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新しき地図 5 新しき地図 (4~6) 幻想的な幻覚、あるいは幻覚的な幻想

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5 新しき地図 (4~6) 幻想的な幻覚、あるいは幻覚的な幻想

     4
 
 入所者の様子に話を移そう。
 ここの施設の入所者の中には、「女鈴木」のように、ここを学校と思っている者だけでなく、いろいろな妄想や空想あるいは幻覚と共に日々生活を送っている者が、多くいた。
 一般的にいえば、妄想や空想あるいは幻覚は、毎日の日課が妨げられなければ、目くじらをたてるようなものではない。自由にどうぞ、である。
だが、些細な妄想でも、毎日の日課が妨げになるようなものはちょっとだけやっかいだ。
 おむつから便や尿がもれた、とか、老人が隠した食事や家人のもちこんだ食物が腐って異臭をはなったとか、トイレットペーパーを便器に大量にいれ詰まらせたとか、大声をあげるとか。それらの行為の背後にはそれなりの理由=妄想、がたぶん隠れている。それでも、相手は、自分では動けない、力の弱い老人のこと。「ちょっとやっかい」。
 一方、突拍子もない妄想も、毎日の日課に差しさわりのないようなものであれば、やはり、ちょっとやっかいなだけだ。
 例えば、自分は、名前を失って名前なき壁になったのだ。あるいは、名前を失った後、あらたに別に「タンポポ」という名前をもらい植物になったのだ、と考えている者。
 ここにいる入居者は、みんな、仮面を毎日かぶっている。自分も、毎日仮面をかぶっている。でも、他の入居者と違い、自分の仮面だけは「日替わり」だ、と思って、他の入居者に対して優越感を感じている者。
 自分は幽霊だから、ほかの人からは見えない。でも、私からは、ほかの人が見えるのだ、と思っている者。ときどきは、油断して、目撃されてしまうこともないわけではないが、それは御愛嬌ということで。ウェー。
 自分は、絹糸にくるまった繭の中にはいって、毎日を送っている、と思っている者。それは、部屋の中での姿だが、時々、部屋の外でも、繭化してしまうので、みんなに自分の正体がわかってしまっている、と悲しんでいる者。
 自分は、箱をかぶって、移動しているから、他の人は、ただ、箱が動いているだけだと思っているだろうが、実は中には、私がはいっていて、箱にあいた穴から周囲の様子はしっかりみえているのだ、と思っている者。
 毎日、夜になると、部屋の中に、大きなお月さまがやってきて、私ににっこり微笑みかける、と思っている者。その直径は2メートル近くあって、オレンジ色をしている。どこから部屋に入りこみ、朝になるとどこに消えていくのか、謎であるが。
 不思議なのは、時には異様でグロテスクなそれらすべてが、恐怖の対象になるとは限らないことだ。
 いずれにせよ、一人でトイレに移動できなくても、誰かに食べさせてもらわないと食べられなくても、妄想はできるのだ。
 ある意味、それは、残っている人間らしい営みのひとつともいえた。
 
