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内容の学習論と言語の学習論 ─ 社会文化論的観点

はじめに
 わたしは、以前から、学習論を考えるときは、一般的な学習論、つまり内容(歴史、社会、化学、物理など)の学習論と、言語の学習論(新たな言語を身につけることをめぐる議論)は明確に区別しなければならないと主張してきました。にもかかわらず、現在でも一般的な学習論を安直に言語の学習論に適用する議論がそこかしこで行われています。
 社会文化論的な観点の学習論をめぐってです。主に、スキャフォールディングが行われる場面の話。

1.初次的な認識の形成における意識の貸与
 認識の発達についてブルーナーは意識の貸与(loan of consciousness)という見方を提示しています。発達途上の幼児は世界についての認識や事態についての認識をまだ十分に発達させていません。そのような幼児たちは周りの大人たち(お兄ちゃんやお姉ちゃんでもよい)との日常的な相互行為とそこで交わされる言葉を仲立ちとして世界や事態の像を形成していきます。それはあたかも大人たちの進んだ認識の仕方に包み込まれるように、そしてそれに誘われるように、大人たちと類似した認識を自らのうちに浮上させられるようになるような状況です。大人たちが当該の相互行為で浮上させている意識を子どもに頒け与える、子どもの立場から言うと相互行為を通して大人たちからそうした意識を頒けてもらうような事態です。そうした初次的な認識の形成、認知の発達を指して、ブルーナーは意識の貸与と言っています。

2.科学的概念の発達
 同様の事態は学校の授業を通した科学的概念の発達においても見られます。例えば、実験をしながらの燃焼というテーマの理科の授業を考えてみましょう。授業は教師がひとつかみの木製繊維に火をつけるところから始まります。

 教師 : (木質繊維を手にして)これ、何かわかる?
 (生徒に触らせる)
 生徒 : 木みたい。糸みたいになってる木。
 教師 : そうだね。木が糸みたいになってるね。
     (木質繊維を皿の上に置いて、ライターを手にして)
      これに火をつけたらどうなるかなあ。
 生徒 : 燃える! よく燃える。
 教師 : そうだねえ。やってみよう。
     (燃え始める)
 教師 : どう?
 生徒 : 燃えた! 燃えてる!
 教師 : そうだね。燃えてるねえ。
      ところで、これは、自分で燃えてるのかなあ。
 生徒 : 自分で燃えてる?
 教師 : うん、どう言うかなあ、他のなんの助けも借りないで、
      自分で燃えてるのかなあ?
 生徒 : うん、自分で燃えてる。
 教師 : そうだね。自分で燃えてるように見えるねえ。
 生徒 : 自分で燃えてるよ。
 教師 : じゃあ、こんなことをやってみよう。
     (皿を蔽うほどの大きなガラス容器を持ち出す)
      これ(ガラス容器)で、これ(燃えている木質繊維)にフタをしたら
      どうなるかなあ?
 生徒A: 同じ。燃える。
 教師 : そうか、燃え続けるかー。
 生徒B: 消える!
 教師 : おお、消えるかー。じゃあ、やってみよう。(フタをする)
     (火は消える)
 教師 : ああ、消えたね。これ、なんで消えたの?
 生徒C: フタが燃えるのを邪魔した!
 教師 : なるほど、ガラスのフタが何か悪さしたかなあ。

 このようなやり取りをしながらの実験が展開され、この後に、火が消えた原因が探究されて、酸素がなかったら木や紙などは燃え続けることができないという結論に至ります。
 この授業とその延長を想像していただければわかるように、生徒たちは教師に寄り添われながら目の前で起こっている現象を観察しています。より高次の認識をもっている(隠しもっている!?)教師からの言葉による導きに包み込まれながら観察を続けているような具合です。そして、そうした包み込まれながらの観察を通して生徒は目の前で起こっている現象についてより高次の認識を形成します。これもやはり、意識の貸与です。

3.より高次の認知の発達

 次は観察などに拠らないより高次の認知的発達の話をします。例えば、「ソシュールの言うラングとは何か」というテーマでの授業です。

 教師は、学生たちとの質疑応答なども交えながらあれこれ説明したり例を挙げたりしながら学生たちがラングという視点を形成できるように導きます。そこで交わされる一つひとつの言葉は特定の事態や視点を紡ぎ出します。そして、教師は、そうした事態や視点を相互に巧みに関連づけて、ラングという視点が卓立点となるように、学生たちにそれまでなかった認識の編成体(constellation)を学生たちが作り上げられるように学生たちを導きます。ここでも、より高次の認識をもっている教師が、学生たちを包み込むような考究の相互行為を展開して認識の発達を促す様子が見られます。これもやはり広い意味で意識の貸与と言うことができるでしょう。

4.指示対象構築の代行とその取り込み
 次に、指示対象構築の代行とその取り込みについて。それは、いわゆる接触場面の相互行為、つまり言語使用/学習者(language user/learner、従来の用語に従えば学習者)と熟達した言語ユーザー(従来の用語に従えば母語話者)の間で行われる相互行為で起こります。接触場面では、言語使用/学習者は言いたいことがうまく言えないという事態がしばしば起こります。その際に、そこまでの相互行為で共同主観性のゾーンを協働的に作り上げている対話相手の熟達ユーザーは、言語使用/学習者が言おうとしていることを言い当てたり(アシスタンス)、十分にうまく言えなかったことを適正な言い方に言い直したり(リキャスト)することがしばしばできます。そして、そうしたアシスタンスやリキャストを自身の発話として取り込んで言語使用/学習者は話を続けることができます。そこでは、話し相手が指示対象構築ということを代行しているわけです。そして、言語使用/学習者はそれを取り込んでいます。こうした現象が指示対象構築の代行とその取り込みです。
*以下を参照してください。
https://fshare.hiroshima-u.ac.jp/nextcloud/index.php/s/cEQK2HGBxHDT73g 

5.意識の貸与と指示対象構築の代行・取り込みの対比
 日常的な言語的相互行為では、基本的に平凡な内容が取り交わされます。日常的な言語的相互行為で認知的発達が促進されるようなことはまずありません。日常的な接触場面相互行為でも、同様です。そこで取り交わされることは平凡な内容です。
 そんな接触場面相互行為で指示対象構築の代行をしてもらえたとき、それは認知的発達でも何でもありません。ただ、「ああ、こんなときはそのように言えばいいのか」と合点して、それを取り込むだけです。そして、そうした契機を豊富に経験することが、言語使用/学習者における言語の習得や上達を促進することは容易に想像されます。
 このように、内容の学習は、認識の発達や認知的発達に向けて行われる学習です。それに対し、言語の学習は、端的に言うと、「こんなときにどのように話すか」の学習です。そこが、内容の学習と言語の学習のはっきりとした違いです。内容の学習との対比で言うと、言語の学習はいわばごく単純なものです。ただし、学習者の言語の言葉と目標言語の言葉の間の意味のズレの問題は、別途の問題として。



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