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 本活動では過去に藤田好三郎氏がどんな人物だったのか、生い立ちや功績について調査した事を下記の記事にて紹介して参りました。

 今回はその晩年について、ご紹介します。
 彼の晩年については、昭和6年頃豊島園を手放した事と、昭和11年に大川平三郎氏が死去し、大川財閥が終焉に向かった事以外、少なくともインターネット上には情報が全く無くこれまで謎に包まれていました。しかし、地道に当時の新聞や書籍を収集した結果、少しずつその動向が分かって参りました。
 残念ながらまだ一部は全貌を掴めていない事があり、そのせいでここ数か月筆が止まっていたのですが、解明にはまだまだ時間がかかりそうですので、今回は分かっているところまでを紹介できればと思います。

 過去記事で紹介した通り、彼は1930年(昭和5年)頃までは当時の経済誌に頻繁に登場し、「大川田中内閣の名翰長」と言われていた人物でしたが、今では「としまえん創業者」と「旧安田楠雄邸を建てた」という実績しか一般に知られていません。なぜ彼はほぼ無名の人物となってしまったのか、その疑問を解明するつもりで読んでいただければと思います。

藤田好三郎氏に対する批判的な証言

 1940年(昭和5年)に書かれた書籍に「日本財閥論(樋口弘 著 味灯書屋)」というものがあります。文字通り日本の各財閥に対する批評を行っている本なのですが、大川財閥については当時既に大川平三郎は死去し、

 一代の事業家大川平三郎が昭和十一年十二月、七十七歳の生涯を閉ぢてから、實際には大川財閥なるものは消え去つた。現在あるものはその抜け殻であり、残骸にあるに過ぎない。

という文章でその章が始まっています。
 藤田好三郎氏については二章の「分離した共同事業家」の中で

 これら平三郎のパートナーたちの資本と事業は、二流投資財閥化した大川財閥、動向と如何に歩んでゐるのであろうか。

という挑発的な前置きから以下のように紹介されています。

 嘗て大川財閥華やかなりし頃、その幕將として樺太工業始め幾多の大川系事業に活躍してゐた藤田好三郎氏も樺工で人の和を缺いたり、疑獄事件を起こしたりもして結局樺工を追い出された。それ以來大川系の事業と關係なく又岳父の田中榮八郎の人肥系の會社とも關係していない。

 この文章を始めて読んだ時、私は大変驚きました。これをお読みくださっている多くの方もそうだと思います。「缺く」とは壊す、つまり樺太工業の人間関係を壊したという意味です。「疑獄」とは今ではあまり一般的的な言葉ではありませんが大辞泉によれば2つの意味があり、一つは大規模な贈収賄のこと、もう一つは犯罪事実がはっきりしない事件の事を言うそうです。
※大辞泉「疑獄」

 つまり藤田好三郎さんは社内の人間関係を壊した上に何らかの事件を起こして昭和15年の時点でとっくに大川財閥から離れていたというのです。
 そんな馬鹿な、と思いましたが同様の内容は1937年(昭和12年)発刊の「日本コンツェルン全書 」の第9集、「浅野・渋沢・大川・古河コンツェルン読本 (西野入愛一 著)」にも書かれています。

 何でも大変な辣腕家(らつわんか)だとかで、樺工の中で、親戚同志で大川系と田中系のゴタゴタを起こし、樺工を追ん出された。それは、昭和5、6年のことだが、それ以来大川系會社にあんまり重要な関係が無くなり、田中の人肥系の會社とも関係が無いので、現在は、火災保険代理業の大栄商會といふのに社長となって、これを本業とし、あとは別にパッとしたこともない。

 昭和5、6年と言えば藤田好三郎氏が経済誌からピタリと登場しなくなった時期と一致します。
 「辣腕」という言葉は現代ではあまり聞きなれない言葉で「事にあたっての処理のしかたがてきぱきとしていること」を意味するそうですが敏腕とは少しニュアンスが異なり、「やり方が多少乱暴でも、きびしく、解決能力が強いさま」を意味するそうです
※大辞泉「辣腕」

 社会での人の評価はその人の置かれている状況によって変わるものです。
 例えば西武グループの二代目、堤義明氏も当初は松下幸之助氏や田中角栄氏からも絶賛され、「堤康次郎が残した最大の遺産は義明君だったかもしれない」とまで言われた人物だったのが、総会屋利益供与事件と証券取引法違反事件の後はパワハラやセクハラ等疑惑が浮上。ネガティブな評価をされる本も多く出版されました。
 藤田好三郎氏もその「疑獄事件」を転機に「人の和を缺いた」「大変な辣腕家」とネガティブな側面がピックアップされるようになったのです。ではその「疑獄事件」とは何なのでしょうか。

