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TureDure 16 : 企業研修のパフォーマティビティと研修転移

(2020.09.08 加筆;該当箇所は@で区切る)

ほりこーきです。私が思ったこと、感じたことをおもしろおかしく、こむずかしくお送りする根も葉もないパルプ随想録「TureDure(とぅれどぅれ)」。

今回は「企業研修」について書こうと思います。私は大学院までインプロ(即興演劇)の理論研究をしておりまして、それゆえにまぁ就活は鳴かず飛ばずだったわけです。なぜなら私の志望動機と言えば「インプロがしたい」いっぺんとうだったからであります(そりゃ通らんわ)。

他の方々が内定式を迎えていた頃にも、私の就活は続いておりました。そんな私ですが、「就職できなかったらフリーランスで頑張るか・・・」と思っていましたが、ミテモ株式会社にご縁が結び、まさかのインプロ採用をしてもらう誉に預かることになりました。それが一昨年の10月頃の話です。

そこから1年を過ごし、2年目も折り返そうかというこの頃です。前置きが長くなりましたが、今回は私が1年と半年過ごしてきた「企業研修」というお仕事においてどんなことを学び、どんな自論を組み立ててみたのか書こうと思います。
(本稿は若輩者で青二才な私ほりこーきの個人の見解を述べたものでありますことをご容赦いただき、お読みください。もしご意見やご感想などありましたら、本記事をシェアしていただきSNS等で意見交換などできたら楽しいなと思います)

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企業研修ってなんだ

まず、私は「インプロがしたい」という欲望全開のもと、企業研修を提供するチームに所属し、“企業研修として”インプロを提供することとなりました。私にとって初年度は“企業研修として”という枕詞の意味を探求する年だったと言えるでしょう。

大学4年生の時にお世話になった現在立教大学の教授でいらっしゃいます中原淳先生も書かれている『研修開発入門「研修転移」の理論と実践』では企業研修について次のように書かれています。

企業で行う研修は「学校における授業」ではありません。学校ならば「学ぶこと」が目的です。しかし、企業研修の場合は違います。企業研修では「学ぶこと」が目的ではなく、「学ぶこと」を通して「組織目標達成にポジティブな影響を与えること」がもっとも重要なことです
(中原淳・島村公俊・鈴木英智佳・関根雅泰『研修開発入門「研修転移」の理論と実践』ダイヤモンド社, 2018年, p.11)

すなわち、企業研修の目的は「学ぶこと」にあるのではなく「組織目標達成にポジティブな影響を与える」ことであるために、裏を返せば「学びがあった」研修では不十分であるということです。「学びがある」だけでなく、研修によってメンバーの行動に何がしかの変化があり、それが現場にて継続的に実践され、その行動が組織にポジティブな影響を与えることで初めて企業研修はその存在意義を見出されます。これは学校教育がある社会秩序の維持のための再生産を行う場であるとするならば、企業研修は教育という名前の投資プランの1つとなります。

以上のことから、企業研修を仕事にする以上、「正確な知識を正確に身につけさせる」ことに加え、「研修転移=研修により現場実践が変わり、継続され、結果的に組織にポジティブな影響を及ぼす」ことに重心を置いて、価値を創出しなくてはなりません。

ほりこーきの苦悩と葛藤

さて、そのことは知識としてはわかっていたものの、常套句を用いれば「知っていることと出来ることは違う」のであります。さらに私は「インプロ(即興演劇)」という手法ベースであったので、その手法に内在する可能性をどのように企業研修として組み立て直すかという問題が入社してまもなくから発生しました。

曲がりなりにも研究をしていた身なので、インプロを企業研修として用いた海外事例や手法などもある程度は知っていたので、進む方角を迷うことはありませんでしたが、海外事情と私が直面する個別具体的な事例とがうまく合致するわけはなく、悪戦苦闘しながらも少しずつインプロ研修のお仕事をいただけるようになっていきました。

