価値がないと思っていました。
あの頃の私に「うつ病はちっとも恥ずかしいことじゃないよ。受け入れようよ」と言っても聞く耳を持てなかったと思います。
結局うつが重症化して周りにはばれてしまったのですが、それでもやっぱりうつ病になった自分を認めることが苦しかったです。
服薬を開始し、1ヶ月くらいかけてだんだんと回復していき、すっかりよくなったと思ったときには、私は自分がうつ病になったという事実を抹消しようとさえしました。
うつ病になったことを知っている友達には「あのことは忘れてください」と言いたかったし、うつになったことは悪い夢、人生の黒歴史だったんだと思いました。
そして元気に大学に復帰して、うつ病のことなどすっかり忘れ去った3ヶ月後に再発しました。そこから10年以上に及ぶ、うつ病再発地獄に落ちました。
一切皆苦(いっさいかいく)というのは、一見すごく苦しそうな言葉ですね。漢字を見るといっさいがっさい全部苦しいの?と思っていまいそうですが、違います。
一切皆苦とは、
この世界は、思い通りにならない。まずは、この世には苦しみがあることを受け入れよう
という意味です。
この世界には、いろんな苦しみがあります。戦争、暴力、病気、愛する人との別れ、貧困、裏切り…など自分と直接関係あってもなくても色々な苦しみが存在しています。
うつ病という苦しみもまた、この世にある苦しみの1つです。
まずは苦しみがあることを受け入れる。
自分がうつ病になって苦しいことを受け入れる。
これがとても大事で、受け入れたほうがラクになります。
逆に苦しみから逃げようとすると、追いかけてきます。
私は何度も苦しみに追いかけられて、逃げて、また追いかけられて、また逃げてを繰り返しました。なんで逃げても逃げても追いかけてくるの?と怒りを覚えたこともありました。
そしてもう逃げられないと観念したときに、そうか、この苦しみを作り出しているのは自分自身なんだ、自分からは逃げれないもんなあ、と分かりました。
うつ病になったきっかけは自分の外側にあっても(私の場合、親の離婚や交通事故等)、それはただのきっかけに過ぎず、結局は自分らしく生きられていないこと、苦しみを生み出す考え方や行動をしていることが根本原因だと悟りました。
そこから、自分自身と向き合う旅が始まりました。
長い長い旅路でしたが、少しずつ自分を見つめ、苦しみを生み出す考え方や行動を直していきました。今では「人は、苦しみを感じられるからこそ喜びを感じることができる。苦しみを感じられなければ、喜びを喜びと感じることもできないんだ」ということも、分かりました。
まずは「自分はうつ病になったんだ。自分は苦しいんだ」ということを認めてみてください。
「うつ病の自分」を受け入れようとすることから、回復への道が始まります。
第1の教えは
一切皆苦(いっさいかいく)を受け入れよ
すぐに受け入れられなくても、構いません。私みたいにいっぱい時間がかかってしまっても大丈夫です。まずはうつ病になった自分を受け入れよう、認めようと思ってみてください。
2 苦しみは永遠には続かない(諸行無常)
うつのときに、何よりも苦しかったことは「この苦しみがずっと続くのかもしれない」と考えてしまうことでした。
その考えがさらに進んで、「苦しみが終わらないなら、もう死んだほうがマシ」と思うこともありました。
そんな暗い考えが頭の中をぐるぐる回って、なかなか抜け出すことができませんでした。
もしも「苦しいのは今日までです」と分かっていたら、今日1日の苦しみは耐えられるかもしれません。終わりが見えることで安心できるかもしれません。いつ終わるか分からない、ずっと続くかもしれないと思うから苦しいし、ときには絶望してしまいます。
諸行(しょぎょう)とは「全てのものごと」
無常(むじょう)とは「常に移り変わっている、変わらないものはない」
という意味です。
これは、仏教の根っこの考え方の1つです。
昔、学校で習った『平家物語』の冒頭に「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり」という有名な一節があるので、知っている人も多いかもしれませんね。
この世に、永遠に続くものは存在しません。うつ病の苦しみも、永遠に続くことはありません。「一昨日も苦しかったし昨日も苦しかったし今日も苦しい」という状態であっても、実際には移り変わっています。
注意して観察してみると、苦しさがふと和らいだり、柔らかいすきま風が入って来る瞬間があります。常に動いて変わっていっています。止まっているようで、止まっていません。辛いときも楽しいときも、刻一刻と変化しています。
「この苦しみがずっと続くのかも」と思うのは未来の苦しみを考えてしまっている状態です。未来の苦しみを考えると、今が苦しくなります。「だってこれまでも苦しかったもの」と過去の苦しみをなぞっても、やはり今が苦しくなります。未来や過去にとらわれてしまうと、今の苦しみを増大させてしまいます。
過去が苦しかったからといって、今後ずっと苦しいわけではありません。今が苦しいからといって、未来もずっと苦しいわけではありません。