失脚の原因

 昭和4年(1929年)11月3日の読売新聞朝刊に、驚くべき記事が掲載されています。

藤田氏ゆうべ収容
樺太工業背任横領事件起訴前の強制處分で

樺太工業株式會社専務藤田好三郎氏は先に背任横領罪で収容された實兄大阪グランド會社社長藤田長左衛門氏の關係から自己關係會社の背任横領罪が明確になつたため、午後●(文字が潰れて読めず)の拘留時間後起訴前の強制處分に依り同五時半市ヶ谷刑務所へ収容された。

 なんと藤田好三郎氏が樺太工業のお金を横領したとして収容されてしまうのです。この容疑はすぐに固まったようで、9日後の11月12日には背任罪で起訴されています。

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藤田樺太工業専務
背任罪で起訴 大阪グラウンド穴埋で

 京電疑獄の副産物大阪グラウンド事件に連座して強制處分収容中であった樺太工業専務藤田好三郎氏は取り調べの結果、實兄長左衛門氏が社長たる大阪グラウンド會社の資本金費消の穴埋めを頼まれて自己關係の會社から社金を流用した事實明白となつたので十一日正午背任罪として起訴された。

 藤田好三郎氏が横領したお金は懐に入れたのではなく、兄の長左衛門氏が経営する大阪グラウンドの資本金の費消(お金を使い果たすこと)の穴埋めに使われたというのです。
 そしてその事件そのものが「京電疑獄」という別の事件があり、その副産物として発覚したとのこと。

 何故そんな事になってしまったのか。それは一旦置いておいて、そのあとの経過と顛末、そしてその中での豊島園の動きを新聞記事を抜粋して追います。

豊島園競売(昭和6年(1931年)12月1日)
(抜粋)豊島園はさき頃入園料や動物まで差押へられたが、今度は安田信託に對する手形債務廿五萬円の不拂いから所有不動産、同町字海老谷戸にある田地五十筆を始め園内の建物はモーター小屋、便所に至るまで何一つ残さず四十六棟全部を競売される事になった

 起訴から2年経過した昭和6年に豊島園は債務不履行で、園内全てのものが競売に出されてしまいます。
 先ほど紹介した「日本コンツェルン全書 」によれば藤田氏が樺工を追い出されたのは昭和5、6年とのことですから、藤田氏が財閥から離れ、財力を失い、昭和6年に豊島園が差し押さえられたと考えられます。

 以上の事から藤田氏が豊島園を手放す事になった経緯について、一部で「樺太工業の経営難が原因」「藤田氏が豊島園を売却した」という流説がネット上等でありましたがそれは誤りであり、

・背任横領罪や辣腕家な性格のため、大川財閥を追い出された
・豊島園は藤田氏が売却したのではなく、差し押さえられた

上記が真実である事が明白になりました。

藤田好三郎氏と五月雨演説事件

 昭和9年、藤田好三郎氏の横領事件はあらたな展開を迎えます。

政府調書に決し文相遂に辭意を固む(昭和9年(1934年)2月20日)
査問委員會の情勢でここ數日中に實現か
(抜粋)岡本一巳氏査問委員會の成行は鳩山文相の進退に重大な關係を持つものとして各方面から注目されている折柄、十九日の査問會において新たに岡本氏が陳述した樺工五萬圓事件の経緯に關して政府は委員會より樺太工業重役の藤田好三郎氏の調書提出方を要求されたのでこれが取扱ひに關して協議した結果、政府としてはこれを拒否する理由なく又同事件に關して司法當局の威信が云々されてゐる事實に鑑みても調書を公にし事件の眞相一切を明白ならしむるより途なしといふ理由により遂に委員会に調書を提出することに決定した。

 当時の衆議院議員だった岡本一巳という人物が、藤田好三郎氏が横領した五万円について、当時の文部大臣である鳩山一郎氏に繋がるものであると言い始めたのです。
 これに伴い、政府も藤田好三郎氏の調書を公にするよう動いたと書かれています。

 一体どういう事なのか、査問委員会での質疑における岡本氏の発言を見てみましょう。

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岡本氏新事實暴露 (昭和9年(1934年)2月20日)
樺工問題の經緯 文相戯言斯の如し
(岡本氏の陳述より抜粋)例の樺工問題について、鳩山君が私に「君一つ丸の内の大川田中事務所へ行つて呉れぬか、そして藤田好三郎君に會ってくれぬか君の名刺を出せば待つてゐるから」と言った、行つてみると藤田君が居て二階へ通された藤田君は「あなたが御引受けなさつたさうですね」ち私に尋ねるので「引き受けたとは何でさうか」と反問したところ藤田君は「鳩山さんからお話はお聞きでせう」といふ譚で●ると(※文字が潰れて読めず)今度は鳩山君が私に「君に行って貰つたのはあすこから君に金を渡したといふ事になつてゐる もし裁判所から呼ばれた場合には受け取つた事にして置いてくれ(以下略)」

