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Ture Dure 42 : ムード・デザインの領域展開

本コンセプトは未だ言語的には未分化なままここに記されることになるが、すでに完成されている。それが未だ言語的に教育学的・学習論的・ワークショップ論的に分節化されていないだけであり、経験的にすでに発見されているものである。ゆえに、本コンセプトは何ら新しいものではない。私たちの目の前で絶えず私たちに働きかけていたものにようやく目を向け、耳を傾けることが可能になったというだけの話である。

メインテーゼ:学びはあるムードによってはじまり、そのムードがあるムーヴを生み出し、それらがムーヴメントを集合する

言葉の定義:

  1. ムード:広義には雰囲気一般であるが、学びにおいてのムードはある特定の雰囲気を指す。それは勇気の自然創発するムードを指す。

    1. 備考:
       ここに「ムード」という言葉を選択していることについて補足が必要である。ムードは純粋に形而上学的な存在者でもなければ純粋に物質的な存在者でもない、いわば半物質・半コンセプトなあわいの存在者である。言語的領域にだけ存在しているわけでもないが、物質世界において直接指示可能なものでもない。しかし、ある質感を伴う学びの場においては身体感覚的に経験されるものであるし、それが物質的な作用を持ちうることは確かである。よってムードにはある生成条件がここで前提されていることになる。ムードは「ワークショップデザイン」単体だけでも立ち現れなければ、「ファシリテーション」単体でも立ち現れないし、「学びのための空間やマテリアル」単体でも立ち現れることはない。ムードはそれらのアクター相互の関係論的な布置の結果生じるネットワークの産物である。それはまるで結界のような生成物と似ている。
       しかしこれまで「ムード」に関する議論が皆無だったわけではない。「ムード」はこれまであらゆる論者の思想の中で間接的にその存在を示唆されながらも直接的には論じられてこなかったものである。例えば、ジョン・デューイにおける「経験」および「活動」概念においては、主客非分離の一次経験世界から教育的出来事(subject matter)を契機にして主客が分離された学習活動(二次経験)が生起する。これはあるムードの結果引き起こされる現象の記述としては正確であるが、この現象の生成条件そのものに関する記述としては不十分かつ形而上学的な説明に留まっている。デューイに比してよりムードの成立条件について記述したのがヴィゴツキーである。ヴィゴツキーにおける「主体ー道具ー対象」の三項関係および「最近接発達領域(ZPD)」の論理においては行為主体間の関係性の議論が可能となる点においてムードの成立要件の記述としては重要な理論である。しかし、レオンチェフ以降エンゲストロームに至るヴィゴツキー学派および新ヴィゴツキー学派における本三項関係の発達はムードの記述ではなくシステムの記述へその比重を傾けた。ヴィゴツキー晩年の未完の仕事であるスピノザーデカルトの情動理論が継承されていればよりムードに近い研究が進んでいたことであろう。
       「学びのムード」に最も接近していたのは上田信行であろう。彼はキャロル・ドゥエックのマインドセット理論をヴィゴツキーを経由しながら場の理論へと昇華させ、「プレイフル・マインドセット」および「憧れの最近接領域」というソーシャルなマインドセット理論を生成するに至った。彼のワークショップにおける活動関数である Activity = f ( idea , space , object , food , people) は学びの場におけるアクターの相補的な関係を記すと同時にコア・コンセプトである「プレイフル」概念による情動理論を加味した理論体系をなしている。しかし、彼は論理の上では学びをあくまで個人の本気さに依存するものと捉え、個人主義的なマインドセット理論の論理的限界から脱し切れていない(彼の場を経験すればわかるが、現場における彼のふるまいは確実にムードメイカー的であるのにもかかわらずである)。すなわち、彼は彼がしていることを十分に説明しきれていない。
       加えて、ここに「グループ・フロー」概念を導入してもよい。チクセントミハイの提唱したフロー理論を個人の話から集団=場の理論へと発展させたのがキース・ソーヤーであり、そこにおけるコミュニケーション様式がジャズや演劇のインプロヴィゼーションと酷似することを指摘する。一方でチクセントミハイにせよ、キース・ソーヤーにせよフロー状態への導きにおいては学習者の能力と提示される課題の難易度との相関で検討するため、ムードの変数は考慮されない。たとえちょうどよい課題が提示されたとしても学びのムードが成立していなければフロー状態における学びは現象しないであろう。これはどれだけワークショップの設計が必要十分であったとしても、現場のファシリテーションが学びのムードを壊すようなふるまいをすれば学びは現象しないのと同義である。チクセントミハイおよびキース・ソーヤーにしても学びが現象するそのはじまりのムードがいかに形成されるかの論理をなしにしては極度に主観的なフロー体験、いわば「フローごっこ」、「学びごっこ」が跋扈するだけである。すなわち、両者の論理的誤謬は次の点が指摘できる。学習者の能力値に応じた適度な課題設定 ” が ” フローを導くのではない。順序は逆である。すなわち、一度発生したフロー状態のグルーヴを維持するために適度な課題設定が必要なのであり、フロー状態を導くはじまりの状況設定は「ムード」である。
       このようにあらゆる論者がムードに関して極度に接近した論理を展開してきたが、それらはおしなべて「学びの最中」の記述に終始し、「学びのはじまり」に関する記述はほとんどされてこなかったと言える。私が本稿で指摘したい論点はこのことである。すなわち、学びの始まりには「学びのムード」が必要である。
       学びのムードが生成するには変数は無数に存在し、それが補完しあうことでそのムードは成立する。しかしこのムードメイキングをするのはやはり人間身体が多くの影響力を独占する。しかしだからといって人間身体のみではムードの維持は困難であるし、危うさも伴う。人間身体の作用に学び現象を限定してしまうのではなく、同時に「インストラクショナル/ワークショップ・デザイン」、「ファシリテーション・スキル/スタイル」、「学習素材(マテリアル、サブジェクトマター)」、「参加者間のコミュニケーション」、「空間設計・アーキテクチャ」、「音楽」、「食べ物」等のアクターを総合したアクターネットワーク理論(ブルーノ・ラトゥール)を前提とした各物質的な登場人物間の事実上の貢献を認めることが重要である。
       以上のように、学び現象にはあるムードが半形而上学的に、かつ半物質的にアクターネットワーク理論的に生起していることを指摘したい。一方でこのムードにはダイバーシティがあることもまた事実だろう。すなわち、学校教育的ムードもあれば、ワークショップ的ムードもあれば、個人学習的ムードのように、ムードにもパターン分岐が存在する。どのムードを選択するのか、その選択にはその学習提供者の思想や意志が反映されるところかもしれない。
       このムード・メイキングがオリジナリティの見せ所となる。よって、空間設計にせよ、ワークショップデザインにせよ、プロダクト開発にせよ、そのソリューションが「どのようなムードをよしとするのか?」という質感を明確に考える必要がある。「ムード」というキーワードが発見できたことによって、たとえ提供するサービスが異なっても同一線上での議論が可能になることを期待する。空間設計を行うにしても、ワークショップデザインを手掛けるにしても、コンセプトメイキングを行うにしても、ローカルの観光メニュー開発にしても、「どのようなムードを手掛けるか?」を共通して考えていけば、各々の専門性が多分にコラボレーションできるフィールドが展開されるかもしれない
       

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