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超論理的意識とは?

前回の続き。

今回は「超論理的意識」についての考察です。

前回の記事は以下よりご覧いただけますので、よろしければ是非↓↓


1.論理的思考力の重要性

考えるより感じろ
脳は捨てろ
直感に従え

スピリチュアルの世界に身を置いていると、まるで「脳」や「論理的思考」を目の敵にするような雰囲気が随所で感じられる。

しかし、真スピリチュアリティを体得する必要条件は論理的思考にあり、これがないといわゆる「悟り」を得るのもまずもって無理だろう。

論路的思考は「識別」とも換言でき、今直面している問題を明確にし、未来を構想する能力だ。

「識別」とは見極めること。

今一体何が問題となっており、どのような解決策が考えられ、その結果どんな未来が実現するのか。

これらの考察はひとえに「論理的思考」の賜物であり、そもそも論理が使えなければ社会の進歩はあり得ない。

論理的思考がいかに大事かを認識するには、歴史を振り返るのが手っ取り早い。

現代の物質文明は論理的思考の所産であり、それは主に18世紀に始まったとされる啓蒙主義に由来する。

思想家のウィルバーによると、啓蒙主義により合理的精神が芽生えたことで「科学」「芸術」「道徳」が明確に区別され、以降それぞれの分野を独自に追求できる基礎が築かれた。

逆に言うと「科学」「芸術」「道徳」が明確に区別される以前は、科学と宗教が混然一体となっており、「地球が自転している」と宣言すれば不敬罪に問われ火あぶりに処され、芸術においても宗教に関わるテーマのものしか描くことが許されていなかった。

しかし啓蒙主義による合理的精神の発達により「科学」「芸術」「道徳」が明確に区別され、それぞれ独自の追求が可能となったことで、それが今日の社会の発展へとつながっている。

論理的思考による「科学」「芸術」「道徳」の区別が明確になされていなければ、科学を科学として扱うことが出来ず、そのため産業革命も不発に終わり、今日のような発展は夢のまた夢といったところだろう。

論理による区別(識別)が成されなければ、地動説を唱えた途端火刑に処されるような前時代的意識に留まることになるため、このことからも論理性や合理性の重要性がうかがえる。

進化や成長にとって区別(識別)が不可欠であるのは間違いないが、これ行き過ぎて「分離」にまでいたると、今度はそれが立ちどころに「病理」となって現れる。

「科学」「芸術」「道徳」を区別し、各々の発展を促すまではよかったものの、その「区別」が行き過ぎ「分離」したことで、科学が他の領域を侵食(植民地化)した結果、社会が物質偏重へと傾き病んでしまったのだ。

「科学万能主義」の言葉通り、何でも科学で解決できると勘違いすることで、この世界から倫理や道徳が消失した。

STEM教育もこの風潮の延長にあり、GAFAによる検索アルゴリズムを用いた売上至上主義は、テクノロジー信奉者の思想がよく表れている。

※STEMは「Science=科学」「Technology=工学」「Engineering=エンジニアリング」「Mathematics=数学」の略で、GAFAは「Google」「Amazon」「Facebook」「Apple」の総称。

このようなアンバランスな世界を立て直すのが「超論理的意識」の役目だが、科学万能主義による不均衡を解消するには、一体どうすればいいだろう?

2.木と森を同時に観る

科学万能主義による不均衡を解消し、「科学」「芸術」「道徳」をバランスよく統合すること。

それらを成し遂げるには、論理的思考をさらに押し進めた「立体的思考」が不可欠となるので、これから詳しく見ていこう。

論理的思考は直線的・平面的意識に拠っており、それは主に「損得勘定」を喚起する。

つまり「ゼロサムゲーム」

やるか、やられるか。

平面(2次元)に立ち、向かってくる相手を迎え撃つ。

論理的思考とは、そのような意識と言えるだろう。

それに対し「立体的思考」とは、上空から地上を俯瞰するように物事を立体的(3次元的)に捉え、森全体を俯瞰することも出来れば、木の一本一本を丁寧に観察することも出来る、言わば「巨視的」「微視的」両方の視点を自在に使いこなすことにある。