こうなると、どうなっていくか。次第に私は求められたものをインプロという名前で提供しているだけなのではないか、インプロが持っている可能性を自分自身で空っぽにして何か別のものを詰め込んでいるのではないか?という気になってきます。ポジティブに捉えるのであれば、私は「インプロを企業研修の枠組みに入り込ませること」を抜け、次の段階の問題に突き当たったことになります。それは「インプロと企業研修の最大公約数を求めること」となります。

元々、インプロは演劇の上演形式の1つです。歴史的に見れば多様性の駆け込み寺として機能していた文化的側面があると私は直感的に感じています。つまりは、インプロは市場経済とは異なるシステムとして成り立っているので、市場経済のシステムへと編入する際には必ずノイズが生じます。「インプロを企業研修として行う」という言葉にはこのノイズをいかに処理するかという問題を含むことになります。私がインプロそのものに感じている価値を市場経済から過度なアレルギー反応を起こさないように投与するのはインプロ・システムと市場経済システムとの最大公約数を求める作業になります。

私にこの作業を行う時間をくれたのは幸か不幸か、コロナ禍でした。

終わりの見えない即興と、0と1の世界

さて私が2年目を迎えた年はおそらく多くの人にとって忘れがたい時間体験となりました。それは現在進行形で進んでいます。このコロナ禍にあって、私は水と栄養を抜かれた、そんな気分でありました。もちろん、同時に私とは比べ物にならないほどに身体的・情動的な揺さぶりが随所にて起きる/起こされているので、殊更私のメンブレを強調したいという動機はゆめゆめ持っていません。

私が専門としてきたインプロは即興演劇であります。この状況下で演劇は大きな困難に突き当たりました。人がひとところに集まる、その人たちに向かって語りかけ、関係する人たちもいるという文化的構造から生じる困難です。インプロも例外ではありません。生身の人間が持っているあらゆる情報を1つでも多くすくい取ろうとする作業を行う演劇的実践にとってその物質性が0と1に限定されるのは致命的とも言える現象です。

何よりそうした文化状況の中でポジティブでいることなど私にはできず、ひたすら喪に伏す状態が続きました。即興が強いられる状況ほど、不安で、恐怖なことなどありません。世界中が絶え間ない、終わりの見えない即興を強いられている中ではあえて即興を行う理由を見出すことは私にはできませんでした。

ある程度新たな生活実践が確立され始めてから、私はその生活実践の中でインプロと市場経済との最大公約数を見出すという言葉を得られたように思います。これ以上長くなってもしょうがないので、現時点での私の最大公約数のことについて書いて終わりにしようと思います。

研修転移を促すパフォーマティブな言葉を生成する

まず、外部のベンダーに依頼される企業研修は単発であることが多いです。その中で研修転移のことをこちらが分かっていても、予算や時間的都合上、私たちが介入できる余地は3時間から長くて7時間程度です。そんな短い時間で人が劇的に変わるということは可能だとは思いますが、少し危険性も伴います。ですので、じゃあ与件に合致した内容を正確に的確に遂行するか、ということになりかねません。

果たしてこの限られた時間の中でかつ、限られた情報源の中でインプロが研修転移を促すことは無理ゲーなのか。そうした中で私が最大公約数として仮置きした概念が「パフォーマティビティ」です。

パフォーマンス研究という学問領域があります。このnoteでその学問領域を説明することは長くなりすぎちゃうので避けますが、舞台芸術に限らず、多様な人びとが日常生活の中で行う/見聞きするような実践をも射程に含めた領域です。私は専門ではないのであまり適当なことを言えませんが人類学、社会学、哲学、演劇学の交差点のような位相を呈しています。

ですので、「パフォーマティビティ」とは私たちが普段使用している意味とは少し異なります、ここでは「エージェンシー(行為体;人に限定されない、行為するあらゆるもの)が私たちに情動的・身体的に何がしかを行うことによる生じる作用」としておきます。