 岡本氏の陳述は鳩山大臣から、藤田好三郎氏からお金を受け取るように指示されたという内容の暴露でした。
 この話の中では岡本氏が指示を受けて、訳も分からず大川財閥の事務所へ行くと、
「あなたが引き受けられたんですね」
「話はお聞きでしょう?」
とお金の受け取りへと誘導したのが藤田好三郎氏という事になっています。

 まさかこんな贈収賄事件に藤田氏が加担していたとは、そう思われる方も多いでしょう。
 しかし、この事件はそれでは終わりではありませんでした。

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事実無根として岡本氏は懲罰に(昭和9年(1934年)3月1日)
島田委員長から委員會の経過順に結果を報告し重ねて本會議の討論を行ひ、議決する順序であるが、査問會では岡本氏の發言を事實無根と結論つける事は明慮だから岡本氏は議員の品位を毀ける無根の説を流布したるものとして改めて懲罰に付され(以下略)

 この贈収賄事件、今では岡本一巳氏の完全なでっちあげだという事になっており、現在は「五月雨演説事件」という名で呼ばれています。
 この頃もう一つ大きな汚職疑惑が政界を賑わしていました。それが「帝人事件」です。帝国人造絹絲株式会社、現在「だけじゃないテイジン!」でおなじみの帝人株を巡る贈収賄疑惑が浮上、結果帝人社長や数人の政治家、大蔵省の次官・銀行局長などの16人が起訴さたというものです。
 この帝人事件も後年でっち上げだという事が判明しています

 一体何がこの時起きていたのか。それについては鳩山一郎氏を主人公とした研究が既にいくつか行われていますのでそれを見てみましょう。
 青山学院大学の史学科小宮京教授による「鳩山一郎と政党政治 1887-1943(本郷法政紀要2002-12)」より「五月雨演説と鳩山失脚」の該当部分を紹介します。

 1934年(昭和9)年、議会冒頭で床次が行った演説の評判がよく、政党への期待が復活しつつあった。しかし帝人事件が問題化した。2月に入り時事新報が「番町会」をあばくと題し、台湾銀行の保有している帝人株払下問題を扱ったキャンペーン記事を掲載し、この記事をもとに、政友会に所属する岡本一巳が2月8日に衆議院で演説を行った。帝人事件が、衆議院で追及された嚆矢であった。続けて岡本は2月15日にも本会議で、いわゆる五月雨演説を行った。演説の中身は、鳩山が樺太工業からの政治献金問題で検事局の取り調べを受けることになり、岡本に身代わりを依頼したというものであった。実際には、鳩山が依頼した事実は無い事が立証され、岡本の記憶違いというより、鳩山を追い落とすための謀略であった。当時から、陸軍の関与や、反総裁派の久原の関与が噂された。
(中略)
 なお文相辞職の直接の原因は岡本の五月雨演説事件だが、文相在職中の一連の疑獄や事件も新聞の論調を厳しくしていた。3月3日、鳩山は「明鏡止水の心境を以て謹んで骸骨を乞うた次第である」という声明を発表して辞職した。

※cinii 鳩山一郎と政党政治 1887-1943

 こうして藤田好三郎を巻き込んだ謀略、「五月雨事件」は岡本一巳氏が懲罰を受ける事と引き換えに鳩山一郎氏の文部大臣を辞任させる結果となったのです。
 なお、wikipediaの鳩山一郎氏のページには文相辞任の原因を帝人事件と書いてありますが(2022年4月25日現在)それは誤りのようです。

 現在もデマに乗せられたマスコミが政治家を叩くという事は時々あるのでしょうが、ここまで大規模なものはなかなか無いでしょう。

 興味深いのはこの黒幕の一人と言われる「久原」という人物。「政界の黒幕・フィクサー」と呼ばれた久原房之助氏のことです。

 久原房之助氏は後に日立製作所、日産自動車、日立造船、日本鉱業創立の基盤となる久原財閥の総帥で政界にも進出していたわけですが、この長男の久原光夫氏の妻は藤田好三郎の長女悠紀子さんであるという情報があります。

