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嫌煙とダイバーシティ-ダイバーシティ(4)-

喫煙目的施設に迷い込む

この間、メンバーともたまにいく焼き鳥屋にいったら、とてつもなくタバコ臭かった。外に出たら「喫煙目的施設」という謎の貼り紙がしてあり、口から魂が抜け出るような音がした。幼少期からの30年以上の行きつけで、「カタ」という焼き鳥がとんでもなく好きだが、喫煙目的施設である限り、もう行かないだろう。僕は、嫌煙者だ。

学習しない僕は、翌々日も喫煙目的施設に迷い込み、メンバーの甘酸っぱい話を聞きながら甘辛い辛子蓮根とにんにく臭い馬刺しをたべていた。

ニュースを見ないのでわからないが、受動喫煙防止条例やらオリンピックで屋内喫煙禁止という話や、感染対策で換気というルールはどこかへ行き、最近新しいルールでもできたのだろうと思って調べたら改正健康増進法とやらで、喫煙目的施設は全面喫煙可になったようだ。世にも奇妙な物語の世界に迷い込んだかのような感覚になった。

喫煙者への配慮

今回は例として喫煙を挙げたが、喫煙について書きたいわけではない。書きたいのはダイバーシティだ。

昨今、ダイバーシティばやりで、色々な人の権利に配慮する必要がある。それなりの年になって、色々な経験をし、考え方や国籍、立場、働き方、性などについては、おおらかに認められるようになってきた気がする。

しかし、僕は全く喫煙者に配慮をしていない。ダイバーシティだなんだといいながら、喫煙に対してだけは過剰に厳しい。会社のルールも喫煙者は勤務禁止にしている。業務内容的にものにニオイがうつるという理由があるからだが、何より自分が嫌煙だからだ。

業務中のタバコなどは業務中の飲酒と変わらないと思っているし、タバコ部屋はボイコットだと思っている。自分がタバコ部屋にすすんで入りにいくかというと決していかない。雀荘もパチンコ店も、女の子がいる飲み屋も、大抵の居酒屋も喫煙だから行かない。とても人間的に好きな友人がいるが、愛煙家だから飲みに誘われても断る。鼻がものすごく良いというだけではなさそうだ。なぜだろう。

配慮とは押し込めること?

もちろん、タバコは...というのはおおいな偏見であり、自分の不寛容を示しているのかもしれない。タバコ部屋というのは隔離政策であり、現代のアパルトヘイトだと思えばよいのだろうか。

タバコ部屋にいけば見えなくなる。属性が違う人たちを見えないところに押し込める。多様性への対処ってそんな風にして行われてないか。

今の自分が勤める場所のほど近くはまさにそういう多様性の隔離された場所だし、振り返ると会社という枠そのものが選抜された同質的集まりだ。

それで良いのかと考えさせられた。かといって、昔のようにオフィス内喫煙可、タクシー内喫煙可にはもう戻らなさそうだ。排除する。しかし、入ってきたら配慮するってなんだか矛盾してないか。これは日本的なウチとソトの考え方な気がする。もちろん、グローバルな視点はない。

属性なら許せるけど、行動は許せない

僕は生まれ持った属性についてはあまり偏見がないつもりでいるが、自分で選び取れる行為に対しては明確に好き嫌いがある。

例えば、暴力。これには直接的なものもあれば間接的なものもある。タバコは有害だ。タバコは僕にとって間接的な暴力なので、それを自ら選択する人を忌避する。やめられることをあえて選んでいるという認識だ。

暴力だけではなく、色々な行動に対して「嫌い」がある。望まない行動が数々ある。それを逐一書くことはしないが、会社ではマニュアルを作っていて、それにはまさに僕の嫌いが表れていると思う。

諦めたら許せる

面白いのは、やればできるには苛立ちを感じるが、できないと断じた時点で苛立ちが昇華されていくことだ。これは、行動だったものが、属性に転換したら起きるものだ。

行動は変わる、だから期待する、だから辛くなる。しかし、属性は変わらない、だから期待しない、だから辛くない。こう考えたときに昨今ゆっくりと進めているとある案件のことを思い返した。

マネジャーは社員に期待する。人には無限の可能性がある。そんな宗教がある。1,2,3...と続く数列は無限だ。2,4,6...と続く数列は無限だ。後者の合計は前者の2倍だが、いずれも無限と表記される。つまり無限とは未定義なもので数字ではない。

同じ無限でも違いがある。そんな曖昧なものを信じてはいけない。そうした学びをとあるケースから得た。無限なのかもしれないが、そんなに大したことのない無限は諦めてしまう方が健全だ。

この属性は変わらない。そう考えればあらゆる努力は無駄になる。環境を変えるだけだ。

たまに「あの人はニコ中だから仕方ない」という人がいる。それはある意味で、諦めることによってざわつきをマネジメントしていたのだろう。

僕は、諦められたら終わりだから、諦められないように努力し続けるけれどもね。

ハラスメントとダイバーシティのせめぎあい

ちなみに、嗜好を強要するのはハラスメントだ。嗜好とは、何かをすることだけではなく、何かをしないことも含むので、たばこを吸わないように強要することも等しくハラスメントである。

ダイバーシティを受け入れることはハラスメントを受け入れることであってはならない。ダイバーシティとハラスメントの間には、それは属性なのか、行動なのかといったことがある気がする。

今日はもやもやを列記した。多分、分解した方がよいと思うので、似たようなのを近日書くと思うけれども、まずは散文的に書いてみた。


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