責任とはなんだろう。シン・ゴジラを見て思ったこと
一昨日、5分位シン・ゴジラを見た。そこで、総理大臣が語った言葉に強く感銘を受けた。
「国民の命を守るために最後まで残ってやり抜かなければならない。」そんな趣旨の言葉である。責任者が責任者であるということは、最後まで逃げずにやり抜くということだ。自分も責任者の一人として、最後までやり抜く覚悟でやっているので、心が震えた。
さて、責任とはなんだろう。幼い頃からわからない言葉に「責任取って辞める」がある。全く理解できていない。これを紐解きたい。
責任とは対応することと、説明すること
対応することと、説明すること。英語だとレスポンシビリティーとアカウンタビリティ。レスポンシビリティーはこれから対応すること、アカウンタビリティはこれまでのことに対応することを指している。
対応するという能動的な言葉に現れるように、自分が主体となる言葉である。
責任を取れなかった結果をどう解決するか
上で書いたとおり、「責任を取れ」というのは原義は説明する、やり抜くことを指すので、説明し、やり抜くだけでよい。
責任を取れといって金払え、詰腹を切れ的なものをイメージする人もいる。これは単なる紛争処理の話までを含めてしまった別な話しだ。切り分けて考えねばならない。
やり抜けず説明もできないなら契約違反だ。なので、社会によっては金銭的な解決を行う。また、酋長や王の首を天に捧げて問題の解決を願うこともある。解決できないことを人智を超えたものに解決してもらわんとする宗教的な儀式で、未開の社会に多いものだ。
責任者とは?
類語についても書きたい。責任者とは決めてやり抜き、説明する人のこと(日本語だと責任曖昧にする文化的なものがあり、担当者と呼ばれる)だ。
責任者は、当然に責任感をもって取り組む必要がある。
責任感はやりぬき、説明する覚悟という感じだ。
責任者を支える
責任者には多大なプレッシャーがある。これを支えるのが周囲の「責任」だと思うところがある。市民、社員等、名前には色々あるが、首を捧げることが成員の仕事ではない。成員には責任者がうまくいくように支えることが求められる。後ろから刺してくる成員ばかりの環境で責任など取ることができようか。
シン・ゴジラにおける総理大臣は、どんな気持ちで責任の言葉を吐いたのか。その背景に何があるのか。それを考えてしまう。
最後の段落は蛇足でした。