新しき地図 3 のぞみ苑
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3 のぞみ苑
1
ダイゴは、自分のクリニックで外来患者をみる一方、午前と夕方の間の休憩時間に、訪問診療をおこなっていた。いわゆる、在宅医療だ。
ダイゴは「のぞみ苑」に、2週間に1回、訪問診療をはじめることになった。それが、今回の「嘱託医」の仕事の内容だ。
老人施設に、医療スタッフが常駐しないことは今の時代よくある。実際問題として、医療スタッフが老人施設に常駐すると施設スタッフには「安心」という実態のないものがうまれる一方、医療スタッフが医療的にやれることは、ほとんどないのが実情だ。そして、その施設スタッフの「安心」は、自分でなにも考えない「無責任」へとつながっていく。
老人施設への訪問診療も、広い意味で在宅医療のひとつといえる。個人という家ではなく、施設という集団生活がおこなわれている家、にあたる。
マスコミで紹介される在宅医療は、ごく限られた「めぐまれた」人たちのものという印象がある。つまり「住み慣れた家で死ねる幸せ」というスローガンが独り歩きしている節がある。だが、現実の在宅医療の多くは、「社会から『捨てられた』弱い」人たちの、セーフティーネットワークだ。
そういう意味で、在宅医療は必要だし、必要なものであり続けている。
在宅医療は、一部のマスコミの論調のように「より良い最後をむかえる」ための特別な手段ではない。
マスコミの論調につられて?在宅で、家族の手で患者をみようとする、少数の患者の家族はいないわけではない。しかし、実際にそれが始まると、多くのことを学ばねばならず、肉体的・精神的な膨大な負担が、看る家族にのしかかる。
特に、患者を看取る際の負担はたいへんだ。
経験ある医療者でも、その家族が入院すると、「客観的な」考えや行動ができなくなるので、自分の家族の担当からは「はずす」のが普通だ。
それを、在宅医療では、経験のない家族に逆に求めるのだから、もともと無理があるのだ。
医療は、あるいは、人にたいするケアは、多くの人が思うようなものとは、ずれることがままあり、それが、医療・介護スタッフに対する、家族からの不満と不安へとつながる。
例えば、看取りの場面において。
家族としては、本来的には、死んでほしくはない。
その望みがかなわない条件のもと、いくら「症状緩和につとめる」とか「最後までそばにいる」というような美辞があろうと、どこかで、「望みがかなわないことについて妥協せねばならない」つらい場面がでてくる。
それを、医療・介護スタッフがカバーするのだ、と言うことはできるが、実際の現場では、自分で妥協するかわりに、自分のもつ本来的な望みがかなわない責任を、医療・介護スタッフにおしつける、ということは決して少なくない。
また、本当に在宅でなければだめなのか?という疑問は、特に、「より良い?最後をむかえる」ための特別な手段としての在宅医療には常につきまとう。
一方、多くの割合をしめる、社会から捨てられた「弱い」人たちの、セーフティーネットワークとしての在宅医療は、家族の志が最初に「高く」ない分、より良い前向きなことができる気がする。
では、住む所が、自宅でなく、「のぞみ苑」のような老人施設の場合はどうか?
