読書メモ#2
鈴木裕之 著『恋する文化人類学者 結婚が異文化をつなぐとき』
アフリカのアイドルと結婚した筆者の実体験に基づく文化人類学講義。
強烈な体験談とともに、無文字社会における音楽、民族=われわれ意識、親族関係、通過儀礼などの文化人類学の知見、「異文化交流の本質」「地縁・血縁の中での自由の探求」などの問を投げかける。
全ての章が、「体験談→文化人類学と関連付けた解説→エッセイを含む問題提議」の流れで構成される。いくつかは喜怒哀楽を伴いながらも、あくまで冷静な語り口を維持している。興味関心に応じて生活の中で自由に「人類学する人が増えてほしい」という筆者の願いが印象深い。
角川ソフィア文庫版で書き下ろされた『ラブロマンスの行方』の結婚生活と子育ての戦略も読みごたえがあった。
異文化理解のしんどさと喜びの双方がじわじわ伝わってくる。
武田惇志 著,伊藤亜衣 著『ある行旅死亡人の物語』
現金3400万円を残して孤独死した身元不明の女性を、共同通信の記者が遺品を手掛かりに特定し、記事として発信するまでを描いたもの。
聞き込み取材により手がかりを得て、情報と情報をつなぎ合わせながら特定していく様がリアルに描かれている。
聞き込み取材や残された写真から分かることを基に、過去の新聞を調べて手がかりを握っていそうな人や場所を特定する。行くべき場所に行き、時に手当たり次第に声を掛けて話を聞く。少しでも可能性があれば、片っ端から電話を掛ける。さながら小説のように思えてしまうけれど、同じような手法は毎日実際に行われているのだと思うと、なんだか途方もない気持ちになる。
終盤に出てくる非公式取材の「夜討ち朝駆け」の手法もストーカーのようでおそろしい。する側もされる側も精神的に摩耗していくのだろう。
ニュースバリュー=報道に値する価値についても考えさせられる。デスクがOKを出さないと記事にならない。興味深いことに、女性は意図的に痕跡を残さない生活を選んだように見える。自分の意思で隠れていた故人の歴史を本当に報じてよいのかという葛藤が最後まであったことも読み取れる。
ちょうどドンピシャな記録だけが残っていたり、タイミングが絶妙だったりと、少しでも条件が違っていたらここまでのものにはならなかったかもしれない。生活の痕跡、存在証明が、もう少しで跡形もなくなっていたのかもしれない。そんな記述の連続で、読んでいる側も想像を膨らませながら、見知らぬ人の死と向き合うことになる。
残ったままの謎も、解明された人生のワンシーンも。痕跡が残ることの意味を考えさせられる。
「考えさせられる」ばっか言ってしまうけど、その人のことはその人にしか分からないし、もし自分がと考えても途方がなさ過ぎて何も言えない、でもなんか残るものがある。痕跡を追ってもらえることは幸せだろうか。
渡邉雅子 著『論理的思考とは何か』
ゆる言語学ラジオで取り上げられていた同著者の『論理的思考の文化的基盤』等の研究を、新書として整理したもの。
論理は世界共通で普遍的なものなどではなく、文化の影響を受けており、コミュニケーションの失敗を防ぐために、それぞれの論理の種類を知り、状況に応じて適切なものを選択することが重要である。
序章に論理が世界共通の普遍的なものだと考えられるようになった理由として、西洋の思考スタイルである「論理学(形式論理)」「レトリック」「科学」「哲学」における推論の方法が紹介されている。
論理学は形式論理であり、それをベースに人々の営みに応じてカスタマイズされた「レトリック」「科学」「哲学」の思考スタイルがある。この4種類の思考法が西洋の基本的な型となっていて、それぞれ論理的であるとみなす条件が異なっている。
ゆる言語学ラジオの動画で、思考表現スタイルのことを論理と呼ぶことに違和感をおぼえた人は、本書の序章から通読することで、つながりが見えるかもしれない。私自身は序章と本文の内容のつながりが少し見えづらく感じたが、概ね「形式論理」と「実質論理」を区別する必要性を把握することはできた。