苦しいときは、焦ったりもがいたりしてしまうかもしれませんが、溺れているときにジタバタすると沈んでしまいます。ジタバタするのをやめて体の力を抜くと、プカリと浮かんできます。だから、もがくのをやめて、雨が止むのを待つように苦しみが通り過ぎるのを待ってみてください。
私はうつがひどく動けなかったときは、「苦しみのないところに喜びなし(苦しみを感じられなければ喜びも感じられない)」という言葉をおまもりに、布団の上でボーっと苦しみが通り過ぎるのを待ちました。
少しずつよくなる兆しが見え始め、だけどまた苦しくなり、また少しよくなり、を繰り返しゆっくりと回復していきました。
今、苦しみが通り過ぎるのを待つことができれば、明日は何が待っているか分かりません。明日はまだ何も描かれていない真っ白な1日です。希望の光が差すかもしれません。良くなる兆しが見え始めるかもしれません。だっていつも移り変わっているから。
第2の教えは
諸行無常(しょぎょうむじょう)を意識せよ
苦しい時間から抜け出そうともがくのではなく、辛いときも過ぎ去っていくんだなあと、移り変わりを意識してみてください。
3 うつ病のプラス面に気付け(苦楽表裏)
「うつ病になって最悪だったこと」はたくさん挙げられても、「うつ病になってよかったこと」は、全然思い付かないという人もいると思います。うつ病はすごく苦しい病気なので、それも当然のことだと思います。
私もうつ病になりたての頃は、「この世にこんな苦しさがあるのか」と驚き、数年経っても治らなかったときは、「なんでこんなに苦しまないといけないんだ」と怒りを覚えました。うつ病になっていいことなんて、1つも思いつきませんでした。
苦楽表裏(くらくひょうり)とは
苦しみの裏には喜びがある、喜びの裏には苦しみがある
という意味です。
どんな物事でも、いいことばかりで何もマイナス面がないとか、悪いことばかりで何もプラス面がないということはありません。苦もあれば楽(喜び、幸せ)もあります。
また、今は苦だと思ってもそれが楽に変わったり、楽が苦に変わったりということもあります。
もちろん、うつ病にもマイナス面もあれば、プラス面もあります。
マイナス面はたくさん思い付きそうなので、ここではうつ病のプラス面を見ていきます。
まず、うつ病になったことで人生を立ち止まって見直すことができる、ということが挙げられます。
冒頭にも書いたように、うつ病になったということは、どこか生き方にズレがある可能性があります。たとえば今のままの生活を続けると過労死したり、後悔したり自分らしい人生を生きられない、ということがあるかもしれません。
うつ病になると、強制的に人生をストップさせられます。立ち止まるなんて嫌だと思うかもしれませんが、これまでの人生を見直し、より自分らしく生きられるチャンスを得られたということでもあります。
また、うつになると、元気なときにできていた様々なことが、できなくなってしまいます。
うつの程度にもよりますが、私の場合、大好きな読書ができなくなったり、洗顔・シャワー・着替えなど生活の基礎ができなくなったこともありました。
そのときはすごく苦しかったのですが、時が過ぎ、またできるようになったときの喜びも一塩でした。「また、本が読めるようになった!!!!!」という喜びです。
おそらく私は、うつ病にならなければ、本が読めることなんて当たり前だと思って生きていたと思います。
当たり前じゃないんだと思えると、自然と感謝の気持ちが生まれました。「本が読めてありがたいなあ」という気持ちです。
私はうつ病になる前は「感謝って何ぞや」という傲慢な人間でした。人に何かしてもらったときは「ありがとう」と言うのですが、ただの反応というか習慣になっていました。
心から「ありがたい」という気持ちが芽生えたのは、うつ病になってからでした。病気になってようやく、当たり前が当たり前じゃないと気付き、感謝する気持ちが芽生えました。
感謝できると何がいいのかというと、「自分が、自分が」という自己執着がゆるまり、人のことに目が向くようになりました。誰かを喜ばせたいという気持ちが湧いてきました。すると自分の心がラクになりました。
もう1つ。うつ病になったことで同じようにうつで苦しむ人の気持ちが分かるようになったことが挙げられます。
「幸せはみな同じ顔をしているが、不幸はそれぞれ違う顔をしている」(『アンナ・カレーニナ』)という有名な言葉がありますが、苦しい気持ちは苦しんだ人にしか分かりません。
他の病気も然り、うつ病の苦しさは、うつ病になった人にしか分かりません。気持ちが分かるというのは、寄り添えるということです。うつ病になったという経験を生かして、同じように苦しむ人の役に立つことができます。これはすごく大きなことだと思います。
他にも、うつ病のプラス面はいろいろあると思います。ものごとには両面があるという視点をもって、マイナス面ばかり浮かぶうつ病のプラス面を、ぜひ探してみてください。
第3の教えは
苦楽表裏(くらくひょうり)に気付け
うつ病は苦しいばかりで何もいいことがないと思ってしまうときは、この教えを思い出してみてください。