「風車」で例えると分かりやすい。

今、AさんとBさんの間に風車が立っているとする。

この時、Aさんの前で風車が「右回り」で回っていれば、風車を挟んで反対側にいるBさんはこれを「左回り」と認識するだろう。

論理的思考が拠って立つ平面的(2次元的)意識では、風車が「右回りか左回りか」でケンカすることになってしまう。

両者一歩も譲らず、自分が見ている通りの現実を相手に訴えるだけで「相手の視点」に立つことまで思いが及ばない。

しかし「立体的思考」に拠れば、そうした状況を俯瞰的に見つめることで、自分が「右回り」で見ている風車は、相手からすれば「左回り」であると理解する。

上から見れば「右」も「左」もなく、ただ風車が回っているだけ、それだけのことである。

こうした意識をウィルバーは「ビジョン・ロジック」と呼んでおり、それは「非視点的意識」と言い換えることが出来るだろう。

「非視点的」とは特定の視点を取らず、あるひとつの視点を特権化することのないよう、中立的姿勢を保つこと。

つまり「右回り」「左回り」といった特定の視点に固執することなく、どの視点も特権化せず、中立的に物事を俯瞰すること。

こうした意識のもとで初めて、相矛盾するものの一体化(統合)が可能となる。

相反するものを統合し、新たなステージへと昇華させるのを「弁証法」あるいは「アウフヘーベン」と呼んだりするが、「科学」「芸術」「道徳」といった異なる性質を持つ者同士をバランスよく組み合わせ止揚するには「ビジョン・ロジック」が不可欠となる。

ビジョン・ロジックは先述の通り、(個々の視点を特権化せず)中立的に物事を俯瞰するので、統合だけでなく矛盾を矛盾のまま保留できるのも優れた特徴のひとつだろう。

「木と森を同時に観る」ことが出来るので、ビジョン・ロジックの持ち主はある状況における自分自身の立ち位置と、その上で要求される役割について直観的な把握が可能である。

つまり俯瞰的に状況を把握した上で、自身の果たすべき役割を直観的に感じ取る。

全体の流れが把握できており、その中で果たすべき自分の役割を自覚できるので、結果として調和が保たれる。

「科学」「芸術」「道徳」をはじめ、相矛盾するもの同士を統合するには、こうした全体観が求められる。

微視的・巨視的両方の視点を持つことは、「権利と義務の把握」と言い換えることも出来るだろう。

個人として主張できる「権利」と、社会の中で果たすべき「役割=義務」と・・・

「権利」と「義務」は互いに矛盾し、あちらを立てればこちらが立たず、常に「ゼロサムゲーム」の関係にある。

ビジョン・ロジックはこうした矛盾を矛盾のまま保留し、その時々の状況に応じ「権利」と「義務」のバランスを調整することで、全体の調和に貢献する。

好きなことなら何でもやっていいわけではなく、大人であれば「権利」と「義務」のバランスを計った上で、調和や全体最適についても考慮する必要があるだろう。

微視的・巨視的両方の視点を持っていると、否が応でもある種の「制約」が把握され、例え「スピリチュアル」といえども、何でもやっていいわけでないのがハッキリと自覚できるだろう。

人間の可能性は無限大
宇宙に善悪はない
何をやっても許される
etc…

スピリチュアルの世界はこうした「甘言」で溢れているが、肉体を持って生きる以上「制約」や「限界」があるのは当たり前。

たとえ人間の可能性が無限大であるにしても、その無限に及ぶ可能性の中から選ぶことの出来るのは、たったひとつに限られる。

それとて何を選んでもいいわけではなく、大局的見地からよりベストに近い選択というのは確かにあるので、精神性の高い者であれば自らのエゴを抑え「個」と「全体」が調和するよう配慮するはず。

ここにある種の「パラドックス」がうかがえる。

霊性の高い者はむしろ、人間の可能性について誇大妄想や大げさな表現は使わない。

「超論理的意識」にまで到達すると本当の意味で地に足が着くため、いわゆる「スピ系」が連呼するような非現実的な言辞はなくなり、代わりに具体的・実践的な提言が繰り返されるようになる。

