子どものスピリチュアル・大人のスピリチュアル
一口に「スピリチュアル」といっても、そこにはピンからキリまで無数のレベルが存在する。
高度に発達したスピリチュアルと、ほとんどオママゴトに等しい子どもじみたスピリチュアル。
これらを分けるのは一体何か?
「子どものスピリチュアル」と「大人のスピリチュアル」は、何がどう違うのか?
そもそも「スピリチュアル」の定義が、未だハッキリしていない。
スピリチュアルを科学で証明できない以上、その解釈は個々によって違っているのが現状だ。
私自身はスピリチュアルを、二つの軸で捉えている。
「Do」の軸と「Be」の軸。
「何をするのか」と「どう在るべきか」
言わば「Do」とは、何かが見えたり、聞こえたり、感じられたり、「霊能力」全般を指している。
「Be」とは「在り方」のことで、
いかに生きるか
どう在るべきか
自身の「信念」や「思想」「哲学」全般を指している。
「Do=霊能力」を「スピリチュアル」、「Be=在り方」を「霊性」と定義して話を進めるが、今一度整理すると以下のようになるだろう。
【スピリチュアル:Do】
霊能力全般
【霊性:Be】
信念、思想、哲学全般
この二軸に沿って以下、「子どものスピリチュアル」と「大人のスピリチュアル」について論じたい。
1.子どものスピリチュアル
スピリチュアルのレベルについて考えるには、実際に「子どものスピリチュアル」に目を向けてみるのが早いだろう。
YouTubeなどで検索すると、霊能力を持った子どもが「予言」や「霊界」について話しているのが、意外と多く見受けられる。
それらの内容を評価するには、
1.霊能力の真偽
2.情報の精度
これらを順に見ていく必要があるだろう。
まず「霊能力の真偽」について、これらはほとんど場合「本物」と判断していいだろう。
幼い子どもが霊能に関してウソをついたところで、メリットはほとんど何もない。
「スピリチュアル」というニッチな分野でウソをつこうなどと考える子どもが、果たして本当にいるのかどうか。
誰かの指示でウソをついている可能性も考えられなくはないが、その場合どうしても子どもなら「イヤイヤ感」が出るだろうから、客観的に見てそうした「違和感」は隠せるものではないだろう。
スピリチュアルについて語る子どもは、自然体でそうした世界を流暢に話していることから、彼らの霊能力は「本物」と断じていいだろう。
次に「情報の精度」はどうだろう?
問題はここで、霊能力は本物であるものの、そこで見聞された内容は「その子の」世界観や認知能力、語彙力のフィルターを通ってくる。
霊界という高次の世界を見聞きできても、それは「子どもの認知能力」を通してしか、我々の耳には入ってこない。
「実相」の世界を言葉で表すことは出来ない。
我々の住む3次元(物理次元)は、時間と空間に支配された相対的な世界であり「相対的な言語」で「絶対的な世界」を表現することは出来ない。
時間と空間の作用により、我々はありとあらゆる「分離」の中で生きている。
善悪
正誤
明暗
男女
左右
上下
etc…
霊界とは、そうした「分離」のない世界。
時間と空間に影響されず、「善悪」も「正誤」も「明暗」もない。
つまり、極めて「抽象度の高い」世界といえるだろう。
善悪や正誤はそれらが置かれた「文脈」によって、解釈や評価が変わってくる。
戦争は「正義と正義のぶつかり合い」によって起こるが、見方や立場によって「善悪」の定義は変わってくる。
例えば明治維新の立役者である維新志士は、一般的には「英雄」としてもてはやされるが、会津をはじめとする佐幕陣営から見れば、単に領地を蹂躙しただけの「ならず者」に過ぎない。
同様に霊界における情報も、受け手が「どのように解釈するか」によって、その意味はまったく違ったものになってくる。
予言や神託などの「具体的なメッセージ」は、率直に言ってレベルの低い情報だ。
●●が起こるから△△しなさい
本当に霊性の高い存在は、こうした「具体的なメッセージ」は送ってこない。
霊界もピンキリで、人類をサポートする善良な存在もいれば、人間を惑わそうと画策する不埒な輩まで色々いる。
真っ当な存在ほど「正解」をそのまま与えるようなことはせず、人々が自分の頭で考え困難を克服するための「ヒント」や「示唆」を送ってくる。