 個人的な一人だけの妄想にとどまらず、その妄想を複数の入居者で共有している例もあった。
 ひとつの例は、「われわれは、みんなで、或るシェルターの中にいるのだ」という点で共通した考えをもったグループだ。参加者には男性が多い。
とはいえ、グループ内のメンバーの間で共通しているのは「ここはシェルターで、我々は、なんらかの使命が与えられている」というところだけで、そのシェルターの目的等、こまかな所では、てんでばらばらだ。
 そのグループのひとりは、施設に入居した当初、自分はモグラで、毎日穴を掘るのが仕事だ、と言っていた。もちろん、彼は、実際に床を掘ったりはしない。「頭の中で」掘っているだけだ。そして、やがて、彼は「シェルター」をつくるために自分は穴を掘っているんだ、と思うようになった。
別のひとりは、当初、自分は外で手術をうけたために、性欲がなくなりかわりに食欲がふえた、とよく話していた。そして、やがて彼は、手術を受けてから、思想も変えられここのシェルターに送り込まれた、と主張しはじめた。
「もちろん、前の自分の思想など、おぼえていない。とにかく、今は、目前にせまったお国のための内戦のために、ここに潜んでいるのだ」
別のものは、自分は不治の病にかかっていて(ある意味、あたっている)最後の仕事で、ここのシェルターにはいったのだ、と思っていた。
 まあ、ある意味、自由な外出が禁止され、一日中一年中、同じ建物の中に閉じこもりっぱなしなのだから、ここをシェルターと呼んでもおかしくはないともいえる。
 ある日、鈴木宏は、自分が床を掘るモグラだと名乗っている男と話している時、ここ「のぞみ苑」にきた初日、施設の前のイチイの木の根元にいて、「気をつけないとイチイの木に食われてしまうぞ」と話しかけてきたのは、この男だったのではないか?と一瞬、本気で考えてしまった。
 それほど、彼の妄想は、本当らしいウソだったのだ。彼の話では、ここの施設が建てられた地面には、太平洋戦争のころにつくられた防空壕があって、自分の部屋の地面の下には、その出入り口がある。時々、彼は、自分の部屋から、その地下の防空壕をおとおって施設外にでるという。その施設外の、防空壕の出口は、施設の前にある、イチイの木の根元にあるという。その防空壕は、そのまま、シェルターに転用できるのだという。
 もちろん、鈴木がもう一度確認しても、モグラの部屋にも、イチイの木の下にもそんな穴などなかった。
「いったい、そのシェルター、核戦争に備えるにせよ、テロリストによる内戦にそなえるにせよ(もしかしたら、自分たちの方がテロリスト側で追い詰められている、と考えている者もいるかもしれないが)、宇宙人襲来とか隕石の地球激突とか台風とかに備えるにせよ、いずれにしても隊長というものが必要だと思うのだが。決めないでいいのかい?」
「新しい人よ(鈴木宏のことだ)、もしかして、自分が隊長になれるんじゃあないかと、思っているんじゃないかい?」
「とんでもない」
「よしな、よしな。あんたは、確かに賢そうだが、賢いだけが隊長の器というわけではない。あんたが望めば、参謀とかなら、推薦してもいいがね。隊長は決まっている。誰も、何もいわないが、みんな、そう思っている。自分ですすんでここのシェルターに来た者も、無理やり連れられてきた者も、よくわからずここにいる者も、みんな、同じ気持ちさ。なんなら、ためしてみるかね」
 ちょうど、お昼ごはんどきだった。
 モグラなど、妄想や空想についておしゃべりをする老人たちは、比較的しっかりとした老人たちだ。彼らのように会話する者は、施設の利用者全体からみれば、ごくわずかだ。
多くの利用者は、一日中、ほとんど口をきかず、職員の指示にかろうじてうなずく程度なのだ。
 早く一人で食事を終えた、モグラたちとそのグループのメンバーたちはTVのまわりに自然に集まっていた。
まだ食卓には、職員の全介助でゆっくり食事をしている者、いくら職員がうながしても、食事をとろうとせず、ほとんど手がつけられてない食事を目の前にぼんやり座っている者もいる。また、食事の最中に、トイレに連れられて行く者、食事が終わって歯みがきをしている者、ようやく部屋から職員に車いすで連れられてきて食卓につこうとする者もいる。
 そんな中、モグラはつけていたTVのスイッチを急にオフにした。
 急に、音の消えた食堂に、モグラの声が響いた。
「施設長。施設長がわれわれの隊長だ」
 突然の大声に、食堂にいた者の多くは(全員ではもちろんない)、手を休め、モグラの方をみた。
 拍手など、おこるはずもなく、賛成や反対の声も、おこるはずはなく。
 どうなることか?と私が心配していると、施設長の野崎淳の声が、響いた。
「知っているさ。まかしときな」
 人々は、その声を合図に、また、自分のやっていた動作にもどっていった。TVのスイッチも、誰かの手で再びオンになった。
 施設長の野崎を、口にださずともみんながたよりにしている。
そのことを、鈴木は知り、驚き、そして嬉しく思った。
 そして、あらためて思った。確かに、ここの住人たちは、満員電車から無事おりることができたという意味で、めぐまれた境遇にあるという点で共通している。
 
