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底徊

 どこやらで烏が鳴いた。頭上を黒い影が幾つか、西を目指して行くのが見えた。その後を追う温度の無い風の背を捕まえて、枯葉や蛾などが逃れるように西へ流れていく。
 空が、呑まれていく。あれほど天を焦がしていた夕日の、その下に瓦を輝かせていた人家の、休耕田の僭主たる叢たちの、その全ての色彩を抜き去るほどの暗い夜がやってくるのが見える。
 随分待ったものだ。空の果てに、その影を見つけた時からもう数時間が経過していた。だが、待った甲斐があった。遠くにその姿を認めた時には確信がもてなかったが、今こちらを見下ろすそれは、紛うことなき、あの日と同じ夜だ。しばらく目を強く閉じ深呼吸を繰り返す。もう、逃すわけにはいかない。
 再び烏が鳴いた気がして目を開く。その姿は塗り潰されてもう空のどこにも見えない。歩き出した私を風が追い越し、私を見下ろす巨大な黒い稜線へ向かってゆく。風は私を巻き取るかのように、足首や鼻先をくすぐる。その度に頸を、背筋を冷たい風が撫でてゆく。吸い込まれるように山へ向かってゆく、自分のやけに軽すぎる足取りを半ば気味悪く思いながら周囲に目をやる。
 天蓋に僅かに残されていた朱はもう地平の遥か彼方へ、世界には黒が落とされた。それを天高くで直接浴びた山々はあっという間に漆色に染まっているのに、木立は未だその影をくっきり描き出していた。足の裏が上がるのに合わせて砂が落ち、砂利が跡を埋めてゆく。遠く近く虫たちが鳴くよりも強く、震えてもいない空気が耳朶の周りでやたらにさざめく。振った腕の先に誰かが触れるような、下ろした爪先の背後で誰かが足音を重ねるような。
 歩を進めるほどに漆塗りの梢が両脇を彩り、愈々里山を遠のいてゆき、夜は人ならぬ気配で満ちてゆく。しかしなお、指先は眼前の夜を切り裂いて現れ、踵には大小様々な石が触れる。記憶の中のような深い闇の抱擁を得られることはなかった。
 勾配を肺で感じる度、鼓膜で草葉の靡きを映す度、辺りは隔世の感を強めてゆく。しかし一向、五体を覆う皮膚は強度を増して立ち現れるようであった。一夜限りの僥倖の、あの甘美なる隔絶の残り香を、漸く眼前に口を開いた、その山へ向かう暗く、長いトンネルに求めて歩みを早めた。

 やがてトンネルは期待通り大きな口を開いて現れ、私を漆黒へと誘っていた。視界から濃淡が失われてゆくのに伴い、足音が私の両側頭で木霊する。小石たちが擦れる音、後をついてきた虫の声、何処かでは水滴が盤を鳴らす。闇の呼気は湿度を孕み、そこかしこから囁きかけてきた。あらゆる音が距離を詰めて髪や、腕の産毛の先を少し持ち上げる。振り上げる手の先はもう目に映らないのに、私は自身の身体が闇から描き出されるのをより強く感じ始めていた。
 鼻先を掠めた風が、そのまま私に纏わりついた音を払っていく。いつの間にやらトンネルを背にしていた。先ほどよりも純度を増した粘性の高い黒が空間を満たし、それを搔き分けるようにして進んでゆく。闇に浸された身体が徐々に溶融性を帯びていくのが分かる。より深くまで行けたなら、また重なることが出来るだろうか。拍動が熱を発し、私は少しずつ夜に溶け出している。
 時ならぬ来訪者に、山も気が付いたらしい。それは歓迎なのか、警戒なのか。その表情は暗幕の内に秘められて伺い知れないが、私に興味があるようだった。山道を外れて深く入り込むほどに木々は盛んに葉を鳴らし、草々は足元から腰までを探りはじめ、蜘蛛の巣が顔を舐める。踏み出すその足先に触れるもの、揺れる枝葉や梢の折れる音、その一々に振り向いては息を吐き出す。それでもなお進もうとする私を、血管が、神経が縛り付けようとする。螺旋状の根源的な恐怖が理性までを縛り上げる前に、わざとぞんざいに自身を闇へ放り出す。

