「量子のもつれ」ばなし3
前回の「量子もつれ」の歴史の続きです。
前回のあらすじです。
原子核の周りを波として漂う電子の位置と運動量を導くために、数学に強いハイゼンベルグ氏が初の定式化に成功しました。
これが難解すぎてほぼ誰も使いこなせず、直後にシュレディンガーの考案した方程式(ド・ブロイの物質波を正当化する手段)の使いやすさに物理学者は食いつきます。
ハイゼンベルグ氏の指導教官にあたるボルン氏も同様で、彼はこの方程式の物理的解釈を、「電子の存在確率」と喝破しました。
分が悪くなったハイゼンベルグ氏は、自身が開拓した量子力学(名付けたのはボルン氏)の方程式を改めて復権させるために、新しい原理を導入します。
前回にも触れましたが、ハイゼンベルグ氏は数学出身で「観測可能なものから理論を創る」というドライなスタンスでした。
それに対して、アインシュタイン氏に真っ向から否定され、
「理論から観測可能なものがつくられるのだ」
という、歴史的に有名な鋭い指摘を受けます。
ハイゼンベルグ氏は、おそらくこの指摘を踏まえたのだろうと思いますが、粒子(と彼は前提としていた)は位置と運動量を同時に決めることはできない、という不確定性原理を導入し、その積の誤差を(プランク定数を使って)定量化する事に成功し、改めて注目を獲得することになります
ボーア氏もこれを支持し、さらには不確定であるという非決定論的なスタンスだけでなく、そもそも粒子(上記の原理はこちらを支持)か波かを決定しようとすることから概念を再構築すべきと唱えました。
ようは、粒子か波を決めるのは測定の仕方であり、決まるまではお互い排他的でありながら補完する「相補性原理」という考え方を提唱しました。
ボーア氏が、この原理を提起して伝説となったのが、1927年の「ソルベー会議」です。
これは1911年から定期的にブリュッセルで開催されている会議で、初期の量子力学を築き上げた研究者が集って喧々諤々の大激論を繰り広げました。
冗長であることは承知ですが、量子もつれ話は人間関係のもつれもあるのであえて参加者を列挙しておきます。
(後列左から)ピカール, E. Henriot, ポール・エーレンフェスト, Ed. Herzen, テオフィル・ド・ドンデ, シュレーディンガー, J.E. Verschaffelt, パウリ, ハイゼンベルク, R.H. Fowler, レオン・ブリユアン
(中央左から)デバイ, クヌーセン, ローレンス・ブラッグ, クラマース, ディラック, コンプトン, ド・ブロイ, ボルン, ボーア
(前列左から)ラングミュア, プランク, マリ・キュリー, ローレンツ, アインシュタイン, ランジュバン, Ch. E. Guye, ウィルソン, リチャードソン
主要な論点は「相補性原理」が唱える、従来の決定論に基づく物理(相対性理論もこれに属します)からの決別にあります。
議論の主役はやはり、その概念を唱えたボーア氏と従来の決定論を支持するアインシュタイン氏でした。
特に「測定するまではその存在を確率的にしか言及できず、測定して初めてそのそれが粒子として姿を現す」というポイントです。
我々の直観とも反しているので、気持ちは共感出来ます。
毎日の如く反論となる思考実験をアインシュタイン氏が持ち出し、都度ボーア氏が回答するという問答を繰り広げました。
当時の雰囲気としては、ボーア氏側が優先だったようで、参加者の一人でアインシュタイン氏の盟友ともいえるエーレンフェスト氏ですら、アインシュタイン氏の姿勢をたしなめたそうです。
それは実験結果を説明出来る代替案が、「まだ見つかっていない「隠れた変数」がある」ぐらいしか言えなかったからだと思います。
エーレンフェスト氏の目に写ったのは、皮肉にも、アインシュタイン氏が以前にうちたてた革命的な相対性理論に抗う人のふるまいだったようです。
このあたりのエピソードは下記の書籍で生々しく触れられているので、紹介しておきます。(それ以外の個所も面白いです)
いずれにしても、ボーア氏の尽力によってついに量子力学がぼんやりとその形を形成することになります。
ちなみにタイトル画像はボーア氏が建てた「ニールス・ボーア研究所」です。(Credit:Wiki)
このボーア氏がまとめた考え方を、同じ地域の研究所出身者たちが多かったため「コペンハーゲン解釈」と呼ばれますが、学問体系でなく恣意的(特に派閥の説明)に使われることが多いように感じます。
ただ、アインシュタイン氏がこの会議で提示した思考実験は、1935年さらに研ぎ澄まされた形で量子力学支持者(特にボーア氏)に再度立ち向かい、それが発展して「量子もつれ」の研究に貢献していくことになります。
次回はそんな話から続けてみたいと思います。