 それからしばらくたったある時期、施設の介護職員が不足したとき(介護職員は、やめたりはいったり、いれかわりが激しく、年間を通し人手不足だ)、このグループから、このシェルターの存続のために、シェルターでの日常の仕事を我々の手で少し手伝おうという機運がもりあがった。
「バカヤロウたちがいなくなって、困ったものだ」
「そうだね。こうなったら、われわれは、みんな、どこか不自由だけど、せめて自分たちでやれるところは自分たちでやらないとね」
「バカヤロウは、少し無理そうだね。でも、自分やあのバカヤロウは、けっこう戦力になりそうだ」
「女性陣にも協力をよびかけよう」
「それは言い考えだ。でも、女のバカヤロウたちへの声掛けは、君のようなバカヤロウには無理だ。そう思わないか?バカヤロウ」
 この人にとって、バカヤロウ、と言う言葉は、侮辱の言葉ではなく、相手を指す固有名詞なのである。「山田さんって、さあ」という言葉が、彼にあっては「バカヤロウ、ってさ」となる。「ちょっと、こっちにおいでよ、田中さん」は「ちょっとこっちにおいでよ、バカヤロウ」となる。だから、「あいつは、馬鹿やろうだ」は「バカヤロウは馬鹿やろうだ」というわけだ。
 しかし、バカヤロウと呼びかけられて、その言葉で気を悪くする人は、そのグループにはいなかった。みな、その人のいう「バカヤロウ」は固有名詞にすぎない、ということを理解していたのか?それとも、彼の言葉を聞いていないのか?
もちろん、その手の、自分たちが施設の仕事を少しでも手伝おうという話は、しばらくして介護士の人数がまた増えると、なにも行動に移されることなく、終わってしまうのだが。
だが、やがてそのグループでは、勤務する介護士がひとり変わるごとに、そのことについて話し合いが持たれるようになり、それはシェルターに住む者にとっての重要な任務の一つとなった。
 
    5
 
 「ここは、シェルターだ」という共通の妄想をもつ男性を中心としたグループのほかに、もうひとつ、女性を中心とした別のグループがあった。
このグループの共通点は、自分には、超能力者の友人がいて、夜になるとその友人が、自分の部屋を訪ねてくる。というものだった。前に話した、大きな笑う月も、そういう訪問者の例のひとつといえよう。ただ、笑う月が、どんな超能力をもっているのか?と聞かれると答えにくいが。
ひとりの女性入居者は、時々、「飛ぶ男」が夜に自分の部屋を訪ねてくる、と語った。
「気がつくと、私のベッドの横にその人が立っているの。そして、私たち、しばらく見つめ合い、それから、静かに、でも、楽しく語り合うの」
「その人、スーパーマンみたいなの?空を飛ぶだけでなく、力も強いの?」
「いいえ。彼は、ゆっくりとしか飛べないの。飛ぶというより、空をゆらりゆらり、漂う、という感じかしら。風船のように。あるいは、浅瀬を泳ぐ小魚のように・・・。あら、いやだ、私ったら。そうそう、彼は、狸に自分の影をうばわれてから、空を飛べるようになったと私に秘密をうちあけてくれたわ」
 