そうしたメッセージは「抽象的な」ビジョンやイメージあるいは感覚としてやってくるため、それらを「どう解釈するか」が霊能者としての「腕の見せどころ」となるだろう。
霊界からやってくる「抽象的な」ビジョンやイメージを、どう咀嚼し読み解くか。
これがいわゆるスピ界隈で言及される「リーディング」の本質だ。
抽象的なメッセージを読み解くには当然、様々な経験や知識が必要とされるため「霊能力」だけ長けていても有益な情報は得られない。
これらを踏まえた上で「子どものスピリチュアル」を見てみると、情報の「精度」や「確度」については疑問を持たざるを得ないだろう。
子どもの能力が「本物」であっても、見聞きした情報の解釈や表現は「その子の」フィルターを通ることで、多分にバイアスがかかってしまう。
稀に正確な「予知」や「透視」が出来る子もいるが、その場合も倫理的な部分での能力の使い道には「節度」が求められ、「なぜそうした力を授かったのか」というより広い文脈での自己理解が不可欠となる。
能力だけ長けていても、霊能者は務まらない。
自分の授かった能力は、誰のどんな課題解決に役立てることが出来るのか。
自分の受け取った情報をどう解釈し、どう伝えれば社会に貢献できるのか。
これらは主に「スピリチュアル:Do」ではなく「霊性:Be」に由来する資質だろう。
霊能者として、
どう在るか
何を成すか
どんな貢献が果たせるか
スピリチュアルが科学で証明できない以上、霊能者に最も求められるのは倫理や道徳を含めた「在り方=Be」ではなかろうか。
霊能力とは言わば「五感の延長」に過ぎず、一般の人に比べ捉えることのできる周波数帯が、少し広いというだけのこと。
例えば、電磁波の中で「可視光線」と呼ばれる帯域は「光」として認知されるが、それとは異なる高次の帯域を何らかの方法で捕捉し、イメージやビジョンに置き換えるセンスを「霊能力」と呼んでいる。
人よりも「見える範囲」や「分かる範囲」が少し広いというだけのことで、「霊能力の有無」と「精神性の高低」は分けて考えるべきだろう。
雑な言い方をすれば、視力2.0の人が1.0の人よりも精神性が高いわけでないのと同様、「霊能力」と「精神性」の間に相関関係があるのか否か、実際のところ分かってない。
私がスピリチュアル(Do)と霊性(Be)を分ける所以はここにある。
「子どものスピリチュアル」は霊能力は本物であっても、霊性(精神性)については定かでなく、それを踏まえて判断せねば間違った方へ行きかねない。
自分の見聞きした情報を、どのように相手へ伝えるか
そもそも見聞きした情報を、伝えるべきであるのか否か
「本物の」霊能者が、最も悩むのはここだろう。
見聞きした情報を何の考慮もせず、ザルのようにペラペラと垂れ流すのは、分別を欠いた行いと言わざるを得ない。
自分の言動が、どう世の中へ影響するか。
一流はそれを気にかける。
「能力」だけでは片手落ち。
「在り方」が備わってこそ「能力」が本当の意味で活かされる。
「能力」だけを追求し、それのみはやし立てるのは、真っ当なスピリチュアルとは言い難い。
「能力」と「在り方」
「スピリチュアル:Do」と「霊性:Be」
両者が揃ってはじめて「大人のスピリチュアル」が立ち上がる。
2:定義の曖昧な言葉たち
スピリチュアルの世界は、定義の曖昧な言葉が多すぎる。
アセンション
目覚め
愛
光
etc…
科学による解明が追いついていない以上、致し方ないことではあるが、そうであればこそ自己による「定義づけ」が重要な意味を帯びてくる。
自分にとって「アセンション」とは?
自分にとって「目覚め」とは?
スピリチュアルが実践の場で活きるか否かは、これらの「定義」に懸かっている。
みんなが言っているから…
目覚めたらラクになれるから…
アセンションすれば左うちわで暮らせるから…
当たり前だが、これでは何も変わらない。
ブームに流され、定義の曖昧な言葉を都合よく解釈するだけでは、単なる「おしゃべり」にしかならない。
一般に「アセンション」や「目覚め」が起こると、あらゆる苦悩から解放され「パラダイス」が訪れると言われているが、実際のところどうだろう?