4 完璧主義は捨てよ(中道)
うつ病の人に多い性格に、「完璧主義」があります。なんでも完璧にやらないと気が済まない。100%を目指したくなるのです。
たとえば私はうつを発症した大学生のときに、脱うつ計画の1つとして「毎日、朝日を浴びる」という目標を立てました。(朝日はセロトニンという脳内物質が出て、うつ病治療に効果があるとされています)
完璧主義だった私は、1日でも起きられない日があると「自分はダメだ」と落ち込んでしまい、「完璧にできないくらいなら、やめてしまおう」と朝日を浴びること自体を放り出してしまいました。「100がダメなら0でいい」という、極端な選択をしてしまうのです。
ここで頭をやわらかくして「今日はお休みでいいや。できるときにやればいいや」と思えるとラクなのですが、なかなか性格を変えることはできません。
100か0かという極端な思考は、苦しさを生み出してしまいます。
中道(ちゅうどう)とは、
両極端にかたよるのはよくない
という意味です。
ラクな方に走るのもよくないし、逆に頑張りすぎるのもよくありません。
要するに、バランスが大事だよ、ということです。
これはシャカが、快楽生活と苦行を両方経験した結果、両極端はいけないと気づき、木の下で静かに瞑想したことで苦しさから解放された(悟った)ことに由来しています。
うつ病の人は、頑張りすぎる傾向にあります。たくさん頑張って自分にムチ打って、うつになってからもまだ頑張ってしまいます。
頑張りすぎた結果、ゆううつで何もできなくなるということが起きてしまいます。私は、まさにこれでした。
さらに、朝日だけでなく、大学生のときの私には、本を読んだあとに必ずしなければいけない自分ルールがありました。それは読み終えた本の「題名、作者、出版社、出版年月日、値段、心に残ったフレーズ」をノートにメモすることでした。
折角読んだ本の内容を忘れてしまってはもったいないし損だから、というのが理由でした。
だから、いつでも思い出せるように読書ノートを作っていました。
この読書ノートは私の心強い相談相手で、悩んだときに開くと、そこにある言葉に励まされました。
面倒くさいと思うこともありましたが、書かないと気が済まず、しんどいときでも書いていました。「本を読んだらノートに記録する」という自分ルールが守れないとイライラしました。書けないときが重なるとイライラが募り、ついには「ちゃんとできないくらいなら、やめてしまおう」と読書ノート自体を放り出してしまいました。
私には他にも、自分で勝手に作って自分を苦しめている自分ルールがたくさんありました。
これではダメだと思い、少しずつ自分ルールを見直していきました。よく考えた結果、「朝日はいいや。私はそもそも朝が苦手だし」と朝日は捨てることにしたり、「本を読んだあとは、題名と心に残ったフレーズを1つメモっておけばいいや。知りたかったらあとでいくらでも調べられるんだし」ということにしました。
他にもいろいろあった自分ルールを、少しずつゆるめていきました。すぐに変えることはできず、気付けば100を目指して頑張ってしまっていましたが、気付いたときに意識して、少しずつゆるめるようにしました。
今では意識しなくても、だいぶゆるやかに生きられるようになりました。
たとえば毎日筋トレすると決めて、できない日があっても「そんな日もあるよねー」と思えるようになりました。筋トレ自体をやめてしまうのではなく、できるときに少しずつやり続けています。
ゆるーりと10年以上書き続けている読書ノートは4冊目になり、1000冊以上の本の記録ができました。たくさんの心打つ言葉の詰まったこの読書ノートは、今では私の宝物になっています。
第4の教えは
中道(ちゅうどう)を目指せ
まずは極端な考え方をしていないか、完璧主義に陥っていないか、自分を見つめ直してみてください。バランスのとれたしなやかな心を持つために、少しずつ自分ルールをゆるめてみてくださいね。
5 自分のことばかり考えてない?(我執)
我執(がしゅう)とは、
自分に執着する
という意味です。
人は自分のことが好きです。自分が世界の中心で、自分のことばかり考えてしまいがちです。
「いえ、私は自分が大嫌いです」と言う人もいるかもしれませんが、「大嫌い」というのは結局、自分を強く意識している状態です。つまり自己執着している状態だということです。
自分にとらわれているからこそ「自分のことが好き」とか「自分のことが嫌い」などの感情が生まれます。
私もかつては自分のことが大嫌いな人間の1人でした。いつも「自分をやめたい。違う誰かになりたい」と思っていました。子どものときには違う誰かになった空想遊びをよくしていました。
大きくなってからは違う誰かになるのは無理だと気づき、自分を少しでも好きになろうと努力しました。
大学寮の役員に立候補したり、教員免許をはじめ資格を色々取ってみたり、海外で仕事してみたり。
それ自体は間違っていなかったと思うし成長できた部分も多くありましたが、いくら頑張っても自分を好きになれないし苦しいことに変わりはありませんでした。