 だが、鈴木宏が観察する限り、その部屋をたずねてくる「飛ぶ男」や「透明人間」は、毎晩、一人、夜勤で施設内の部屋から部屋を巡視する介護士たちに他ならなかった。
「そんなことはない」
と、その老女は、鈴木に反論した。
「私、その、『飛ぶ男』を部屋の外まで追いかけたことがあるのよ。男は、廊下にでて行った。私は追いかけた。なかなか追いつかなかったけど、男が廊下を曲がったのはわかったわ。私が廊下の角にくると、男が消えた廊下から介護士さんがでてきて、私たちぶつかりそうになったわ。私が『あの男見た?』と聞いたら、その介護士さん『いや、そのような男とは、出会っていない』ですって。男は消えてしまたのよ」
 鈴木は、黙って、その話を聞いただけだった。
 つまるところ、その介護士さんが、単に、廊下を曲がったあと、すぐに向きを変えて、その老女と廊下の角でぶつかりそうになっただけのことだ。
 しかし、その老女に反論して何になろう?
 
 ある日のこと、女性がまた「飛ぶ男」の話をしているとき、別の女性入居者が言った。
「あら、私の部屋には、毎晩のように、透明人間が訪ねてくるわ」
「透明人間?それは確かに、超能力の持ち主だと思うけど、だったら、あなたにも、見ええないんじゃあないの?」
「透明人間だけど、私には見えるのよ。だから、彼は、私だけのもの」
 聞いていた女性たちは、皆、なるほど、といった顔をした。だれも、それに意をとなえるものはいなかった。
 彼女は、その女性グループの輪から少し離れたところに座っている、自称「幽霊」の男の方をちらりと一瞥したあと言った。
「彼は、死んでしまった幽霊じゃあないんだって、彼、病気になってから、透明人間になれるようになったと言っているわ」
「かわいそう。どんな病気?」
「自分の足から、きのこがはえてくる病気」
 これも、反論するものもなく、一同に受け入れられたようだった。
「じゃあ、今度、その『飛ぶ男』さんと『透明人間』さんを、お互いに紹介してあげたらどうかしら?そうしたら、友達もふえることだし」
 しばらくたつと、そのグループでは、『飛ぶ男』と『透明人間』が無事、顔をあわせ、喜んでいた、という話でもちきりになった。
そして話はさらに発展し、そんな、楽しいことを二人だけで独占するのはずるい。今度は、みんなの部屋に尋ねてくるよう、『飛ぶ男』と『透明人間』にたのんでくれないか?という話になっていった。
そんな女性たちの話を聞いていた、男性入居者のひとりが、ある日。話に割ってはいってきた。
「そんな超能力が、なんだっていうんだ。おれは宇宙人だ。人間そっくりの宇宙人なんだぞ」
 これについても、反論する声はあがらなかった。
まあ、すごい。どうやって宇宙から来たの?いや、ひょっとしたら、私も宇宙人かもしれない。昔、地球の外にいたころの話や、どうやって、いつごろ地球にやってきたか?ということは、記憶喪失で忘れてしまったけども、私、もともと宇宙人だったのよ、きっと。だから、こんなところに閉じ込められてしまったのよ。
 女性たちの話は、つきることはなかった。それは、あたかも、昼のワイドショーで語られる芸能人のプライベートの話しを、自分の隣人のうわさ話のように楽しむ様子に似ていた。
 
 そして、とうとう、『飛ぶ男』と『透明人間』は、ついに、夜、施設で遭遇し、仲良く手をとりあって、利用者の部屋から出て行った、という証言が飛び出した。
 だが、鈴木宏は、その夜は小林奈津子が夜間勤務で、そこに恋愛相手の施設長の野崎淳が訪ねて来たのだ、ということを確認していた。
 