 迷い子をいたぶるように、悪路は牙をむいて盲目も同然の私に襲いかかる。木の根が足を払い、倒れた先で岩が身体を打つ。そうした道をどれほど歩いただろうか。いつの間にか足首に草が触れなくなっていることに気が付いた。不審に思い下を向くと、闇の中から靴の先が僅かに見分けられた。視界を長らく支配していた黒に濃淡を見出したのは久しぶりのことだった。一面を見渡すとどうやらほんの少しだが、開けた場所に辿りついたようだ。そして山間には不釣り合いに平たく整地されていた。
 脈の落ち着くのを待ちながら周囲を窺うと、薄く浮かび上がる肩ほどの高さの物体をすぐ隣に見つけた。これほどの大きさのものを見落としていたことに驚き、知らずのうちに手を伸ばす。伝わる冷やりとした滑らかな手触りや、整った形状には覚えがあった。そこに確信を加えるためさらに指を滑らせる。やがて指先は窪みを見つける。その形状は酷く複雑でいてどこか規則性があり、掌ほどの大きさのものが縦にいくつも並んでいるようだった。溝の中を沿う指先の動きの中に親しみを感じる、これは文字だ。
 ああ、と声が漏れる。色もなく、脳内が閃き、御影石が浮かぶ。この下に誰かが眠っているのだ。それでこの場所が開けている理由も、整地されていた訳もすっかり分かった。藪に踏み込み、獣道を深く潜っていたつもりがいつの間にか誰かの墓に辿り着いたらしい。山中にある墓にしては、その表面はあまりにも滑らかで、その足元には何か供え物がしてあるようだった。
 これほどの山深くにまで社会の残滓があることは想定外だった。覆い隠すような深い緑の中、その土の下で、死者は未だ社会に繋がれたままなのだろうか。そう考えた時、恐ろしさが私を支配し、急き立て始めた。その恐怖は螺旋を切り裂き、肉体を自由にさせ、理性に刃を突き立てた。どのくらい時間が経ったのか分からないが、朝日とともに伸ばされてくる手に捕らわれてしまわないようにと、私に半狂乱で命令する。その声に従い墓地を一周し、山道を避け、より強く私を拒む深い叢の中へ分け入っていく。

 愈々見えてきた。根拠などはどこにもなかったが、確信していた。鑓衾のように向けられる草木の敵意が、私の皮膚を少しずつ切り取っては闇の供物とした。倒木どもが足を薙ぎ、骨に痛打を食らわせる。一帯に漂う夜の吐息が体温を蝕むように奪っていく。だが、痛みと疲労に震える私の足腰は、この山の底に近づいてきていることを知らせていた。
 何より、私の眼がそのことを知らしめている。あの黒だ。この世の黒を集めて煮詰めた瓶の底に落ちたような、あの黒だ。あの美しい隔絶が私の双眸を刺すように見つめる。その妖艶な視線は私を魅了し、自らの元へと誘う。 五識は暗幕の内に秘められ、脳だけがぽかんと浮かんでいるようだ。もはや四肢と外気を隔つ境界さえ無い。私に残された唯一つの願いがようやく叶おうとしている。心音を伴わない興奮が全身を満たす。いつしか、自分が立ち止まっていることに気が付いた。ここだ。
 半歩先に、闇の底が開いていると直感した。それはあらゆる感覚器を経ずに、直接もたらされた。夜の底に溜まる闇の、その更に底へと通ずる穴が開いている。全身の痛みが消え、心は穏やかさに染まっていく。一切を静止させ、永遠の隔絶をもたらす黒い褥がそこにあった。
 あらゆるものからの断絶が私を包む。完全な孤独は完璧な充足と同義で、高揚と安心が世界を満たし、そして世界とは即ち私だった。全てが覆い隠された瞬間、私は初めて許されたような気がした。
 もう少し感傷だとか、何かが湧き上がってくるのかと思っていた。例えば目の前の穴ほど黒いものが、胸の内に開くだとか、鮮血のように激しいものが肌を苛むような、そうした情動が。だが、私の中には相も変わらず、その穴に詰まっているのと同じ、凪のような静謐があった。そのことだけが、少し悲しくて、膝を抱えこんだ。