「何が何でもアセンションしたい」と切望する者に、その理由をうかがうと「ただラクになりたいから」というだけのケースが多くある。
アセンションしたら「終わり」なのか?
目覚めたらそれで「詰み」なのか?
おそらく、そうではないだろう。
目覚めた上で何をするのか。
目覚めることも大事だが、それと同じかそれ以上に「目覚めた後」どうするか。
それを一人一人が問われている。
諸外国の宗教が「悟り」を目的とするのに対し、人間は生まれながらに悟った存在であると見なし、
では悟った上で何をなすか
これを追求するのが神道の世界であるという。
神道が「教え=宗教」ではく「道」と称する所以はここにある。
人間は生まれながらに悟っている。
その上で何をすべきかを追求するのが「神の道」たる神道だ。
「悟り」はあくまで通過点。
同様に「アセンション」や「目覚め」も目的として捉えるよりは、手段と考えた方がいいだろう。
アセンションすることで、私は何をしたいのか?
アセンションの先、あるいはその向こう側。
それを具体的にイメージすることで、アセンションへの道がグッと拓けてくるだろう。
空手の「板割り」と同じである。
板割りは逆説的だが「板」に意識を集中すると、板の前で拳が止まってしまい、決して割ることは出来ない。
板を割るには「板を貫通した拳」をイメージし、その通りに拳を突き出すことで、キレイにパカッと割れるという。
これと同じで「ラクになりたいから」という理由だけで「アセンション」や「目覚め」を望んでも、それらが実現することはないだろう。
複雑に見えるスピリチュアルの世界も、大まかに分類するとポイントは次の二点に絞られる。
一者に帰還せよ
多者を抱擁せよ
一者への帰還とは「悟る」こと。
あるいは自分の存在が「宇宙」であると気づくこと。
自分自身を「極める」こととも言えるだろう。
そうして磨き上げた「ワザ」や「スキル」を存分に活かし、世のため人のために尽くすこと。
他者を抱擁するにはまず、自分自身が強くなければ叶わない。
まずは自分を磨くこと。
時には歯を食いしばり、己と向き合いながら「高み」を目指して進むこと。
そうして「一者」への帰還を果たし、その上で多者を包むこと。
上昇と下降。
上る(昇る)だけでは、事の半分しか成し得ない。
自分を極めて地に降りる。
この地上で何を成すか。
どんなにスピリチュアルを説いたところで、最後の問いはこの一点に絞られる。
現実の世界をどう生きるか。
肉体を持って生きる以上、向き合うべきは「妄想」ではなく、何気ない日々の「日常」だ。
「アセンション」や「目覚め」を声高に叫び、いの一番に世俗的な雑事からの脱却を図るのが、本当にスピリチュアルな在り方と言えるのか?
ただ「上がり」を目指し目線を上に向け、「この世的なもの」から目を逸らし続けていたのでは、どう頑張っても「アセンション」するのは無理だろう。
真に目覚めた者は、最後まで現場で粘り抜く。
『鬼滅の刃』で煉獄杏寿郎の放った言葉。
必要とあらば自らの命さえも脇に置き、より大きな「善」のために己の身を捧げ尽くす。
「アセンション」だの「目覚め」だの、空虚な言葉を連呼しながら「高みの見物」を決め込むのとは訳が違う。
いざと言う時、体を張れること。
真に目覚めた者は、良い意味での「泥臭さ」を備えており、地に足が着いている。
東日本大震災の際、防災無線による勧告で多くの命を救ったものの、自らは津波に流され帰らぬ人となった遠藤未希さんが偲ばれる。
スピリチュアリティとは?
精神性とは?
科学では証明できない世界である以上、一人一人が自己修養や内省を通じた「自分なりの定義」を定める必要があるだろう。
どこまで自分自身と本気で向き合い、どこまで自分自身の声を聴けるか。
「子どものスピリチュアル」と「大人のスピリチュアル」を分けるのはおそらく、そうした「本気度」の違いだろう。