   6
 
 ある日、新しく入居してきた男性について、その男と女鈴木は、昔、夫婦だったということを、施設長の野崎が鈴木に教えてくれた。
彼らは、かつて離婚して、結局長い間たってからこの施設で偶然に再会したのだ、という。
 あまり、個人情報については、多くを語らない施設長なのだが、女鈴木と鈴木さんがまるで無関係ではない(といっても、実際は、まったく無関係なのだが)からお教えした、と彼は弁解するように言った。
「突然の話になってしまうが、実をいうと、ぼく、昔、小説を書こうとしていたことがあるんだ」
「へー」
「例えば、女鈴木さんとこの新しい入居者のように、昔結婚していて、なんらかの理由で離婚。離婚後、女鈴木は、繊維工場の社長と結婚、だが、時間が経過し、その夫とは死別。そして、何十年もたってから、老人施設で昔の夫と偶然の再会をはたす。なんて、ドラマになりそうだろう?」
「ええ。まあ」
「ところが、実際のところは、お互いが昔の記憶をなくしていて、お互いが相手の顔をみても、かつての結婚相手、離婚相手ということを思い出せやしない。これじゃあ、ドラマになりはしないよな。記憶がある、というのは、小説にせよ、なんにせよ、ドラマが産まれる必要条件なんだよ。記憶がないところに、ドラマはうまれない。それに気づいた時、どういうわけかぼくはもう、小説を書こうという気が起きなくなってしまったんだよ。たぶん、記憶を思い出すことが苦手だからなんだろうな」
 そして、施設長の野崎は、記憶について、ドラマを書く代わりにいくつか自分が観察してきたことがある、と話しはじめた。
「ここの入居者たちのもつ、いろいろな妄想や空想、あるいは幻覚。それは、彼らの個人的な記憶に由来するものよりも、今の彼らの置かれた状況に由来するものが多いような気がする。そもそも、彼らは、記憶の力が低下しているからね」
 認知症による記憶の喪失は、主に、老年期以後のことや、最近のことなど、今から近い時期のことの方がより大きい。小さい頃や若いころのことは、それにくらべれば(比較の問題だが)、意外によく覚えている。もっとも、昔の記憶というものは、そもそも、妄想や幻覚に近いといっていいくらい、あいまいなものであるのだが。
「あの、最近、転倒して骨折して手術をしたけど、歩けなくなり車いす生活を送るようになった人、わかるだろう?
そう。自分のことを、部屋の中では絹糸にくるまった繭の中にはいって、毎日をすごしている、と言っていたあの女性のことだよ。ぼくに言わせれば、その繭は、記憶の糸でつくられた繭のことだね。もう、繭はできあがってしまったから、これ以上新たな記憶の糸ができても、もう、繭のためには不要なんだ。新しい糸は、役に立たず、捨てるだけ。
 彼女は、昔、若いころ、工場で働いていたころから、今までの記憶がごっそりぬけている。だから彼女はこう嘆くんだ。
『昨日まで、はつらつと歩いて仕事していた私が、どうして急に、歩けなくなってしまったんだろう?』ってね。
 彼女にとって、今の少し前は、もう何年も前の、自分が元気に工場で働いていたころのことなんだ」
 
