子供に「あいさつ」を教えたければ山に登らせろ。
いきなり余談ですが数年前、僕の同期が筑波山登山をしたときに面白いことを言っていました。
「自分の子供に"あいさつ"を教えたければ山に登らせればいいね。」
普段、道を歩く人に挨拶をすることなんてほとんどありませんが「登山」という同じ困難に一緒に立ち向っている実感を得ることで自然と意思疎通を図ることが出来てしまうこのカラクリ。
なんだか素敵だと思いませんか?
実際登っているとき、ただの「こんにちは!」にはいろんな想いが込められているような気がしました。
往路の人が復路の人にかける声には、もうすでに往路を終えていることへの尊敬のような、労いのような、あと少しの下山を後押しするような気持ちが。
反対の場合、これから立ち向かう険しい登り道への挑戦を鼓舞するような、安全を願う気持ちが込められていると感じました。
声を掛けるという行為ひとつ取っても、伝わる気持ちや機能するコミュニケーションの可能性は計り知れないと思っています。
何を言うかの前に、誰が、どんな状況で、どんなタイミングで言うかでその言葉に宿る言葉の厚みは変わってくるのかな。といった感じです。
登山でのあいさつが「心地よく出来る、心地よく受け取れる」理由は、お互いこれまでどのような道を歩んできたか、これからどんな道を歩むのか比較的容易に想像ができるからです。
だから本来、それぞれが全く異なる境遇にが置かれている状況で、他の人に「共感」する事は簡単なことではないはずです。
自分がどんな境遇か理解出来ていないと感じる人に「大変だったね〜」と労われても全く嬉しくないし、「この人わかってないのに...」と少し卑屈な気持ちになってしまいます。(自分が少しひねくれているだけかも知れません。笑)
逆に、それらを理解してくれている人からの言葉(登山で例えると、下山してくる人たちからの「頑張れ〜」はとても勇気が出るし、登ってくる人からの「お疲れ様でした〜」はとても嬉しい。)はそれだけで意味がある気がします。
その「理解してくれている」と言う感覚が、「言葉」により一層意味と重みを付け加えてくれるのです。
もし誰かに言葉を掛ける機会があれば、その人がどんな境遇にいるのか、自分が理解できる事柄なのか、その辺をイメージ出来てから声をかけたいですね。
考えすぎは毒ですが、まずはいろんなことを考えて、深めていくことが面白いと感じているのでこのままの調子で行きます。
今日は短いですがこれくらいで!
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
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本日もお疲れ様でした!
筑波大男子ハンドボール部 森永 浩壽