なお、演繹法、帰納法、アブダクション推論についても言及されており、今井むつみ先生回を視聴しておくのも理解の助けになるかもしれない。
わき道にそれるが、「ゆる〇〇学ラジオ」やサイエンスコミュニケーションのような営みが難しいのは、レトリック(大衆の説得や日常の思考)と哲学および科学の間の推論形式の違いが関係しているように感じた。それぞれ、目的と思考法が異なる。
厳格な論理学をそのまま日常に適用することができないから、簡便なものとしてレトリックが生まれた。よって、蓋然性推論という厳密ではないが概ね当てはまる常識や社会通念による判断がレトリックには使われる。
論理学のみでは新しい発見を説明できないから、仮説を立てる方法とそれを検証する方法が確立された。よって、反証可能性と見出した事実の適用可能な範囲を厳密にすることが重視される。
科学的な研究を大衆向けに正確性と分かりやすさを両立して説明することは、2つの領域が接する部分である。片方の領域で別のもう片方の思考法を入れることは本来適さない。話す側も聴く側も、普段とは異なる思考法をインストールした上で、正確性と分かりやすさのバランスに合意しておく必要がある。
第2章で、各国の文化に影響を受けた思考法が解説されている。例えば、アメリカの5パラグラフエッセイに代表される思考表現スタイルは、「結論を先に言う方が論理的に感じる」思考につながっている。この考え方は経済領域で有利である。
日本は感想文などに代表される思考表現スタイルで、他者への共感を軸としており、社会領域に適しているという。生活綴り方も含めて学校での作文教育や言語活動が分析されていて、あまり好きではなかった読書感想文の目的や理想が垣間見えて、実態はともかく意義が理解できたのがよかった。
フランスのディセルタシオンに代表される崇高ながら切実な目的、イランの絶対不変なものを守っていく仕組みと合わせて、社会的要請によって教育制度がつくられ、教育を受けた個人が社会の一員になっていくという関係性が見えてくる。 イランについて、法技術領域に適していると思える事例がもう少しほしいと思った。
各領域は、ウェーバーの合理性の理論に基づいていて、この部分の説明が難解だった。この部分が理解できれば具体的な思考法の使用例がもっと想像しやすくなると思う。
第3章で、それぞれの思考法を持つ者が、別の思考法で書かれた文章を読んだ時に「論理的でないと感じる理由」が記されている。思考法という眼鏡を選んで他者を見た時の見え方になっていて、「論理的思考法は選べる」という主張の実践にもなっているように見えておもしろい。
『論理的思考の文化的基盤』の方には、それぞれの思考法の元となった作文教育の背景事情が詳しく載っているらしい。
ゆる言語学ラジオで取り上げられていたところによれば、日本の感想文方式の書き方はOECDの国際テストがきっかけだとか、アメリカのパラグラフエッセイはベトナム戦争帰還兵がきっかけだとか、衝撃の話があったので、気になっている。
阿部幸大 著『まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書』
論文やレポートの執筆における組み立て方や文量の増やし方、説得力を増やすために、査読時に読まれるために、何をどう書くかを記した本。
主張を提示し論証する文章であると論文を定義し、「論文とは主張を提示し論証するものである」という主張を、アカデミックライティングの手法で記すというメタな構成になっている。
反証可能なアーギュメントを作ること、文は受動態を避けること、文章構成は抽象度がU字型になるようにするなど、具体的で形から入るようなものがたくさん含まれている。具体例として使われているアンパンマンのジェンダー論や日米論が章を進めるごとにふくらんでいく変化もおもしろい。
こうした手法は、アカデミックな要素の無い記事やメールの文章を考える時にも役立つかもしれない。