うつ病になってからは苦しさにとらわれて、それまで以上に「私は苦しい」「私は辛い」「私は不幸だ」「私は…私は…」と自分のことばかりになってしまいました。
「私の苦しさを分かって!!!」という一心で友達にうつの苦しさを話し、苦しさが伝染してしまい傷つけてしまったこともありました。苦しさを吐き出すことは大事だけど、相手は選ばないといけないと知りました。うつの話を聞くだけで苦しくなる人もいるのです。
自己執着に陥っていた私は「自分、自分、自分は苦しいんだー。誰か分かってくれー」となってしまいました。
「自分のことで頭がいっぱい」という状態から抜け出すために、自己執着をゆるめる仏教的実践をしてみました。自己執着をゆるめるには、「今あるものに感謝すること」が有効だそうです。
感謝したらなんで自己執着がゆるまるんだろう?と思いましたが、とにかくやってみることにしました。
苦しいときは「あれもない、これもない」とないものに目が向きがちですが、とにかく「今あるもの」を無理にでも思い浮かべ、1つずつノートに書いていきました。
「私には家族がある、友達がある、毎日食べるものがある、屋根のある部屋がある、着るものがある、テレビがある、福祉の制度がある……」など「あるもの」を1つ1つ書き出しました。
普段は意識していないけど、ノートに書いて客観的に見てみると、実はいろんなものに囲まれ守られているんだなあと思いました。それらを当たり前と思わずに、毎日寝る前に思い出して感謝してみることにしました。
感謝すると、苦しさが少しやわらぎます。何かに感謝している状態は、「自分以外のこと」を意識している状態なんだと分かりました。感謝することで「自分が、自分が」という自己執着から少しだけ離れることができます。そして心を広く持つことができます。
だけど、気を付けていないとすぐにまた「自分のことで頭がいっぱい」という状態に戻ってしまうので、意識して周りにあるものに感謝し自己執着に陥らないように気を付けていました。
ちなみに、自己執着がゆるまると、「自分が好き」とか「自分が嫌い」という気持ちよりも「好きなところも嫌いなところもあるよなあ。まずはどっちも受け入れよう」と思うようになりました。
そして自己執着がゆるまるほど、心が広がりラクになっていきました。
第5の教えは
我執(がしゅう)をゆるめよ
自分にとらわれることが苦しさを増大させていることを、まずは知ってください。そして「あるものに感謝すること」で自己執着をゆるめてみてください。
6 曲がった見方は手放そう(邪見)
うつ病になると「私の人生にはもはや苦しみしかないんだ」、という考えにとらわれることがあります。また「この苦しみには終わりがないんだ」という恐ろしい妄想に憑りつかれることもあります。
このような曲がった見方のことを邪見(じゃけん)といいます。
うつが深刻なときは邪見に支配されてしまいます。先にも書いたように、私もうつ病期、「これは終わりのない苦しみなんだ」と考えてしまい、ますます苦しさを増大させていました。
邪見を捨てよとは
曲がった見方は、手放そう
ということです。
あなたはうつで気持ちが落ち込んでいるとき、どんな風に考えがちでしょうか?
「一生苦しいのかも」「もう定職に就けないかも」「お金がなくなってホームレスになるんじゃないか」「この先、恋人ができないかも」などネガティブな思考が頭の中をぐるぐる回っているなら、一旦ピタリと止めて「私は今、邪見にとらわれているんだ」と考えてみてください。
そして正見(しょうけん。正しい見方のこと)を取り入れることが大切です。
正見とは、客観的な、視野の広い見方のことです。客観的な視点を取り入れるには「事実や事例をインターネットや本などで調べる」「人に相談する」などの方法があります。知らないから怖い、不安だということもあります。
たとえば、「お金がなくなってホームレスになるんじゃないか」という邪見。
私は、お金がなくなることが本当に怖かったです。お金がなくなってホームレスになって、誰にも相手にされずに孤独に死んでいくのかな。でもビビリだからなかなか死ねずに生き恥さらしそうだな、とか考えては苦しみの底に沈んでいました。
苦しい考え以外が頭に入ってこず、延々と考えては苦しみ続けました。
これではいけないと思い、あるとき勇気を出してお金のことと向き合うことにしました。今持っているお金がいつまでになくなるか、年金や保険の加入状況、働けない場合、どんな福祉制度を利用できるか、など具体的に調べてメモしていきました。
1番どん底まで落ちたときどうなるんだろう?本当にホームレスになるのかな?と考えたときに、生活保護が思い浮かびました。生活保護という制度があることは知っていましたが、思い切って詳しく調べてみました。(それまでは怖くて調べられなかった)
生活保護の申請には、収入が最低生活費以下であること、持ち家や車などの資産や貯金がないこと、親族の援助が受けられないこと(申請の際、三親等以内の親族に連絡がいく)などが必要だと分かりました。
調べてはみたものの、実際に生活保護を受けることを想像すると大きな心のブレーキがかかりました。
