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わたしの子供時代の食と牛乳と畜産

#foodskole 「2021年度前期Basicカリキュラム」
「食」に夢を持てる社会を創りたい
第五回目の授業は6月8日火曜日、「見える畜産」
この授業の課題は、畜産業の歴史的背景と現状を知り、これからの消費について考える材料を手に入れる。
講師は、山地(やまち)酪農を実践している、なかほら牧場の中洞正さん。

「畜産業の歴史的背景と現状」という観点から、私の子供のころの給食のこと、牛乳や牛肉のことを思い出してみることにした。

自分の育った時代を確認する

私の生まれたのは、北海道帯広市、十勝管内の中心地区で1966年に生まれた。今年55歳。
なぜここで年齢を言うかというと、中洞さんが最初の自己紹介のときに、彼が1952年に生まれたということを強調されていたから。中洞さんは、戦後これから日本が高度成長期に入り、さまざまな加工品や工業製品の中で生活することになること。1952年は、日本全体がまだ自給自足の生活をしていた、それを知る最後の世代であることを強調されていた。
中洞さんの全体の話を聞いていて、自分の生まれた頃の日本の食事情や、小学校のころの食生活、そして給食の様子など、他の人の話を聞くと、年代によって大きく違っているように思え、それに伴って意識も大きく違っているように感じる。
ここまでの授業の中でもそれは感じていて、その時の問題点が、今の食の在り方に大きくかかわっているのでは、という印象が私の中で大きくなっている。
何が良くて何が悪いではなく、同じようなことが時代の価値観によって大きく異なっていることが興味深い。

この授業が終わった後、自分が子供のころの食事情というのは、これまでの歴史の中でどのような特徴があるだろうか。
書いてしまってから、結局何が書きたかったのかいまいちわからなくなってしまったけれど、とりあえず自分の見てきたものがなんだったかは書けたのではないかと思う。

私が生まれた頃、育った時代

1966年というと、前の東京オリンピックから2年目、アメリカの月探査機が人類初の月面着陸を果たした次の年。この年は丙午ということもあり、好景気でありながら出生率が落ちた年でもある。
このころから日本は経済成長率が10%を超え、いざなぎ景気と呼ばれ本当の意味での高度成長期に入り、白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫の三種の神器は、カラーテレビ、クーラー、自動車に変わっていった。
円の自由化は1973年の小学4年生のときで、それまでは1ドル360円~308円の固定レートだった。

カルビーのポテトチップスが発売されたのが、1975年の小学校6年生のとき。このころから、ジャンクフードと呼ばれるしょっぱいお菓子がたくさん発売されるようになり、家でおやつを作る母親が少なくなったような印象がある。

化学調味料が主流になったのも私たちの子供のころ。1960年代に「化学調味料は頭がよくなる」という健康ブームがあり、強制的に食べさせられた記憶がある。

チクロ甘味料の使用禁止、合成着色料の発がん性問題など、経済発展に伴いさまざまな食品添加物の問題が発覚したのも、私たちが小学生のころだ。

私の子供のころ。
1960年代後半から1990年代くらいにかけては、高度成長期に伴う食のでたらめが浮き彫りになった最初の時代だったと思う。
20代、30代でさえまだ戦後の食がない時代を経験しており、祖父母の中には文明開化を知っている年代もまだいた。明治的な封建思想が高度成長期の新しい思想と、常にぶつかっているような時代だった。

北海道の食肉

今や日本屈指の農業と酪農地域である、食料自給率1200%を誇る十勝の地も、昔はそんな土地ではなかった。
今でこそ十勝牛といえばブランド牛のひとつでもあるが、私の子供のころは「牛肉は内地に出荷するもので、地元の口に入るものではない」と言われた。すき焼きをしても、肉は豚。しゃぶしゃぶというものが流行った1970年代後半でも、羊の肉でしゃぶしゃぶをしていた。
羊も当時は羊毛をとるために飼育されていたため、食用の羊というものはなかった。羊の肉は、老廃羊という毛をとることができなくなった羊を用いていたため、マトンが主流(マトンだってまともなマトンはおいしいのだけど)。羊の肉が臭いというのはそのためで、北海道名物のジンギスカンは、たれに漬け込むことによりその臭いをごまかす食べ物だった。

