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仕事のネガティブなことも積極的に開示する方針を私は採用している

今回はいつもと違う系統の話題となります(本筋の記事作成が煮詰まっているのは内緒)。


以下の記事を拝見し、少し自分の考えを述べておきたいと思いました。先にお断りしておきます。前向きな話は今回はありません。

病院見学に来た学生が、看護師から「給料と労働が見合わない」と聞いたという話。筆者のTatsuro Sugiさんは違和感を覚えたといいます。ネガティブな発言よりやりがいや成長の機会について話すべきで、自分の仕事を前向きに語れる社会人でありたいと発言されています。

しかし、その看護師の振る舞いは間違っているんだろうか? 私は少し違う印象を持ちます。

職場見学で語られるネガティブな意見は、本当に「悪」なのか?

「ネガティブ」も事実の一面

「残業が多い」「給料が低い」といった情報は、一見ネガティブに聞こえます。しかし、それはその職場における「真実」の一面でもあります。

ポジティブ思考も大切かもしれませんが、物事をありのままに見つめる冷静さも必要です。

もし、これらの情報に触れて「やっぱりこの職場は自分に合わない」と判断する学生がいるとしたら、それは就職後のミスマッチを防ぐという意味で、むしろプラスに働いたと言えるのではないでしょうか。

逆に、課題を理解した上でなお志望する人材こそ、真に必要な人材である可能性も考えられます。 表面的な魅力だけでなく、現実を受け入れられる適性があってこそ、就労者・職場の双方がウィンウィンであるような就職が可能というものでしょう。

本音を知ることで、より良い選択を

職場見学での「リアル」な声は、学生にとって貴重な情報源となります。ありのままの姿を見ることで、自分が本当に活躍できる場に出会える可能性を広げることができます。

ネガティブな指摘や主張も、より良い職場環境を作るための貴重な意見です。それを否定するのではなく、真摯に受け止めていくことは大切です。ですから、そういった発信をする現役就労者のスタンスも否定されるべきではありません。

「その職場を変える、働き方を工夫する、キャリアを見直すなどの取り組み」ももちろん大切でしょう。しかし、その取り組みと「ネガティブな発信」は対立するものではありません。矛盾なく両立するのであり、すべてを並行的に実行すれば良いのです。

大切なのは「多角的な視点」を持つこと

重要なのは、発信側も受信側も、一方の意見だけに偏らないことです。

現役就労者として、進路に迷う学生には、仕事の良い面だけでなく、課題点も包み隠さず伝えるべきです。そして、学生は、ネガティブな情報に必要以上に惑わされることなく冷静にそれを咀嚼し評価する必要があります。

もちろん、嘘や誹謗中傷は論外ですが、ある程度のネガティブな意見は、むしろ健全な議論と判断に不可欠と私は考えます。

「ポジティブ」ばかりが正解ではない

ここまでをまとめましょう。大きく以下の3つの視点を示しました:

  1. 職場の課題を率直に語ることは、ミスマッチを防ぐ重要な機会

  2. 現実を知った上で選択する人材こそ要注目

  3. ポジティブな面だけを強調することは、むしろ不誠実な対応となる可能性

大切なのは、ポジティブな面もネガティブな面も含めた「現実」を伝え、その上で志望者自身に判断を委ねることではないでしょうか。そうすることで、より強固な信頼関係に基づいた組織づくりが可能になると考えられます。

確かに、課題の指摘は時として「ネガティブ」に映るかもしれません。しかし、それは組織の成長に必要な「建設的な指摘」である可能性を秘めています。それ以前に、個々人の納得づくで幸せな進路設定に必要不可欠なものと言えます。

上手くいかなかった人間を居ないことにするな

こういう観点から、私は「もっとポジティブに」という主張には一定の否定的な姿勢を取らざるを得ません。「完全否定」とはいいませんが、一面的にしか物を見てくれていないとも思います。

さて、ここまで出来る限り客観的で中立的で冷静な主張展開に努めてきたわけですが……この際なので、ここから少しだけ自分語りをさせてもらいましょうか。

私は生物系の大学院博士課程を経て、いわゆるアカデミア(研究機関)で研究職として仕事をしました。博士課程ではもたもたしていて、5年で学位を取るべきところ、9年もかけて、そしてそんな年月をかけたにしては情けないレベルの薄っぺらな学位論文をやっとの思いで書きあげて学位を貰いました。幸いにもそのあとすぐに給料をもらって研究をする立場には立てたものの、2年から3年の任期付きの職ばかりを転々とすることになりました。それでも学位取得後17年ほどやってきましたが、最後の任期が切れた時点で、もう「賽の河原に石を積んでは崩す生活は打ち止めにしよう」と思いました。

ここまで頑張りましたよ。外からどう見えていたかは知りませんが、私は頑張った。頑張ったのだ、誰が何といおうと。

が、ほんとうにちょっぴりな業績しか出せませんでしたね。同僚として一緒に仕事をした人以外、学会の誰も私の名前を知らんでしょう。退職から数年たって現在、これまでの道のりを振り返ると、学術的な成果としても個人としての人生設計の確立という点からも、充実にはほど遠いものだったと評価せざるを得ません。

要するに、この30年の人生は、失敗に終わりました。

大学院に入ったとき、厳しい生活は自分なりに覚悟していたつもりでした。しかし、正直ここまで低空飛行を続けることになるとは思いませんでしたね。

そう、もっと将来を「ポジティブ」に考えていたのですよ。確かに大きく儲けて資産を作るような生き方はできないかもしれないが、自分を信じて頑張っていれば、いずれはカネでは買えない充実感が何か得られるに違いないとね。

しかし、げんざい充実感はありません。もし今の記憶をもって30年前に戻れるなら、絶対に同じ道を進むことはしません。

そんな私は、一歩間違えばこうなることもあると、ツイッターなどで事あるごとに全力ネガティブ発言を実践しています。これに対して、アカデミアの悪いことばかり言うなと文句を言っているツイッタラーたちもいます。

生物系アカデミアは、私の個人的事情を抜きにしても、もう惨憺たるありさまで、どこを見てもいい所なんかひとかけらも残っていないのですが、情報系とか工学系はそうでもないらしいですね。また生物のお隣の医学系はまた事情が違っていて、医者と研究者の二足の草鞋を履いている人達は相応の地位と経済力が既にあるので、そりゃもう余裕で楽しく研究を進めておられるようです。

そうした分野で楽しくやっている人達としては純粋生物系アカデミアの負け犬が目障りで仕方がないんでしょうね。しかし、私は死ぬまで全力ネガティブ発言を辞めるつもりはありませんよ。ええ、全力でネガティブに行きます。私は若い人たちに間違っても同様な進路を進んでほしくありませんから。

これまでの進路指導というのはことさらポジティブなものばかりを見せようとしすぎてたんじゃありませんかね。結果として不幸になった人たちのことは「いないこと」にしてませんでしたかね

学生時代に接した進路指導的なセミナーには、いつもキラキラした業績を誇るゲスト講師のみが登壇していた気がします。もっと、研究職を目指したが挫折して結局は関係ない職に就いた体験談を語れる人たちを招くべきじゃなかったのだろうか。今振り返ってみて強くそう思うわけです。



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