友達に言ったら心配されたり引かれたり、みじめな思いをしそう。申請のときに親や親族に連絡がいくから悲しい思いをさせそう。親も一緒に苦しむことになるんじゃないか。それにやっぱりみじめ、とか考え、生活保護は絶対に受けないようにしなきゃと思いました。
生活保護まで落ちた自分が受け入れられないというか、恥ずかしかったです。
私はもともと見栄とかプライドがすごく強くて、学歴が低いとバカにされるとか、なにか人に自慢できることがほしいとか、自分を大きくみせることばかり考えていました。 今思うと恥ずかしいくらい「自分のこと評価してー」と思っていました。
そんな気持ちが少しゆるんだのは、本やインターネットで仏教の勉強をしているときでした。
「生活保護を受けている自分が人からどう見られるかばかり考えていたけど、 生活保護という制度がある時点でめちゃくちゃ恵まれていないか?それにみんなそれぞれ事情があるのに、私自身が生活保護の人を見下す気持ちを持っているんじゃないか」と思ったのです。
生活保護はみじめで恥ずかしいのではなく、国民みんなで助け合おう、働けない人の分は元気な人が援助しようという素晴らしい制度のはずです。
ちなみに日本では1874年に制定された恤救規則(じゅっきゅうきそく)が生活保護のさきがけだそうです。今よりずっと生きるのが厳しかった時代を思えば、福祉制度に守られている現代を生きる自分は幸せだなあということに気づきました。
それに、もし生活保護を受けることになっても、ずっと受け続けるかどうかは分かりません。抜け出せたときに感謝して恩を回していく。また、生活保護を受けながらでも何か人の役に立てることを探してみる。それが大事なんじゃないかと思いました。
怖がってないできちんと調べてみると現代の日本では、お金がなくなっても最低限の生活は保障されていることが分かりました。
もう1つ。「恋人ができないかも」という邪見について見ていきたいと思います。
うつが長引いていた20代のとき、今後彼氏ができないんじゃないか、結婚できないんじゃないかという不安がありました。
病気の自分なんて価値がない、男の人は健康な女性が好きに違いないと思い込み、私は孤独に年を取るんだという恐怖に包まれてしまいました。
もともと自己肯定感は低いほうでしたが、うつ病になってからはさらに、自分で自分の価値が感じられなくなってしまいました。
長らく自分の価値が感じられないことに苦しみましたが、あるとき「うつ病の自分に価値がない」というのは「うつ病の人に価値がない」と思っているんじゃないかと考えてみました。
さきほど「私自身が生活保護の人を見下す気持ちを持っているんじゃないか」と書きましたが、「私、人のことを見下していないか?」と考えてみたのです。
すると私自身、人をバカにする、見下している部分があることに気づきました。うつ病の自分は恥ずかしい、逃げ出したいと思っていましたが、それは他のうつ病の人にも関わりたくないということだったのです。
自分が人をバカにしたり見下したりする人間だということが苦しかったですが、認めて向き合っていこうと思いました。逃げるから苦しいんだとも感じていました。
人を見下してしまうのはなぜかを調べてみると、「自己肯定感が低いから。自己肯定感の低い人は他人を下げることによって自分を上に見て、自尊心を保とうとする」のだそうです。
人と比べることとか、何ができるとかできないとかで自分の価値を決めようとすることに問題がある、ということでした。
と言われても、すぐに自分で自分の価値を認めることは難しそうだったので、とりあえず人と関わるときに自分を大きくみせるのをやめてみました。見栄を捨て、等身大でコミュニケーションをとるように努力しました。
あとはあえて、自分の嫌いなところを書き出して見つめてみました。目を背けないで真正面から自分のイヤなところを見てみると、苦しいのですがなぜか逆に、ちょっとだけ自分のことを好きになれました。
仏教式に自己肯定感を上げる方法は、先ほども取り上げた「感謝すること」だそうなので、今あるものや周りへの感謝を深めるよう努めました。
自分が感謝する人になると自己執着がゆるまり心が広がるだけでなく、人からも感謝されるようになります。人から感謝されると、自己肯定感が上がるそうです。
また、自分の好きなところや成長できたところを書き出して、メモする習慣もつけました。
時間はかかりましたが、少しずつ自分を受け入れられるようになってからは、だんだんと「うつ病とかそうでないとか関係なく、自分にもちゃんと価値があるんだ」と思えるようになりました。
自分の価値を認められると、人の価値も感じられるようになっていきました。うつ病の自分を受け入れられると、だんだんと病気であることをさらけ出せるようにもなりました。
すると出会いもあり、彼氏ができたりもしました。「病気というのは一部分であって、他の魅力がいっぱいあるんだよ」と言ってもらえたことが自信になりました。
視野を広げてよくよく見てみると、うつ 病でも彼氏彼女がいたり結婚したりしている人はいくらでもいることを知りました。