 「のぞみ苑」では、昼食後と夕食後の間に、「レクレーション」とよばれる時間があった。
 ほとんどの日は、自由時間となる(ほとんどの入居者は、お昼寝だ)のだが、月に1回、季節にちなんだイベント(書き初め、豆まき、ひなまつり、お花見、たなばた、等々)が職員によってひらかれていた。
 ある、夏の日、その時間、「夏祭り」のイベントで、サックスとピアノのデュオ演奏会がおこなわれた。なんでも、そのサックス奏者は、ここ「のぞみ苑」の嘱託医師をしているダイゴ医師。ピアノ奏者はこの「のぞみ苑」で働いているサチ介護士、と鈴木は聞いた。鈴木は、そのとき、はじめてダイゴ医師を見て、話をした(昔の記憶を失っているというせいもあるが、鈴木の入居以来、新しくつくられつつある記憶の中でも、はじめてだった)。
 演奏は、ダイゴに言わせれば「たいしたことないが、施設の建物による音響効果に助けられた」とのことだが、鈴木には感動的だった。老人施設むけ?の演歌や童謡は、みんなで声をあわせてうたう曲目にあったものの、二人で聞かせる曲は、クラッシク、讃美歌、など、「老人施設だからといってレベルをさげない」ものだった。
 演奏が終わって、鈴木がダイゴ医師に近づいていき話しかけた。
「すばらしい演奏でした」
「ありがとう」
 そういいながら、鈴木の顔をみたダイゴは、はっとした様子だった。
「野崎・・・さん?」
「いえ、野崎は、ここの施設長の苗字です。私は、ここに4か月前に入居した、鈴木宏と申します」
「そうですか。しっかりされているので、ここの職員さんかと」
「そう見えるかもしれません。体は不自由ないし、判断力や理解力もあるのです。でも、数年前の震災で頭部をうってから、『逆行性記憶障害』なのです。鈴木宏というのは、仮の名で、自分の本名は覚えていません。住所や職業も、わからない。ここに入居する以前の記憶がない。それでここにお世話になっているのです」
「逆行性記憶障害?」
 鈴木は、ダイゴ医師の様子をみて、『もしかしたら、このダイゴ医師は、昔の自分を知っているのかもしれない』とふと感じたが、ダイゴは、その話はそれ以上せずに、鈴木に「音楽療法」というのを知っているか?とたずねた。
 音楽は、認知症や記憶障害など、言葉の到達できない脳のある部分を刺激して、言葉では決して届くことのないなんらかの記憶を刺激することができる可能性がある。言葉が壊れて、言葉によって癒すことができない認知症患者を癒せる可能性がある。とはいっても、『癒された』とか『昔を思い出した』とか、それらの患者が口にすることはめったにないし、表情から想像することも難しいくらいの反応だから、信じるしかないがね。
 比喩をつかえば、脳の障害後、筋肉の痙縮をおこした人の、ボトックスやバクロフェンを注射することで、筋肉をやわらげるように、その「パーソナルソング」は、固まって動かなくなってしまった、その人の心を、やわらげ動かすみたいなんだ。
 この仮説は、ウソかもしれないし、証明することが難しい。でも、ぼくらが、こういう施設で演奏をするとき、願わくば、言葉の届かない場所に音楽が届きますように、と祈りながら演奏しているんだよ。
 施設長の野崎が、鈴木とダイゴ医師の会話を聞いていて、話にはいってきた。
「音楽には、そういう面がきっとあると思うよ。たとえば、鈴木良子さん(女鈴木だ!)にとって、施設で歌う『瀬戸の花嫁』の音楽は、なにかを思い出させるもののようなんだ。あの唄を聞くと、良子さんは、とても、穏やかな顔になる。まあ、良子さんの、いわゆる『パーソナルソング』だね」
 自分の障害に関係して、「記憶」というものに興味がある、という鈴木に、ダイゴ医師は「ユマニチュード」というタイトルの本を渡してくれた。施設の事務所の本棚においてあって、ダイゴがここの嘱託医になるときにもってきた本らしいが、本が読まれないこのご時世、スタッフが誰一人読まないまま、本棚の奥で埃にまみれていた。
「これは、介護の専門家の間では話題の、フランス生まれの、認知症患者の介護の方法論なんだけども、最初のほうに、記憶について、面白い仮説がのべられているんだ。君も、記憶について、興味あるんだよね?」
 もちろんだ。鈴木は、いつだって、失われた自分の記憶が戻るヒントを求めていた。
 ダイゴ医師は、鈴木を慰めるために、別れ際にこんなことも言った。
「忘れることは、小説の中の人物設定や、ドラマを書くことのためにはまったく適さないけれど、それは限られたケースだ。生活していく上では、忘れることは、むしろ大切で、時には、上手に生きていくためのとても有効な武器になるんだ。記憶をなくすことは、必ずしも悪いことではないと、最近ぼくはよく思うよ。記憶にひきずられて、悪い方向にひっぱられたり、努力することを怠ったり、冷静な判断が鈍ったり、そして他人や自分とケンカする。そういうことは、よくあることだからね」
 だが、そんなダイゴ医師の慰めの言葉も、今の鈴木にとっては遠い言葉にすぎなかった。
 