例えば、皆さんも過去の学校の先生からもらった言葉、昔の幼なじみからもらったミサンガ、とある新聞記事などがきっかけで、迷いを断ち切ったり、気持ちが晴れて前向きになったり、あるいはある行動が抑制されたりした経験があるのではないでしょうか。こうした私たちに何がしかの影響を与える“もの“に含まれる作用体のことをパフォーマティビティと呼び、それは即効性があるものもありますが、長年にわたり通奏低音のように響き続けるものもあります。こうしたパフォーマティブな物事によって人は行動を起こしたり、行動を取りやめたりする情動的な影響を受けるわけです。

このパフォーマティビティを補助線とすると、新たな生活実践の中でインプロを行うことは、実はこれまでと変わらないのではないかというのが今のところの私の考えです。私が発する言葉、選択するアクティビティ、提示する知識にパフォーマティビティを宿せていれば、企業研修として十分成立しうる内容を構築できるだろうと考えたのです。

加筆分(2020.09.08)

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例えば、よく研修などで講師が発した言葉が「刺さる」と表現される事があります。「刺さる」にも程度があり、浅い刺さりもあれば深く、かつジンジンと響くような刺さり方もあります。この作用がパフォーマティブだなぁと思うのです。そして、このパフォーマティブな言葉が、研修転移を促しうるのではないか、そう思うのです。

なぜか。第一に、パフォーマティブに作用した何らかの言葉は、日常の中でふと思い出されたり、何らかの出来事から連想されやすくなるからです。こうしてふと自発的に思い出された「刺さった言葉」は自分の行動をふりかえり(メタ認知)、変えようとするきっかけになります。

第二に、情動/感情に作用するからです(アフェクトと言います)。人間は情動/感情と身体が相互作用しながら、物事をいちいち考えず効率的に行うようにするシステムが備わっています。情動/感情と身体、どちらが主でどちらが従というのはなく、どちらもどちらもに影響を受け/与えています。脳神経学者のアントニオ・ダマシオはソマティック・マーカー仮説という説でこの相互作用における情動/感情の働きを強調しました。すなわち、人が何か行動をする時に、意識されていなかったとしても情動/感情の働きは看過できないのです。この情動/感情へアクセスできれば、受講者自らが行動の意味を構築した上でその行動をとることを選択し、組織への貢献の仕方をアップデートすることにつながりうるのではないかと思うのです。

もちろん、これだとただロマンチックな言葉を並べる、ないしは非常に強い情動的作用を用いてしまう事が起きかねません。パフォーマティブなことはもちろん使い方次第で善にも悪にもなり得ます。かつてこの大きな情動/感情的満足感を利用して多くの人を操作したのがファシズムです。非常に強い高揚感と満足感を与える(アリストテレスはこれをカタルシスと呼びました)と人は考えることをやめてしまいます。かつて日本でも組織開発としてこうした強い情動/感情に任せて多くの人を“変えた”実践があったことを後世に生きる我々は知っておき、それを完全に悪と決めつけ拒絶するのではなく、そこから何が学べるのかを考えなくてはなりません。トップダウン的にただ言われたことを身体的に忠実に行動するのも、ボトムアップ的に強い情動/感情に任せて無批判に行動するのも思いもよらない悲劇を招く可能性があるのです。

ですので、科学的裏付けのある知識を踏まえた上で、パフォーマティブな言葉に翻訳する事が重要だと思います。そして、自己批判性をほどよく持ち続ける事。このように翻訳家あるいは劇作家としての一面と、疑い深い一面も研修講師には必要とされるのかもしれないと思っています。

以上のことはインプロでもそのほかの研修においても同様のことだと考えられます。インプロから生成された言葉にパフォームしてもらうことにおいてはオンラインもオフラインも変わらないことでしょう。このパフォーマティビティがうまく生起する舞台を設え、演出する、その作業が私の仕事なのかもしれません。

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