『ツレがうつになりまして。』や『それでも、愛してる』など漫画や映画にもなっているし、私が勝手にうつ病になったらパートナーができないと思い込んでいただけでした。
「うつ病彼氏彼女とどう付き合うか」というブログやアドバイザーなども出てきていて、社会的にも人ごとではなくなっています。
今では、病気でも障害があっても自分で認めて受け入れられている人はかっこいいなと思います。病気で苦しんだ分、人の苦しみの分かる、思いやりのある人が多いなあとも感じています。
うつが重いときは、前向きな考え方がなかなか出てこないものです。そんなときは「邪見に支配されているんだ」と知って、ぐるぐる回るネガティブな思考を止めてください。
そして少し落ち着いたときに、インターネットを使ったり人に相談したりしてみて、客観的な広い視野で考えてみてください。
第6の教えは
邪見(じゃけん)を捨てよ
苦しい考え方に憑りつかれている人は「これは邪見だ」と自覚して手放してみてください。そして客観的な広い視点で見直してみてください。
7 止まって冷静になると物事を正しく見ることができる(止観)
止観(しかん)とは
止まって冷静になると、物事を正しく見ることができる
という意味です。
うつ病の方からの相談でよくあるのが、「苦しさから突発的な行動を取ってしまって困っている」というものです。
たとえば、「長く続けてきた仕事を衝動的に辞めてしまって、後悔している」とか、「家族との同居がきつくて後先考えず引っ越したらうつが重くなった。家賃の支払いもきつくなってきた」とかです。
私自身、うつ病期に「立ち止まって冷静に判断する」ということができずにやらかしていました。たとえば、長い目で見たら休んだほうがいいのに周りの目を気にして焦って仕事を探しすぐに辞めるのを繰り返してしまいました。
当時は「仕事していない自分には価値がない」とか「友達に無職って言うのが恥ずかしい」とか思っていました。休んでいる間、ずっと不安で自分と向き合うことも怖くて、ただただ焦って職を求めてしまいました。
苦しさや焦りから出た行動は、マイナスの結果を生み出します。うつが重くなったり信頼や自信を失ったり。後悔したり。
もちろん自分を苦しめる仕事を続けろとか、イヤな環境を変えるなということではありません。冷静に判断した結果、仕事を辞めたり(または休職したり)引っ越したりなど、環境を変えるということはあると思います。
重要なのは長い目と広い視野です。
この判断はながーい目で見るとどうかな、ひろーい視野で考えるとどうかなと1度立ち止まって考えてみてください。苦しいときほど視野が狭まっていることが多いものです。
私の場合、ひたすら苦しんだだけで、冷静に自分と向き合い判断することができていませんでした。
焦って仕事を探すのではなく長い将来を見据えて行動すればよかった、もっと視野を広げてうつ病の自分にどんな働き方が向いているか、他のうつ病の人はどうしてるのかなどに目を向ければよかった、と思っています。
止観の「止」は「心の働きを止める」という意味があります。心というのは脳で作られています。「心の働きを止める」=「考えるのを止める」ことでもあります。
「どうしよう、どうしよう」と考え続けて苦しくなっているときは、思考をピタっと止めてみてください。苦しい思考が苦しい感情を生み出しています。
止観の「観」は「冷静になったところで自分の心を見つめてみる」という意味です。思考を止めて落ち着いたところで、自分の心の中を見つめ直してみてください。
どうしても冷静になれないときは、「人に相談する」と落ち着けます。友人や、カウンセラー、電話相談などいろんな手段があります。相談が難しい場合は、自分の悩みを紙やスマホなどに書いてまとめるだけでも心の中が整理されます。
第7の教えは
止観(しかん)せよ
うつ病のときに何かを判断するなら、落ち着いて冷静になってから長い目と広い視野で考えてみてください。判断を先送りにした方がいい場合もあります。
8 ありのままの自分の価値とは?(慢心)
まず、慢心(まんしん)とは
おごりたかぶる心。思いあがる心。
という意味です。
さきほど、「私自身、人を見下すところがある」と書きましたが、人は「自分の方が優れている」と思いたい欲求を持っています。
私は小学生ぐらいから、周りの友達にバカにされていると感じていました。流行の歌手を知らなかったり(興味なかった)、身だしなみに無頓着だったりしたことが原因だったと思います。
ショックだったのは小学校生活が終わる春休み。習字教室が一緒だったYちゃんから「いじめる方でもいじめられる方でもなくて、いじめる人の後ろを付いていきそう」と言われたことでした。
ものすごくバカにされた気がして悔しかったのに、引っ込み思案だった私は言い返すこともできませんでした。
成長したあとも「自分をバカにしてきた人を見返したい」という思いを抱き続けていました。その結果、気付けば私自身が優越感に浸りたい、人を見下す人間になっていました。
ありのままの自分の価値を認めることができず、人を自分より下に見ることで自尊心を保とうとしていたのです。また、うつ病になってからは一転、全然自分の価値を感じることができなくなり、劣等感ばかり抱いていました。