 鈴木は、その日の夜食い入るようにしてその本をみた。
 その内容をようやくすればこんな風だ。
「認知症」は本当は「認知・記憶症」だ。
 正常でも、一次記憶はせいぜい10個くらいまで、そしてそれらは30―60秒で消失してしまう。だが、情報をフィルターで選択したり、注意分散力で、ほかの情報も得たりしながら、多くの情報をうまく処理している。
脳では、この一次記憶を固定化して二次記憶にする。そして、時に、それを想起して一次記憶に戻して生活している。これがいわゆる、記憶だ。
 記憶には、意味記憶、自伝的記憶、手続き記憶、感情記憶の4種類がある。
 意味記憶とは、たとえば、「太平洋は世界で一番大きな海だ」というような、体験ではないが「意味」のあるものだ。自伝的記憶は「その海に昔行った体験」を思い出すこと。「泳ぎ方」の記憶が手続き記憶。そして、感情記憶はたとえば「海風にふかれて心地よく思うこと」とでもいおうか。
意味記憶と、自伝的記憶は、言葉にできる(顕在記憶)もので、認知症では失われやすい。たとえば、「この人は自分の息子だ」(意味記憶)、「ごはんを食べたかどうか」(自伝的記憶)、認知症では忘れてしまうことがある。
 一方、手続き記憶と、感情記憶は、言葉にしにくい記憶(潜在記憶)だ。
もっとも、手続き記憶も、複雑なもの(ピアノの弾き方、車の運転のしかた、料理の仕方など)は、単純なもの(歯の磨き方、手の洗い方、など)に比べると認知症が進行すると早く忘れられていくけれども。 
 感情記憶は定義がむずかしいが、『知らない人でも優しく接してもらったら安心する』といった、倫理的な反応も中に含んでいる。
 記憶のうち、意味記憶・自伝的記憶・手続き記憶は、劣化する。だが、感情記憶は最後までのこる。おそらく、想起するという情報処理は感情処理が必ず先行するからか?
 
(私に、おこった記憶をこの比喩にあてはめてみれば)
と鈴木は思った。
 自分の記憶喪失とは、意味記憶・自伝的記憶・手続き記憶・感情記憶のうち、自伝的記憶のみが、完全になくなったということになる。
 その他の記憶は残っている。判断力もある。
 「自伝的記憶」についても、なくなったのは、「過去の自伝的記憶」だけであって、新たらしくこの施設に入所してから今までの「自伝的記憶」は残っていっているのだ。
 いったい、自分の記憶喪失とは、どういったものなのだろう?どうやって、起こったのだろう?
 鈴木は、この本の説明の言葉を、記憶の喪失を「コピー器の故障」にたとえて、試しに考えてみた。
 つまり、最初の一時記憶は定着して一部、二次記憶になる。そして、一般に、記憶とは、二次記憶を想起(コピー)して、一時記憶として戻すことだとしたら。
 想起=コピー器は、なぜ壊れたのだろう?なぜ、過去の記憶を二次記憶からコピーして、一時記憶という紙に印刷できなくなってしまったのだろうか?
 コピー器本体が壊れたのか?電池切れ?あるいはインク切れ?それとも用紙切れ?それとも、そもそも、器械のスイッチが押されないからなのか?
 
