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「日本語教育の参照枠」の理念!?

 「日本語教育の参照枠」の「理念」を改めて見てみました。下の【「理念」らしきものの抽出】です。
*以下が、「日本語教育の参照枠」の「最終版」です。https://www.bunka.go.jp/.../hokoku/pdf/93476801_01.pdf

 「理念」はこれだけで、後はCEFRのレベル記述の焼き直しだけです。ここまで、見てみての感想。

1.「捉え直し」って何?
 以下の2つめの引用箇所((2))で以下のように言っている。ここの「捉え直し」って何? この「捉え直し」のプロセスをきちんと論じなければいけないのでは。そうでないと、「都合のいいところを、都合のいいように利用した」ように見える。

○この三つの言語教育観の柱は、CEFRにおいて、社会的存在(social agents)、部分的能力(partial competences)、複言語主義(plurilingualism)として示されている概念を参考にしつつ、日本語教育の文脈から捉え直したものである。

2.提唱している新たなアプローチを従来の言語事項中心の日本語教育との対比で位置づけている。それでよいか。
 以下の引用の(2)で、「文法事項を実際の言語使用 の場面などと関係なく教える、全員に同じ漢字・語彙を教えるなど、多くの場合、教える側の事情によって、学習者を異なりのない均一な存在として捉えてしまうことはないでしょうか」と従来の言語中心のアプローチに批判的な目をそぞぎ、それの代替案として、「生活の中で必要な表現や話し方、漢字・語彙を学ぶ、仕事で求められる技能を(優先的に)身につける」として行動中心のアプローチを位置づけている。
 わたしとしては、従来の言語事項中心のアプローチについての問題意識は共有するが、「それに対する代替案は(CEFR発祥の!)行動中心のアプローチがふさわしい」と言い切るのはどうだろう。行動中心のアプローチは、いわば文化的、社会的、歴史的な共通性が高い地域の人々が、言語的にも類似性(一番分かりやすいのは語彙の重複)が高い「お隣の言語」を複言語・複文化主義的に身につけるということで提案されたアプローチである。それを文化的にも社会的にも歴史的にも馴染みが薄い「世界」を有し、言語的な類似性がほとんどない日本語の習得の場合に当てはめるのが適当であるかどうか、議論する必要がある。少なくとも、入門・基礎の段階は、そうした検討の上で新たな教育を企画し実施するべきでしょう。ああ、従来の言語事項中心の日本語教育に戻ろうと提案しているわけではありません。念のため。

3.複言語・複文化主義について
・CEFR(2001)では、第1章で、複言語・複文化主義のことが丁寧に論じられている。「日本語教育の参照枠」では、上のように「捉え直し」たとしか書いていない。
・CEFR(2001)の第2章では、「Approach adoped」として、2.1 Action-oriented approach、2-2 Common reference levels of language proficiency、2-3 Language learning and teachingとして、活動や言語活動やそれを支える知識や能力をどのように考えるか、提案する共通参照レベルとは何か・どういう趣旨か、習得を支援することをどのように考えるか、などが詳細に論じられている。「日本語教育の参照枠」ではそういう議論が以下の引用程度しかなく、それ以降は、ただ能力記述に邁進している。

 こうして改めて見て思うのは、(1)要は能力を査定する基準がほしかった、(2)各機関の自主性を重んじると言いながらとにかく行動中心の目標を設定してそれを達成できるように日本語の指導をしてくださいと言っている、ように見える。言語教育学的には、言語の能力についての捉え方や新たな言語の習得と習得支援(=教育)のあり方をめぐる理念の議論こそが重要なのにその部分はなおざりにしている。「日本語教育施策のための日本語教育の枠を示すことが目的であって、そういう理念の議論をすることが目的ではない」とおっしゃるかもしれませんが、それなら理念の議論の部分をせめて付属参照資料として作成し、公表したほうがよいのでは。そうでないと、形骸化した行動中心のアプローチと、理不尽なCan doばかりが一人歩きしてしまう。