1970年代に入りまともな羊肉が出回るようになり、ラム肉のジンギスカンが店頭に並ぶようになった。しゃぶしゃぶもラム肉で楽しむことができたが、その肉は端肉を固めてロール状にして冷凍した肉だった。
今は牛肉と同じように、ロースやヒレなどの部位ごとにわけられ、関東では考えられない値段で普通にスーパーでおいしいラム肉を買うことができる。

そして私が知る限り、牛乳は幼稚園の頃から普通に飲むことができるものだった。

日本人とミルク

ヤギの乳

戦後の日本では、ミルクといえばヤギの乳が一般的だった。私と10歳ほど違う神奈川生まれの人で、昔はヤギの乳しかなかったとまでいう人もいる。
ヤギの乳は乳脂肪が小さく人の母乳にも成分が近いことから、戦後の栄養状態の悪化で母乳が出ない母親の代わりにもなったらしい。
しかし、ヤギの乳は一回の搾乳量が多くないため、日本全体に配給するほどの安定量は見込めない。当時は、河川敷の草地などで育てられていたヤギも、高度成長期に入り川べりも堤防化されて草地が減ったことから、ヤギを飼育する人も少なくなった。

脱脂粉乳

給食でいえば、私は小学校1年生から中学3年生まで給食が支給され、出されたミルクは脱脂粉乳ではなく最初から牛乳であった。
66年生まれで脱脂粉乳を知らないと書いたが、これは地域性があるようだ。私が出会ったさまざまな地方の人で、私よりも年下で脱脂粉乳を経験している人もいた。Wikipediaで調べると、1970年代前半まで学校給食に出ていた地域があるとのこと。私が小学校に入学したのが1972年なので、私はちょうど端境期にいたのだろうと推測する。北海道はやはり牛乳の生産地なので、牛乳支給も早かったのだろう。

脱脂粉乳はもともと、アメリカが日本の子供たちのための支援物資として配給したのがはじめ、とされているらしい。

Wikipediaを見ると栄養豊富なスキムミルクのようなものと書かれているが、実際に飲んだ人の話だと、決して美味しいものではなく、たとえ物がない時代だとしても毎日飲むには苦痛が伴うような飲み物だったらしい。
多くの人が言うのは「臭い」という印象。残すと叱られるので、鼻をつまんで流し込んだという話はよく聞く。
アメリカから支援物資の供給は1952年で終了されているので、なぜ脱脂粉乳が1970年代まで使用されていたかは調べてもはっきりしたことは判らなかった。
最初のころの脱脂粉乳は牛乳の主成分はほとんどなく、搾りかすのようなものを水で薄めたものが配給されていたと聞く。当時のアメリカをよく思わない人からすれば、自国の牛乳を加工して排出されたあまりの捨てるようなものを日本人に食べさせていた、という人もいる。

“普通”の牛乳

今の日本の牛乳は、高温加熱殺菌方式で殺菌されたものがほとんどだ。私の子供のころは、ノンホモ牛乳というものはあったが高価で普通には売っていなかった。私たちが普通に「牛乳」と呼ぶ生乳に分類されるものは、脂肪分の多少の違いはあれど、全てこの牛乳。

乳脂肪分については「道端から牛が消えて、サイロが消える」の項で後述するが、この方法で殺菌すると牛乳の特定の蛋白質が変質してしまい、チーズができない。チーズの凝固に必要な蛋白質はほとんど残らない。同じ理由でバターにも生クリームにもできない。
なので、流通される生乳は加工乳に転用することができない。出荷して期限が過ぎた牛乳は、加工乳かヨーグルトになる。最近は搾乳量が多いと、そのまま捨ててしまうこともある。