 もうひとつ、ダイゴ医師たちの今回の演奏で、施設におきた小さなできごとについて、ここで記しておこうと思う。
 新たに入居してきた、昔、鈴木良子と結婚したことがあり、その後離婚してずいぶんになる男性は、寝たきりで、話をするのも困難な状態だった。鈴木良子は、元気に動きまわるが、高度の認知症で、昔結婚していた男のことなど、覚えていない様子だった。
 ところが、ダイゴ医師らの演奏後、鈴木良子は、その昔結婚した男の部屋を訪ねるようになった。様子を見に行った介護士の話では、鈴木良子は、男の部屋でただ黙って座っているだけだし、男も寝たまま眠っているだけ、ということだった。この行動は、一時的なもので、しばらくすると、鈴木良子は、その男の部屋に近寄らなくなった。
 それゆえ、一時的なきまぐれだった?と、周囲は観測していたのだが、そのねたきり状態の男の部屋から、次のような文章がでてきたのだった。鈴木良子にそれを書いたのか?と聞いたが、知らないという。確かに、その筆跡は、女性のものというより、男性のもののようだった。だが、寝たきりでしゃべることのない、その男がかいたものとも思えなかった。では、いったい、誰が?
 
 この人、今では、こんな風になってしまったけども、昔は「伝説のナンパ師」とまでいわれたくらい、女を口説くのがうまかったのよ。でも、わたしと出会ったころは、全然。
 わたしが塾の先生をしているとき、彼と会ったの。そう、まだ、彼は高校生。わたしにとって、塾に通ってくるものたちが偏差値の高い大学に行ったとか、成績があがったとかは、二の次だった。わたしの一番の喜びは、生徒たちが、とにかく喜んで自分の塾に通ってくるということ。生徒たちは、家庭や学校に背をむけて、非行に走るようにわたしの塾に来るのよ。子供の心をもてあそんでいるだけじゃあないか、って?でも、勉強のできる子供たちだって、わたしでなければ他の人たちにもてあそばれているわけじゃあない?親とか先生とかマスコミとかに。わたしは、自分のやっていることを自覚してやっているところが違うだけ。わたしにとって、生徒たちが自分のところに通ってくるということは、いわば、わたしの社会に対する復讐なの。外からみれば、暖かい家庭だったり立派な教師がいるすばらしい学校だったり。でも、その中にいたわたしはずっと不幸だったのよ。いじめにもあった。わたしの社会に対する復讐は、わたしをこんな風におとしめた人たちの子供が自分のところにくるということで達成されたの。
 社会的に『立派』といわれる家庭の子供たちが、わたしの塾にきて自分と関係をもつ。それは、子供たちが彼らを否定し、彼らを捨てわたしを選んだということなの。わたしは、彼らから彼らの大切な子供たちを奪う。子供たちが、彼らでなくわたしを信頼するということが奪ったということよ。彼らは子供の信頼という大切なものを失い、わたしがそれを手に入れるの。彼らが知ったら、最もさげすみ、認めたくないと思うだろうわたしを彼らは選んだの。それが、わたしにとっての、復讐よ。
 わたし、高校生が相手でなくても、けっこう男たらしの才能あったのよ。最初は、この人の父親と不倫関係だった。一度は、この人が誘拐されたことにして、身代金という形で、この人の父親からお金をもらったの。警察には届けずにね。でも、この人が、自分の家には帰りたくない、と言いだして。結局、しばらく、わたしと暮らした。そのうちに、この人、わたしの男たらしの技を身につけて。眼よ、眼。眼で、男をたぶらかすの。この人は、その眼の力を、今度は女たらしに使ったのよ。わたしの塾で、勉強でなく、そんなことを学ぶなんて!
 ずいぶんたってから、わたしがこの人の父親と不倫していたことを知ると、この人は、不潔だ!と怒って、わたしからはなれていった。でも、わたしから学んだその技で、その後、この人は「伝説のナンパ師」になれたのよね。
 
 音楽療法で、昔の記憶がもどってきた、と思ったら、その内容はこんなことなんて。記憶なのか、妄想なのか、わからない内容じゃあないか。
 鈴木はそう思ったが、施設長の野崎は、この誰が書いたかわからない、手記を読んで、たいそう気にいったようだった。書かれたものに興味をもち、誰が書いたのか?という謎などどうでもいいようだった。
 野崎は、この不思議な手記を破ったりせず、入居者の個人情報ファイルに、ほかの情報と同様にはさみこみ、保存したのだった。



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