
トランプのDEI廃止から考える「公平」を実現する手段について
ドナルド・トランプ大統領が就任してはや5日経ったが、目下話題の一つとなっている一つがDEI廃止である
そもそもDEIとは「多様性、公正性、包括性」の略称で、大まかにいえば、「(人種的・性別的マイノリティを含む)多様な人財が能力を発揮できる環境を作りましょう」という活動を指す
上記の話だけであれば、社会的に意義のある活動で何ら阻害すべきことではない。ではなぜこのDEIという活動が敵視されているのかを考える。
いま主に議論されている事項としては以下の2つのものが大きいと考えている。
(1) 表現活動への影響
(2) DEIプログラムの恩恵を受ける人、受けない人の間の不平等感
(1) については、例えば本来白人が担当するのが適切に見える役を、DEIを考慮して人種的マイノリティの人が担当したり、DEIの取り組みを強調するために、主要な登場人物を性的マイノリティに落とし込んだりする。
その結果、本来多数の人が期待していたエンターテインメントからかけ離れたイメージになってしまい、DEIが本来の表現活動へ悪影響を与えていると認識されてしまうことを指す。(実際その通りかはケースによる)
(2) はもっと現実的な問題で、DEIは多様性を実現するために、マイノリティが持つディスアドバンテージを解消するために、マイノリティと判断される人たちに格差是正の処置を施すことになる。
具体的に言えば「Affirmative Action」と呼ばれる処置であるが、これが非マイノリティと判断された人間にとっては自身の活動の場を奪われていると認識され不平等を感じてしまうことを指す。(実際その通りかはケースによる)
どちらの問題も、本質としてはマイノリティに対して公平な機会を与えようとする善意の取り組みから来ている。しかし、結果として非マイノリティから大きな避難を浴びることとなってしまっている。これは何故か。
公平は平等や(瞬間的な)効率を毀損するが、それが敵視の根本原因とは言えない
公平というものを生み出すためには平等や(瞬間的な)効率を毀損することが多い。この理由は明確で、公平のためにすべての人物に平等な機会を与えるのであれば、当然参加する人物の間にある格差を是正するために「補助」を行う必要があるからである。
結果として、「補助」を受けられる人と受けられない人で不平等が生まれるし、「補助」をするために瞬間的に失う効率も存在する。
しかし、この「補助」により平等や(瞬間的な)効率を毀損すること自体がDEIを敵視する根本原因ではないと考える。それは後述の反例があるからである。
障害者向けの福祉
それは障害者向けの福祉である。
聴力・視力の喪失、四肢の欠損を持つなどの障害者に対して「補助」を行うことについては、進歩の程度はあれど、社会全体として大きく逆行する流れはなかったと考える。これはなぜか?
私が考えるのは
「障害はディスアドバンテージ(不利)が見えやすい傾向があり、それに対する適切な補助がしやすい」
という点である。
聴力が消失していれば、音が聞こえない不利がある
→音を文字や光に変換して表示する
視力が消失していれば、周囲を視覚で直接確認できない不利がある
→触覚で確認可能な点字を作成する
足が欠損していれば、移動が困難になる不利がある
→手で移動可能な車椅子を用意する
上記のどの取組も、不利に対して行う「補助」が必要不可欠な形やサイズになっている。当たり前の話のようにも聞こえるが、これをもし人種的・性別的マイノリティに置き換えたらどうなるであろうか。
人種的・性別的マイノリティであれば、○○○という不利がある
→△△△を作成・用意する
少なくとも人によって様々な答えが返ってくるような問のように見え、またそれによって「補助」の形やサイズが変わってきてしまう。
そしてその「補助」の形が歪だったりサイズが過大だったときに、人は非効率さや不平等感を感じやすくなってしまうのではないだろうかと考える。
マイノリティが抱えるディスアドバンテージをケースごとに見直す
DEIは理念としては倫理的な正しさがあると考える。ただしそのプログラムについては、私自身「補助」の方法に疑念を抱かざるを得ない部分があることも事実である。例えば
現在ある役職に対して、そのままではどうしても「補助」で補えない箇所があるのに、それを考慮せず比率のみで無理やり割り当ててしまう
マイノリティに対して一律に評価に下駄を履かせた上で、非マイノリティとの競争を行わせてしまう
などである。これらは「補助」の形を歪にしたりサイズを過大にしたりしている悪い例だと考える。
これらに対する形やサイズの補正を行わない限り、ますますDEIに対する議論が二極化(やる・やらない)してしまうであろうと予想する。
このような補正を行うためには、まず各マイノリティがかかえるディスアドバンテージをケースごとに分けて明確化することが大事だと考える。
例えば、あるマイノリティが抱えるディスアドバンテージが、もしそのケースにおいては単純に差別だけなのであれば、そもそも評価に下駄を履かせる必要はなく、差別せず能力を評価するのが適切な「補助」であると考える。
また、あるケースでは、そのマイノリティの特性上、どうしてもその役割を機会として与えることが困難であることも考えられる。その場合は役割そのものを変えるといったことが適切な「補助」になることもあるであろう。
いずれにせよ今後DEIの活動は、
ケース毎の事情を無視して一律で「補助」を行う
ことから脱却し
ケース毎の事情を考慮して必要不可欠な形やサイズの「補助」を行う
という形に変わることが強く求められていくことになるだろうし、そのような取り組みができなければ非マイノリティの強烈な反発により衰退していくと予想する。