 どれほどの時を、そうしていたのか。あらゆる空間や、その意味をも塗り潰した黒の内で、ただ一つ動くものがあった。私を見下ろしていたそれは、音もなくゆっくりと天蓋を捲りはじめていたらしい。依然として私の眼内には闇が満ちていたが、その中に微かなゆらめきを認めた。天蓋を捲り終えた時という巨人は、やがてその腕で私を夜ごと掬って太陽に晒すだろう。
 立ち上がり、夜の底を見下ろす。踏み出せば、時間の手から逃れて絶対の安寧が得られる。この機を逃せば必ず後悔するだろう、これまで過ごしてきた幾つもの夜のように。目を強く閉じ深呼吸を繰り返す。もう、逃すわけにはいかないのだ。

 その時、消え入るような声が穴の縁をなぞって私の耳まで届いた。その空音のように不確かな響きは、私にもう行くのかと問うたようだった。視線を上げると穴の対岸に霞のような影が立っている。既に、闇の中に影を見出すことが出来るほどになっていたらしい。私は逡巡して、答える代わりに君はどうするのかと問いを返した。
 今日は止めておくと言う影に、すかさずどうしてと重ねる。闇は元の沈黙を取り戻し、私は沈黙の内に待った。それに対する返答にどんな期待を持っているのか、知ることが恐ろしいと思いながら、聞き漏らすまいと耳を澄ました。
 きっと、ここへこうして余人も来ると知れたからさ。ただ私ばかりが来るものではないと知れたことが嬉しかったのさ。
 その言葉を最後に、影は去ろうとした。
 また会えるか知れない、しかしまたここへ来てしまった時、会えたら嬉しいだろうと思う。
 それきり闇は波一つ立てずに、静けさを保っていた。視界が段々と明るんでいくのに気がつく。私は影の立っていたであろう辺りに視線を留めたまま、動けないままでいた。

 やがて、夜の蓋は明いてしまった。隙間から差し込んできた光が、かつて私だった闇を見る間に希釈し、やがて木陰に掃き寄せた。四肢は再び輪郭を取り戻し、陶酔は醒めていく。厚い雲の間隙を縫った光が、足元に靡く草を描き始める。いつの間にやら風もそよいできた。世界は、そうあるべき姿というものを取り戻し、私もまた私に戻っていた。
 不意に、枝葉の間から太陽が僅かにこちらを覗いた。その瞬間私の視界が閃き、暁光が私の目を突き刺した。その激痛に思わずのけ反り、崩れた体制のまま背後に倒れこみ、大きな葉に埋もれるようにしてもがく。痛みが引き、再び目を開けた時、もう底は閉じてしまっていた。体の周りには木漏れ日がいくつも落ち、朝露を輝かせている。それらは依り代とする葉の鮮やかさや、岩の鈍い光沢、花の可憐さを増幅させて林間に放っていた。
 身体を起こすと腕が光っている。産毛の先に付いた雫が、私の色を放つ。泥や傷にまみれた私の腕に付いたそれらは、肌色に赤や茶を混ぜた光を留めていた。暗闇に慣れていた目に世界はあまりにも鮮やかで、痛いほど美しかった。それを眺めるうち、体内に温度と脈が通っていくのを感じる。戻ってきた痛みに呻きながら見上げた太陽はまたいつものように、私の身体にこの世で最も残酷な毒を打ち込んで、美しい日差しを注いでいた。


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木村敦
本、映画、音楽など、数々の先達への授業料とし、芸の肥やしといたします。