である-体とですます-体
ある原稿を書いていました。その原稿が載る本はである-体となっていますので、である-体で書いていました。一方で、まもなく出版される「親しい仲間」といっしょに書いている本はですます-体です。ぼく自身は、過去5年間くらいは、研究書や研究論文はである-体、日本語教育学関係の本や論考はですます-体で書いています。
今日の原稿は、である-体で書いていたわけですが、ぼくとしては日本語教育学の原稿として書いていました。そうすると、ぼくの考える日本語教育学とである-体がどうもうまく「噛み合わない」のです。一方の「親しい仲間」との本は、まさに日本語教育学の本でですます-体なので、軽快に書くことができました。前者では、なぜ「噛み合わない」ということが起こったのでしょう。
ですます-体で書いているとわたしが読者に向かって語っている/書いている感じで、日本語教育学をしている(つもりの)わたしとしては、とても気持ちがいいのです。「ぼくはこんなふうに思う/考えているんだけど、どう思う!?」って語り続けている感じ。対話している感じ。それに対し、である-体は上から目線で「教えを垂れている」感じで、対話を旨とする日本語教育学の文章としてはふさわしくない感じ。一方で、学術本や学術論文は、である-体がふさわしい。学術本や学術論文は、できるだけ「自己を滅却して」真理に迫ろうとする試みであり、同じように「自己を滅却して」真理に迫ろうとしているご同輩研究者に向けて書くものなので、である-体がふさわしいのだろうと思います。
端的に言うと、ですます-体は、「わたし」が「あなた」(読者)に対して語る対話的なスタイル。である-体は、「教えを垂れる」体と、「自己滅却」体。でしょうか。学問的な文章の場合の話です。
そして、ぼくは、以前から、日本語教育学の学問的な文章スタイルを確立したいと思っている(ようです)。それは研究的実践者が同じく研究的実践者である読者に対話的に語りかけるスタイルです。そして、そのスタイルは高度な学問レベルを維持しながらの対話のスタイルになります。そのスタイルとしてふさわしいのはやはりですます-体だと思う。上から目線の、あるいはよそよそしいである-体は、対話的であるべき日本語教育学にはどうもふさわしくない。
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