この施設の入所料を払えるような家族は、金銭的にめぐまれている。社会から捨てられた「弱い」人たち、どころか、「社会的に成功をおさめている」家族だ。そして、率直にいって、家族の志は「高く」ない。看取りの際の、肉体的・精神的な負担を、自分の家族でなく、施設職員に金銭とひきかえに替わってもらうわけだ。
もちろん、けっしてそれは「悪」「必要悪」ではない。
そのことを「悪」というのは、不確かな前提として「家族というつながりの理想」という思い込みがある場合である。でも、血縁のない家族だって、家族でありうるのだ。
だから、施設に老人をあずけるというのは「必要」からだ。施設にあずける金銭的余裕の有無は、また別の問題だ。
ただ、ここの入居者の各々は、施設の入居費を払ってくれるだれかが、身近にいる「幸せ」な境遇なのだ、ということは言える。
体が弱り、記憶力や判断力が鈍ってきている、気の毒な状態にあることを差し引いて考えるとしても、だ。
2
ダイゴが「のぞみ苑」への訪問診療を定期的にはじめて、しばらくたった、ある日、「のぞみ苑」に一人の入所者がやってきた。
入所者情報の書類は、ほとんど書き込みはなかった。
鈴木宏、63歳。
病名は「逆向性記憶障害」とされていた。80歳以上の高齢者の入所者が多い「のぞみ苑」では、異色だった。だが、ここでは、介護保険の介護給付をもらっているものだけでなく、障害者福祉サービス(介護給付)をもっているものも受け入れていたのだった。
*
病院の治療を経て、退院をせまられるときがあります。
それを、「病院から追いだされる」という言い方で表現されることもあるようです。しかし、病院側は追いだそうとしているわけではありません。病院のベッドは有限です。そして医療には限界があります。治癒や延命が現在の医療ではみこめない病気もあります。病院の治療で、みなが若々しい元気な状態にもどれるわけではありません。病気になり治療が一段落しても、元の状態にもどれないという「非可逆なこと」はしばしばあります。
特に「老い」がそこにあるとき、治癒や延命がよりむずかしくなります。人間はいつまでも若いわけでも、不老不死というわけでもないからです。
病院側が、付き添いがあれば家庭で暮らすことが可能だという判断としても、家庭で付き添ったり介護をしたりすることが困難なとき、「追いだされる」という言い方がされるようです。その困難さの理由は様々だと思います。重度の障害でそもそも介護がむずかしい、あるいは人手がいない、などなど、各事例で様々です。
そういうときに役に立てるような施設をめざして「のぞみ苑」は開設されました。
この施設はホスピタルではありません。病気の治癒や延命を目的にしていないからです。もちろん、最近の医療は、治癒や延命を目的にするだけでなく「生活の質(QOL=Quality of Life)」もめざしています。ひとつの典型例は、末期がんの最後をみとる緩和医療を行うホスピスです。
この施設はホスピスでもありません。末期がん患者だけを受け入れている専門施設ではないからです。
一方、高齢者の医療は、広い意味でいえばホスピスでの緩和医療=治癒や延命を目的にせず、QOLをできるだけ保ちながら苦痛のコントロールをすること、に似た側面があります。もちろん文字通り同じではなく、残された寿命が、数カ月なのか、数年間なのかという違いだけでもありません。
「のぞみ苑」はこのような背景からうまれ、一筋縄では解決しない高齢者の問題を解決していこうとする老人施設です。
*
入居前、鈴木宏が手にした、「のぞみ苑」のパンフレットには、このような施設長の野崎淳の言葉が書かれていた。
鈴木が、「のぞみ苑」の玄関の前にはいろうとすると、そこ
には太いシンボルツリーがあった。新しい建物なのに、その樹は、人間二人くらい手をつながないと幹をまわれないくらいの大樹であった。あまりにも立派な木なので、建物の造成のときに、切り倒さずに、そのまま残されたのだろうか?
(樹齢は、どのくらいなんだろう?)
鈴木は樹の種類にはうとかったので、それは何の樹かはわからなかったが、樹の前には「イチイの樹/樹齢150年以上/県の樹」という立て札がたっていた。
大きな樹のはるかかなたの空は夕暮れ時で赤くきれいにそまっていた。
それをぼんやり眺めたたずんでいる鈴木に、施設からでてきた中年の男が声をかけてきた。
「ぼんやりしていると、この樹に食われてしまうから、気をつけなさいよ」
「樹に食われる?」
「以前、この樹の根元で寝ていた施設の入所者が消えたり、かくれんぼうで樹のうしろに隠れていた入所者が消えたりしたことがあったのさ。知っている人は、この樹のことを『呪われた樹』とか『人を食う樹』という人もいる」
「まさに人を食った話ですね」
と、鈴木は、まじめにおかしなことを語る男に答えた。
しかし、おかしいのは、鈴木の方だったのかもしれない。
その男は、鈴木に声をかけ樹のうしろにまわりこむと、そこで姿を消してしまったのだった。
いつまでたっても、樹の陰からでてこない男に気がついた鈴木は、樹にまわりこんで幹をひとまわりしたが、その男の影も形もなかった。
知らないうちに、樹からはなれ、他の方向へ行ってしまったのだろうか?
しかし、そんな様子は鈴木にはわからなかった。
それとも、自分がみたのは、幻覚だったのか?
そしてその樹の背後を調べているうちに、鈴木は、地面に植えられて咲いているいくつものパンジーが、なにか文字を描いていることに気づいた。
「ようこそ、のぞみえんへ」
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