「他人と比べて優れていれば幸福で劣っていたら不幸」という価値観を持ち続けている限り、安定した穏やかな幸福は得られません。結局、優越感に浸るのも劣等感に陥るのも、長期的に見れば同じように苦しい、ということが経験として分かりました。
人と比べずに、ありのままの自分の価値が感じられるようになることが幸せへの道だと悟りましたが、すぐに変わることはできませんでした。
「邪見」のところで書いたように、人と関わるときに自分を大きくみせるのをやめてみたり、あえて自分の嫌いなところを書き出してみたりしました。
嫌いなところを見つめるのは苦しかったですが、自分をきちんと知ってあげることで心が喜んでいるのも感じました。嫌いなところをリストにすることで、意識して直していくこともできました。
周りへの感謝を深めたり、自分の成長できたところを見過ごさずにメモして、褒めるようにしていました。
これができるからすごいとか、あれができないからダメとかではなく、何ができてもできなくても自分の価値とは関係ないんだと思うようにしました。
まとめると、
↑これを繰り返し自分に言い聞かせてました。
まだまだ修行中ですが、少しずつありのままの自分の価値を感じられるようになってくると、周りの人のことが以前より大事に思えるようになりました。友達や家族など、いてくれるだけでありがたいというか。
すると、人を自分より下に見て優越感に浸りたいという気持ちは薄れていきました。
これからもありのままの自分の価値、ありのままの人の価値を感じ、大事にし、慢心に陥らないように気を付けて過ごしたいと思っています。
慢心には他にも「みんなに好かれたい」「すべての人によく思われたい」という心という意味もあります。
たとえば「嫌われるのが怖い」「みんなに好かれたい」と思ってしまう人がいます。するとみんなにいい顔をしたり、人によって自分の意見を変えてしまったりと、八方美人になってしまうということが起こります。
私も人に嫌われるのが怖かった時期があります。批判されると1日落ち込んでしまったり、人の顔色ばかり伺ってしまったり。
しかしこれは「みんなによく思われたい」という慢心の心、おごりたかぶった心なんだと知ってからは、意識して静めるようにしました。
人はみんなに好かれることもなければ、みんなに嫌われることもありません。あなたを好きな人もいるし嫌いな人もいるし、何とも思っていない人もいます。1番多いのは、何とも思っていない人です。
「人の顔色ばかり伺ってしまって苦しい」というのは相手のことではなく、自分が嫌われたくないという気持ちから自分のことばかり考えてしまっている状態だそうです。本当に相手のことがちゃんと見えていれば、他人はそんなに自分のことを気にしていないことに気が付きます。
自分のことを嫌いな人のことを考えて落ち込んだりビクビクしたりする必要はないし、何とも思っていない人にまで好かれようとする必要はありません。嫌われるのが怖い、みんなに好かれたいという想いを手放すと、張り詰めた気持ちがほどけていきます。
第8の教えは
慢心(まんしん)を静めよ
まずは「ありのままの自分の価値」を意識してみてください。誰と比べなくても、何もできなくてもちゃんとある自分自身の価値です。
9 相手を幸せにすることが自分の幸せにつながる(自利利他)
自利利他(じりりた)というのは
相手を幸せにすること(利他)が、自分の幸せ(自利)につながる(またはその逆の、自分の幸せが相手の幸せにつながる)という教えです。
相手と自分どちらが先でもいいんですが、なかなか自分を幸せにしてあげられないときは、人を幸せにする行動をとってみると、自分の幸せにつながっていくことがあります。
我執(がしゅう)のところでお話したように、人は自分のことばかりになってしまうと、苦しくなってしまいます。
私のことを分かってほしい、認めてほしいと思ってもなかなかそうはいかないのが現実です。まずは自分が相手のことを認めよう、分かろうとする。すると、現実が変化してきます。
仏教では「与えることのみを考えなさい」と教えます。
相手に与えてしまったら自分のものが減るような気がしますが、実際は与えたものは巡り巡って、自分の幸せとなって返ってきます。
うつのときは、なかなか人のことまで考えられなくなってしまいます。自分の辛さで、いっぱいいっぱいになってしまうこともあります。苦しい感情から抜け出すことが難しいのも、よく分かります。
利他(相手を幸せにする行動)は、思い切ってやってみると自分の苦しさが和らぐのを実感できます。
私はうつ病期、地元の家族を喜ばせることを考えてみました。お金もなかったので、昔習っていた習字を生かして、ハガキに家族1人1人に向けたメッセージを書いて送りました。
ただそれだけのことなのですが、すごく喜ばれて、特に祖父からは便箋で返事が届きました。久しぶりに見た祖父の文字で、心がポッとあたたかくなったのを覚えています。
他にも、人間関係で悩んでいた友達の相談に乗りました。