 つまり、久原房之助氏は息子の義父である藤田好三郎氏を自らの謀略に利用した可能性があるという事になります。

 この時代の有力者たちの権力争いは恐ろしいものがありますね。

 まだまだ分からない事だらけの本件ですが(そもそも大阪グラウンドの京電疑獄事件についても調べ切れていませんが)、今回は一旦ここまでの紹介とします。

タクマの2代目社長となる

 さて、大川財閥を追い出された藤田好三郎氏ですが、全くの無職になったわけではありません。1938年(昭和13年)には下記の記事に藤田好三郎氏の名前が見えます。

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壽重工、ヴルツ重役陣を補強(1938年5月15日読売新聞朝刊)
 壽工業並びに傍系日本ヴルツ絹糸では來る廿八日開催の株主総會において今季決算案の外定款変更及び取締役、監査役の増員、重役體制の快晴を付議するが(中略)尚興銀関係より武文彦深尾道怒壐氏及び寺田甚吉、藤田好三郎氏も入社し日本ヴルツ絹糸を壽繊維工業と改称し重工業、繊維工業部門にわたつて陣容を補強整備することになつた。

 この壽繊維工業という会社は現在のカネボウに繋がる会社のようです。勿論財閥の一族と資産や財力では比較にならないですが、会社の役職に就くなど昭和10年以降も経済界においては一定の評価は得ていた事が伺えます。
 また、藤田好三郎氏は同年田熊汽罐という会社の取締役にもなっています。田熊汽罐は藤田好三郎氏が大川財閥に入る前、三十八島銀行の支配人だった時の取引先です。それは大正時代初頭の事でした。

藤田好三郎に会う
 田熊は病弱な体で事業のために奔走しなければならなかった。万策尽きた彼は、最後の手段として三井物産に当たってみた。まずは神戸支店を訪ね、名義信用を申し入れ、必死に説得して了承をえ、さっそく平尾製鉄所へ、三井物産の後援を伝えて、汽罐製作を承諾してもらった。
 ついでに金融は、友人を通じ、三十八銀行、藤田好三郎に懇願し了承を得た。
 こうして、三井物産をバックに、製造、金融の面で安泰となり、経営の基盤を築いた。
(産業フロンティア物語34 田熊常吉 ダイヤモンド社 1986)

 取締役として招聘された藤田好三郎氏は田熊常吉氏の信頼が厚かったようで、1941年(昭和16年)5月、田熊汽罐の社長に就任します。

 田熊汽罐二代目社長。これが藤田好三郎氏最後の仕事となります。

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死去

 「産業フロンティア物語」には藤田好三郎の二代目社長就任の一文に続けてこう書かれています。

 田熊汽罐では、昭和十六年五月、初代社長田熊常吉が取締役会長となり、代わって藤田好三郎が二代社長に就任したが、この藤田好三郎は翌十七年三月に死去、三代社長に茶谷保三郎が就任した。

 読売新聞の記事にも死去の知らせは掲載されましたが、それはとても小さいものでした。

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 藤田好三郎氏(1942年2月22日読売新聞朝刊)
 田熊汽罐株式會社社長藤田好三郎氏は廿一日午後四時卅四分敗血症のため築地聖路加病院で逝去した。享年六十二年、告別式は廿四日午後一時から築地本願寺で執行される。

 ご覧の通り、藤田好三郎氏が亡くなったのは1942年昭和17年2月21日午後4時34分。死因は敗血症でした。
 1942年と言えば、豊島園は既に所有者が堤康次郎氏率いる武蔵野鉄道に買収され、ますます遊具の増設や動物の拡充が図られていた時代。彼はそんな豊島園をどんな気持ちで見つめていたのでしょうか。

 なお、葬儀は築地本願寺で行われたようですが墓所については今のところ不明です。
 先日、大川財閥の墓所がある田端の大龍寺に行ってきました。財閥を築いた一族の墓所には大川平八郎、その兄の大川英太郎、弟の田中栄八郎氏の名前が並び、敷地内には夫人や子息の墓もありましたが残念ながら藤田好三郎氏の名前を見つける事ができませんでした
 恐らく彼は一般人としてひっそりと墓に眠っていると思われます。もし見つける事ができましたら豊島園創業者への敬意をこめてお参りに行きたいと思っています。

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 長文になりましたが以上が豊島園創業者、藤田好三郎氏の晩年について現段階で分かっている事です。
 としまえん閉園後、彼を称え過ぎる声を一部ネット上で見かける事もありましたが、彼も時代の流れに翻弄されつつ生き抜いた一人の人間。成功もあれば失敗もあり、偉大な事業を興した一方で不正行為も行っているのです。

 歴史から学ぶとは偉人を手放しに賞賛し続ける事ではありません。先人たちの人生の成功と失敗を素直に吸収し、これからの我々の時代に生かす事です。

 としまえんが残した100年の歴史。偏った視点ではなく澄み切った視点で、ありのままの歴史を地域の皆さんと学んでいければ嬉しく思います。

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