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上の写真は、チーズを自宅で簡易的に作る実験をしたときのもの。
上が低温殺菌牛乳にレンネットという凝乳酵素を加えて、カートという牛乳豆腐のような蛋白と、ホエーという水分の蛋白にわかれた状態。脂肪分は一般的に販売されている高温殺菌牛乳と同じ3.6%のもの(写真撮り忘れた)。
下は濾してわけたところ。
カートはこれを加工してチーズを作る。そのまま食べると牛乳豆腐のような甘味のあるさわやかなチーズが味わえる。
ホエーもここからカッテージチーズを作る。そのま飲むと、牛乳の甘さが凝縮されて非常に甘味がある。カートよりも数段甘く感じる。ヨーグルトの上にういている水分もホエーだが、こちらは乳酸発酵されているためすっぱい。今回作った凝乳剤は味がないので、これは純粋に乳の蛋白質の甘さだ。
高温殺菌牛乳では、カートが破壊されてしまうのでチーズはできづらい。

道端から牛が消えて、サイロが消える

私の子供のころは、まだあちこちにサイロがあって、少し郊外に出ると牛が放牧されているのを間近で見ることができた。
六花亭にリッチランドというサイロの形をしたサブレのお菓子があり、これは六花亭がまだ帯広千秋庵という名前だった時代からあるお菓子だ。リッチランドには、十勝管内の小学生の詩がパッケージに印刷されている。そのことは十勝管内の人ならだれでも知っているし、リッチランドに詩が掲載されるのはステータスでもあった。それくらいサイロは十勝にとってはあるべきものであり、サイロがある景色は十勝の景色そのものだった。

1986年に上京し、しばらくすると空港から帯広市内に向かう道に牛の姿がなくなっていることに気づく。
北海道を離れて10年くらいしたときに、サイロが朽ち果てている農家があちこちに現れる。サイロは酪農家の命でもある。サイレージが失敗することは、一族が夜逃げするくらいの大事だったので、サイロが朽ち果てるなんてことは考えもしないことだった。

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中洞さんの話の中で、1987年3月4日の日本農業新聞にて、生乳の脂肪分が3.5%を基準にするという記事が紹介された。

この取り決めの後、酪農家はいっせいに牧草でのサイレージから配合飼料での工業型酪農に切り替わったという話。配合飼料が主流になれば、サイレージはしなくてよくなるし、サイロも必要なくなる。
これは帰省したときに、道端から見える牧草地から牛の姿が消えた時期と一致する。
北海道らしい牧草地でのんびり草をはんでいる牛の姿がなくなって、ただ広がる草原だけが残った。

現在サイロは、朽ち果てるまま放置されているところが多い。大型酪農に切り替えた農家も、生乳の買取価格の低下と、搾乳しても販売できない状況が何度か続いたこともあり、跡取りがなくそのまま廃業するところも多いからだ。
取り壊すにもお金がかかり、そのまま年間数千円の固定資産税を払った方が安上がりだというのが、放置している理由らしい。
聞いた話だと、北海道らしい景観を維持するため、自治体がお金を出して空のサイロに助成金を出しているところもあるらしい。

最近になって、十勝でも配合飼料を使わない酪農をする人も増えてきた。
それでも、牧草は輸入しているものを使用する人も多い。牧草地を再建している人もいるが、いずれもサイロでサイレージをせず、ラッピングサイロを使用することが多く、牧草地にまるめられた牧草がころころおいてあるところが多い。
いずれにしても、サイロは幻的な存在となってしまった。

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配合飼料と成長促進剤

私の育った1960年代後半から70年代という時期は、日本が経済成長していく過程で、新しい技術の中で身体に悪影響のある可能性に目をつぶることも多くあった。
家畜の成長を促進するため、配合飼料に成長ホルモンを添加したりする時代もあったが、現在国内の酪農では禁止されている。しかし、アメリカやオーストラリアでは認可されており、それらの肉が輸入されることは禁止されていない。
また中洞さんの話では、酪農の工業化で運動不足になった家畜のホルモンバランスの乱れを、ホルモン剤でコントロールするということは認可されているという。