自分が「うつで苦しい。もう無理。助けて」という状態なのに、友達にアドバイスなんてできるかいとも思いましたが、そのときだけは自分のことは置いておいて友達のことだけを考えました。友達の気持ちに寄り添おうと努力しました。
やってみると不思議なことに私自身の心が少しラクになりました。
人を助けるというのは自分を助けることにもなるんだなと感じました。
人のことだけ考えている時間は、自分の苦しさから離れられる時間でもありました。
大きなことをしないでも、身の回りの小さなことから利他をやってみる。
人のためになることだけを考える時間を作ってみる。
これだけでも、うつの心がラクになります。
第9の教えは
自利利他(じりりた)を実践せよ
まずは身近な人を喜ばせることを1つ、考えてみてください。やってみると、相手にも自分にも幸せの種を植えることができます。
10 自分は世界の一部だと意識しよう(自他一体)
人は「自分は特別でありたい」と思っています。その気持ちの前提として、「自分と他人は別の存在だ」という考えがあります。
そりゃそうだろうと思うかもしれませんが、仏教ではこれを否定します。
自分って何でしょうか。
たとえば、目の前にあるおにぎり。これは自分ではない気がします。ではおにぎりを食べたあとは、どうでしょうか。食べて胃の中に入ったおにぎりは自分でしょうか。食べたものが体を作っているとすれば、食べたあとのおにぎりは自分な気もしますね。
体はいろんな細胞でできています。たとえば、髪の毛。頭に生えている髪の毛は、自分の1部な気がします。では、抜けたあとの髪の毛はどうでしょうか。抜けたら自分じゃなくなるのでしょうか。
こんな風に考えていくと、自分というものの輪郭があやふやになってくるような気がします。
自他一体(じたいったい)とは、自分と他(他人やもの)は区別がない、という教えです。
私達はみんなこの宇宙の1部で、いろんなものに分かれているように見えても実は分かれていない。つながっている。
自分も他人も動物も物もすべて一体だ。私は他人の1部で、他人は私の1部である。他人を攻撃するのは、自分を攻撃するようなものだ、という考え方です。
宇宙から地球を見ると丸くて青い1つの球です。その球のなかには人や自然、動物、虫、道路、学校、田んぼ、スマホ、……ありとあらゆるものが含まれています。でも、宇宙から見ると1つの青い球です。
ずっと昔、地球が誕生したばかりのときは、人や物も存在しませんでした。地球はただの1つの青い球でした。今はいろんなものが生まれて存在しているように見えますが、宇宙から見たらやっぱりただの青い球です。
全てのものは一体で、つながっているのです。
自他一体の感覚が分かってくると、他人の痛みが自分の痛みのように感じられます。また他人の喜びも、自分の喜びのように感じられます。
孤独とは無縁になり、他とのつながりの中で生きられるようになります。ああ、私は世界とつながっているんだ、という感覚です。それはとても穏やかで、気持ちがいいものです。
自分と他人は別のものだ、と考えてしまうと苦しさが生まれます。
たとえば、うつが辛いとき元気な人を見て「うらやましい。自分はダメだ」と思ってしまったり、「パワハラのせいで、うつになった。あの上司が憎い」と感じてしまったり、自と他を区別することから様々な負の感情が生まれてしまいます。
「自分は他人、他人は自分」という感覚が持てると「うらやましい」とか「憎い」などの、マイナスの感情を抱きにくくなります。
人の幸福も自分の幸福のように感じられたり、順風満帆に見える人にも、実は苦しみがあるんだということが分かってきます。
また、憎い相手の苦しみにも思いが至るようになってきます。あの人も自分と同じように、苦しみを持った1人の人間なんだと分かってきます。
さらに、自他一体の感覚がもてると「自分は特別でありたい」「自分が、自分が」という気持ちが弱まってきます。
「自分」が薄まって、「みんな」という視点で物事を捉えるようになるからです。「みんなで解決していく」「みんなで幸せになる」という感覚です。自分のところに留まっていた意識が、外へ外へと広がっていきます。
第10の教えは
自他一体(じたいったい)の感覚をつかもう
まずは自分と他(人や物)は分かれていないんだ、つながっているんだと考えてみてください。つながりの感覚がどんどん広がると、心が広がりラクになっていきます。
うつが辛い人へ
ここまでお読みいただきありがとうございました。
あなたのうつの苦しみが少しでも癒えることを願って、このnoteを書きました。苦しいときは本当に苦しいものですが、その苦しさにも価値があります。苦しんだ分だけ成長し、人としての魅力も上がっていきます。
苦しみを乗り越えようと前に進む姿は、誰かの希望になることもできます。
1度読んで終わりではなく、辛いときにそっと見返してみてください。静かに自分を振り返り、見つめてみてください。うつで縮こまった心を広げ、狭まった視野を広げ、希望が感じられるお手伝いができたら幸いです。
あなたの心が、ラクになりますように。
コキリ
いただいた恩は回していきます🌕感謝‼︎