先行研究の読み方も指南していて、文章におけるパラグラフの役割、パラグラフにおける1つひとつの文の役割を分析的に読むことを推奨している。
文章においてパーツとなる文や段落の位置づけを分析することは、少し背伸びした本を読む時に役に立つかもしれない。
第2章では人文学におけるアカデミックな価値、第9章では人文学の論文を書いて発表することの価値、第10章では研究者自身の人生における研究の価値についての記述が印象深かった。文系不要論への反論も含まれていて、腑に落ちた。『文系と理系はなぜ分かれたのか』という新書を積んでいるので、読み終わったら本書の記述をもう1回読み返してみたい。
第9章では、ルールに従ってアウトプットする側面から、査読を通すための論文執筆をゲームに例えていて(p134)、この記事を思い出した。
以降、ゲーム『UNDERTALE』のネタバレを含む。
本書の著者は、自身の研究者としての価値を身内(国内の作品論)の評価基準に即して業績を上げるゲーム的な要素に置かないようにするため、海外の傾向を基にどんな論文が何のために引用されているのかを再考した。人文学の目的の方に価値を置き、論文執筆ゲームを手段に位置付けた。
他方、この記事の筆者は、歴史学の価値を長期的なスパンで捉えたい一方で、形式的な業績によって研究者としての価値が評価されることに違和感をおぼえている。
初めてこの記事を読んだ時は、いまいち内容を理解できなかった。この本を読んだ後に思い出して再読したら、この記事の意味をなんとなく理解することができた。
精緻な分析をルールとする作品論の世界から、暴力の否定(奇しくもUNDERTALEと同じだ)を究極の目的とした国際的な人文学に腰を移した本書の筆者のように、記事の筆者も適したルールのある場所を見つけられただろうか。あるいはルールを変えるような論文(ゲームプレイ)を出していくのだろうか。なんとなく案じてしまう。
業績主義のくだりは、『論理的思考とは何か』を読み、ゆる言語学ラジオの該当回を聴いた後だと、結論ありきで話を進めるアメリカ式の悪いとこやぞ!感もちょっとある。考えながら結論を出す必要がある長期的な分析に、アカデミアの世界で標準となっているアメリカの書き方は向かないという話もあった。
今井むつみ 著『言語の本質』
ゆる言語学ラジオで聞いた内容も多いが、初見の人でも読める内容。
オノマトペを起点に人間の認知、動物の認知との違い、機械(AI)には再現できない要素を検討しつつ、人間の言語の本質に迫る。
例えば、機械に身体とセンサーを与えて人間の身体性を再現することは可能かと言うと、感情に関しては再現することはできない。
言葉の運用に関しては感情の比重も大きい。例えば、べとべと等の不快な手触りともふもふなどの心地よい手触りを使い分けている。 センサーから得た情報を基にAIがそうした言葉を出力した時、それは理解していると言えるか。あるいは、人間の言葉(記号)はどこまで実体験や実物と接地していなければならないのか。
SF作品などで人間のようにふるまう機械や人工生命体が登場した時に、この本に書かれていることを意識すると、また違って見えるかもしれない。CYTUSⅡのアーキテクトは記憶と感情は外部から取り込んでいるけど、実体験ともまた違う気がするし、記号接地と言えるのかな。
第6章からの記号接地問題は、同著者の『算数文章題が解けない子どもたち──ことば・思考の力と学力不振』にも関連する。数の概念の獲得にも記号接地問題が絡んでいるという。このことを一般向けに再編した新書『学力喪失』を今読んでいる。
第7章は動物との比較もあり、積んでいる『クジラと話す方法』にも関連しそうな気がする。対称性バイアスなどは、言われてみれば確かに!という感じがあった。
バイアスというと誤った判断の原因というイメージだったが、未知の物事について判断や推論を効率的に行うために必要なものだということが分かる。