そのため端から見ていると、それが実際「スピリチュアル」なのかどうか、よく分からないことも多くある。

逆に言うと、いかにも「スピリチュアルっぽく」見えているうちは、それはまだ「半人前」か「二流」と判断した方がいいだろう。

それが本当に板に着くと、逆説的だが「それっぽさ」が薄れていく。

「超論理的意識」に達した者は、誰もが崇める「超人」ではなく、見た目はいたって「普通の人」である。

非凡なる平凡。

実相に近いレベルで大きな仕事をする人ほど、世の中の表には出て来ない。

本物は一見わかりづらい。

このことを知っておくだけでも、スピリチュアルに対する偏見が飛躍的に改善されるはず。


3.「美」の追求

「超論理的意識」を持つ者は総じて、善悪で人を裁かない。

霊性の高い者から見ればどんなにズレた行動であっても、本人にとっては必要な経験および学びであるため、段階特定的には正しいことを認識する必要があるだろう。

ある段階の者にとっては不調和に見える行いも、それより下位の者にとっては極めて合理的な判断に基づくもので、「善悪」とは実際のところ相対的なものでしかない。

例えば現代社会において、幼い子どもを「経済的に厳しいから」と殺してしまえば殺人罪に問われるが、古代において「口減らし」は当然のように行われており、部族単位で構成された小集団の存続を図るには、極めて合理的な措置であったといえるだろう。

このように「善悪」は時代や状況により倫理観が異なるので、絶対的な評価基準にはなり得ない。

「善悪」が行動の指針になり得ないとすれば、一体何を道しるべに生きて行けばいいだろう?

その答えが「美」である。

その言動は美しいか?

「美しさ」とは「真理」である。

人間は「真理」を「美しい」と感じるように出来ている。

これはもう、神が人間をそのように創ったとしか思えない。

程度の差こそあれ、人間であれば誰もが「美」を感じ取るセンサーを心の内に備えている。

「ひれ伏す」という言葉があるが、これは恐怖による屈服ではなく、畏怖の念に打たれたことによる敬虔な直覚だ。

それがあまりにも神々しく、直視するのが憚られる。

直視するなど恐れ多くて、とても出来ることではない。

ただただ頭を下げ、我が身の至らなさと、畏怖の念を自覚する。

「美」は人を一瞬で納得させてしまう、不思議な力を備えている。

「説得」ではなく「納得」だ。

力で相手を支配するのではなく、「あぁそうか」と自然と腹落ちさせてしまう。

「美」に勝る力はなく、それは「論理」を超えている。

「美」は論理や損得では計れず、心の眼(内面)で捉えるしかない。

時に「美しさ」は、損得勘定と対極の位置にあらわれる。

単純な損得勘定で考えれば、明らかに「損」でしかない行いが、実のところ「真の美しさ」を体現していたりする。

楠木正成しかり、
神風特攻隊しかり、

「真の美」を体現する者は、「死」の恐怖を超えている。

損得勘定とは二元思考。

損か得か
有利か不利か
良いか悪いか
生きるか死ぬか

損得勘定を突き詰めるとそれは最終的に「生き死に」の問題へたどり着く。

「損か得か」について考えを巡らす一番の理由は、自分の命を守るため。

命を保証するため「損得」を巡らし、自分の身を守っている。

損得勘定は「死の恐怖」に由来する。

「死」に対する恐怖が、人の意識を損得をはじめとする二元思考へと駆り立てる。

「死生観」を磨くこと。

いかに生き、いかに死ぬか。

どのように生き、どのような最期を迎えるか。

「超論理的意識」とは「死」の恐怖と向き合うことでもあるだろう。

「論理を超える」とは言わば「二元思考」を超えることと同義で、「死」の恐怖を受け入れることでもあるだろう。

「死」の恐怖に囚われず、自身の信ずる「美」や「信念」を体現すること。

常識的に考えれば、敗北必至の戦(湊川の戦い)に臨む楠正成の在り方は、誰がどう見ても合理的意識に反している。

自らの命と引き換えに敵艦へ突っ込んだ特攻隊員も同様、彼らは「無謀」であったのか?

否、そうではない。

「論理」を超越した「美」

彼らは自身の「信念」や「美学」に殉じたのだ。

「正しさ」よりも「美しさ」を。

自分自身の「信念」や「美学」を貫き通すには、時に自分の命を脇に置かねばならぬ場合もあるだろう。

「死」の恐怖を受け入れ且つ、それを超えて行くこと。

「超論理的意識」とは、死の恐怖の向こう側にある「美」の追求に他ならない。

そこに「美」はあるか。

その言動は美しいか。

「美意識」は個々の精神性を如実に反映し、そこにゴマカシは挟めない。

「美」はウソをつかない。

あらゆる物事の真偽は「美」によって判断できるだろう。

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