日本が牛肉の輸入自由化になったのは1991年のことなので、私が上京したばかりのころはまだ外国産の食肉が多く出回ってはいなかったが、外食産業の普及に伴い異常に安価な食肉や魚の加工品というのは存在していた。
なんの魚だかわからないフィッシュフライや、アメリカ産の牛肉は加工された状態で輸入され、ハンバーガーやコンビニのおかずになっていた。

1990年と1991年に、私は卵巣から突然出血するという病気で、救急搬送され手術をした。最初は左、半年後に右の卵巣から出血した。24歳のときのことだ。
私が入院している間に、同じような症状の若い女性が何人か入院していた。
このときの手術は、30代になって再び私の生活に影響しはじめ、その後閉経までの十数年私の生活に影響した。
二度目の手術で退院するときに、私の主治医がこう言った。

昔はこういう人はいなかったけれど、ここ数年でホルモンの異常で卵巣から突然出血する人が増えたように思う。
戦後にホルモン剤などを入れた肉や、これまでとは違う育て方をした食べ物なんかが原因なのではないかと考える研究者も多く、因果関係は今研究中なのだけど。

1987年に、牛に配合飼料を与えるようになってから数年後。
欧州では、1980年代前半に成長ホルモンの使用は禁止されている。
日本は食肉に関しては自給自足に近い状態があったため、それ以前の食肉に影響があったとは考えにくい。また、1970年代の食べ物への発がん性などを懸念される化学物質の過剰な添加も、まったく影響がないとはいえないだろう。
私の子供のころは、経済発展と引き換えに環境汚染が広がり、何が安全で何が安全でないか自分で考える情報もなかった。
結局、閉経までこのことが解明されることはなく、今でも因果関係はわかっていない。主治医はすでに亡くなっていて、確認することもできない。

牛乳の影響

これはソースを見つけることができなかったのだが、母親の思春期に摂取した乳製品が、子供のアレルギーに影響するということを何かの記事で読んだことがある。少なくとも、妊娠した乳牛から搾乳した乳は女性ホルモンの含有率が高く、思春期の女性や妊娠時の母体に大きく影響があり、その胎児にも影響するということが2011年の山梨大学医学工学総合研究部の研究論文で報告されている。

https://kaken.nii.ac.jp/ja/file/KAKENHI-PROJECT-21790576/21790576seika.pdf
牛乳摂取量と思春期前小児の身体成熟との関連

ホルモンを人為的に添加しなくても、牛乳は人のホルモンにも密接に関係していることがわかる。
私たちはこれを幼児期から思春期にかけて、強制的に摂取させられていたのだ。
牛乳が健康な状態なのであれば、特に何も思わないだろう。だけど、私のホルモンの病気が何か関連すると仮定した場合、牛乳の元の牛の状態が多少なりとも影響があるのではないかと懸念することもできる。
生理が異常に辛い人や、子供が授かりにくい人、更年期の長期化や、男性の更年期障害。人間の寿命や生活スタイルの変化も大きいけれど、食べるものに由来する影響も少なくないのではないかと思えてならない。

アレルギーや過敏症、アトピーなどのことを話すfoodskole内の座談会に出席したとき、Aさんのお子さんの学校では給食で牛乳を飲めない子供には、牛乳代を返納する取り組みがなされているという話を聞いた。
牛乳が飲めず、給食時間が終わっても残されて泣いていた友達のことを思い出す。
給食に未だに牛乳が出る必然性についても、中洞さんの授業のあとに意見が出ていた。給食の牛乳が今の時代にあっているのかいないのかはわからないけれど、飲みたくないものを強制的に飲まなくてもいい世の中にはなっているようだ。



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