自家製麹で叶える女性の働き方と生きるヒントVol.1
My Story Vol.1
「大好きなみんなの顔が固まっている・・・」
2020年4月、大好きな麹マスターに囲まれ、幸せに麹を伝えている私に起きたこと・・それはコロナ対応の日々。私が「全ての講座をオンラインにします!」と宣言したから。
その約20年前のあの日、私はビジネスマンの道を歩き出した。
1999年2000年問題が騒がれていた年末、私は
サザンオールスターズのバックダンサーとして、体操服にブルマ姿で踊っていた。
就職大氷河期時代だった当時、大卒でも6割しか内定をもらえない時代。私は夢追いびとになりダンサーを目指した。
実際にダンスを教えたり、バックダンサーでのお仕事はあったものの、ダンサー1本で生活していけるわけでもなく、アルバイトをしながらのダンサー生活を送っていた。
私は都内に実家があったので、普通の生活ができていたが、地方組のダンサーの生活は本当に過酷だった。
女性でも風呂なしに住んでいる子も多く、冬でも台所の水道で「水」で髪の毛を洗わなくてはならないような、生活をしている子も多数いた。
そんな中、サザンオールスターズの年越しライブ、全日程が終了した元旦の朝4時ごろ、
12月の約10日間のリハーサルと本番4日間のギャラがその場で手渡しで配られた。
やりたい人は吐いて捨てるほどいるダンサー。
ギャラがいくらか?なんて話はなく、
その当時はダンサーの事務所などもなく、
振付師が、声をかけてバックダンサーが決まるような、
そんなスタイルだった。
その日いただいた、封筒の薄さ、中身をみて、
私は、ダンサーを仕事にすることを卒業することを決めた。
そのライブで実際にお客様が払ったお金と、自分のそのお金。
これこそが「対価」「社会からの評価」なのだと絶望した。
そこからは真面目にバリキャリを目指そう!
素敵な働く女性になろう!と決意し、
その当時アルバイトをさせてもらっていた「I T企業」にて社員となり、
経営企画室にて仕事をすることになった。
2000年と言えば、世の中は「I T」で何かしなくては!?という時代。
でも何ができる??
「楽天」の契約店舗数はまだ「6社」そんな時代だった。
私が社員として働いた企業はベンチャー企業でありながらも、
超大企業の数社の出資で作られた会社だった。
資本金は当時8億!
会社は小さいのにも関わらず、取引先は大きい会社!
社員も少ないので、かなり幅広く仕事を任せてもらえる。
そんな有難い環境の会社だった。
23歳で入社したその会社の取引先は、今では有名すぎる「楽天」や堀江モンさんが作った会社「ライブドア」がまだ前進の「オン・ザ・エッヂ」もあった。
「ライブドア」に改名し、六本木ヒルズに移転した後も、何度か打ち合わせに訪れたことがある。
私は当時、ひよっこすぎる23歳しかも元ダンサー笑。。。
とにかく必死にI Tのことも、業界の事も学ぶ為、先輩たちに毎日同行し、夜も終電まで会食や、仕事のあとの社員のみの飲み会や夕飯なども全てご一緒させて頂いた。
常に常に現場にて教えてもらい、仕事100%な状況で働いていた。
新たな世界で仕事が出来ること、知らないことが知れることはとても面白く、とにかく仕事が楽しかった。
本当に素敵な先輩方に恵まれ、仕事の内容はもちろん、インターネットのネットワークのことやサーバー、業界の事、サービスの事をスポンジのように吸収していった。
5年半近く仕事をしていて、自らオリジナルのサービスを思い付き、当時の社長や上司にも面白いと言ってもらえ、責任者にもなり、部下も抱え、仕事をする立場となっていた。
0から1を生み出す楽しさを教えてもらったのは、この経験に他ならないと思う。
面白さを知り、生み出すことの楽しさを実感できた、現在にも通じるとても大切な経験となった。
自らのサービスを営業して、お客様のニーズを伺い、S Eとの間に入り、お客様の求めている物を作り、提供する。ものすごく楽しい仕事だった。
しかし社長交代となった後、最悪のシナリオがそこにはあった。
「女性の給与は全員統一とする」
正直何を言われているのかよくわからなかった・・・
事務の人も、営業の人もシステムサポートの人も色々いる中で、「なぜ??」
自分の頑張りが認められないのか・・・
そんな風に感じてしまった・・・そして、28歳、会社は何もしてくれない。
会社は自分なんていなくても回ることもわかっていた
でも必死に働いていた
思えば出資会社である超一流企業は男性優位の会社ばかりだった
だからこそ落胆は大きかった。仕事との距離感が近すぎた
一度休んで、色々考え直そうと、仕事を辞めることを決意した。最後の頃には湘南に移り住んでいた
結婚を決めたが、お相手のご両親と一定期間同居になりそうになった為、再度働くことを決意!次こそは女性が活躍出来る会社を!と思い、転職活動を開始!
この時、2005年頃、大氷河期時代が嘘のように、求人はあり、
女性の活躍を!謳っている2社に絞り、面接を受ける
結果はありがたい事に2社ともに内定をいただいた
しかし、1社はIT、もう1社は医療機器メーカー・・・・
IT業界の人事の方からは、同じ業界でキャリアを積む方が、この先に続く!とおっしゃられました。しかし医療業界恐るべし!
入社決定後の説明の際に提示された年収は、300万円もの差があった
私は色々な意味で医療業界をみてみたくなった。
そうして2005年4月、大手外資系医療機器メーカーに入社した
当時29歳、ここからは営業マン人生がはじまりる
そこに結婚・出産・産休・仕事復帰と・・・そこには沢山のドラマがある
vol.2もご期待ください