【「理念」らしきものの抽出】
1.p.7に「理念を分かりやすく示す」とありながら、「理念」という項目を立てて論じられていない。

2.以下の2箇所がどうも「理念」らしい。
(1)p.6の「(1)「日本語教育の参照枠」が目指すもの」の最後部。見出しは、なし。以下、引用。

 以下の三つを「日本語教育の参照枠」における言語教育観の柱として考えることとする。
1 日本語学習者を社会的存在として捉える
 学習者は、単に「言語を学ぶ者」ではなく、「新たに学んだ言語を用いて社会に参加し、より良い人生を歩もうとする社会的存在」である。言語の習得は、それ自体が目的ではなく、より深く社会に参加し、より多くの場面で自分らしさを発揮できるようになるための手段である。
2 言語を使って「できること」に注目する
社会の中で日本語学習者が自身の言語能力をより生かしていくために、言 語知識を持っていることよりも、その知識を使って何ができるかに注目する。
3 多様な日本語使用を尊重する
 各人にとって必要な言語活動が何か、その活動をどの程度遂行できることが必要か等、目標設定を個別に行うことを重視する。母語話者が使用する日本語の在り方を必ずしも学ぶべき規範、最終的なゴールとはしない。
「1 日本語学習者を社会的存在として捉える」とは、どういうことか?
 「日本語教育の参照枠」では、学習者を社会の一員として人々と関係を持ちながら、日本語を使って様々な課題を解決しようとする存在として捉えます。なぜこのようなことを、言語教育観の柱として示しているのでしょうか。
 例えば日本語を教える際にも、ある文法事項を実際の言語使用 の場面などと関係なく教える、全員に同じ漢字・語彙を教えるなど、多くの場合、教える側の事情によって、学習者を異なりのない均一な存在として捉えてしまうことはないでしょうか。
 そうではなく、学習者が置かれている様々な背景や社会的な状況に応じて、生活の中で必要な表現や話し方、漢字・語彙を学ぶ、仕事で求められる技能を優先的に伸ばすといったことが大切です。特に成人の場合は既に持っている知識や経験を生かして学ぶことができるのです。このように一人一人異なる状況に応じた学びを支えるための枠組みとして「日本語教育の参照枠」は編まれました。
 社会と教室を隔てることなく、学習者一人一人の豊かな多様性を生かし、日本語を通した学びの場を人と人が出会う社会そのものとすることによって、共生社会の実現を目指す。それが、「日本語学習者を社会的存在として捉える」という言葉に込められた意味なのです。

(2)p.10の(2)言語教育観の三つの柱
 以下、引用。

○ 「日本語教育の参照枠」では、6ページのとおり、言語教育観として三つの柱を挙げており、全ての指標はこの考えに基づいて示されている。
 ① 学習者を社会的存在として捉える。
 ② 言語を使って「できること」に注目する。
 ③ 多様な日本語使用を尊重する。
○ この三つの言語教育観の柱は、CEFRにおいて、社会的存在(social agents)、部分的能力(partial competences)、複言語主義(plurilingualism)として示されている概念を参考にしつつ、日本語教育の文脈から捉え直したものである。
○ これら三つの概念を基盤としてCEFRは、行動中心アプローチ(action- oriented approach)を示している。行動中心アプローチとは、多様な背景を持つ言語の使用者及び学習者を、生活、就労、教育等の場面において、様々な言語的/非言語的な課題(tasks) を遂行する社会的存在として捉える考え方のことである。
○ 行動中心アプローチにおける言語教育の目標とは、言語の使用者及び学習者がそれぞれの社会で求められる課題を遂行できるようになることである。したがって、学習者は、文法や語彙の難易度、言語活動間のバランスにかかわらず、課題を遂行するために必要な事柄から学ぶことができる。

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