深呼吸 [ショートショート]
朝の通勤ラッシュで、道路は車の列が続いていた。私は信号待ちの交差点に立ち、顔を覆うようにマスクを直した。冬の冷たい空気にも関わらず、排気ガスの匂いが鼻を刺す。その中に溶け込むエンジン音が耳障りだ。
職場までの道は自転車で十五分程度だが、この通りだけは苦手だった。数えきれないほどの車が停車し、信号が変わるたびに、排気ガスが濃くなるように感じる。道路沿いの電柱には「健康のために歩こう」のポスターが貼られていた。薄汚れた文字がかすかに読める。
その日は特に疲れていた。前日の会議で上司からの注意を受け、なんとなく心が重かった。何も言い返せなかった自分に苛立ちを覚えつつ、ただ無言で過ごした時間が頭の中をぐるぐると巡っていた。
隣に立つ見知らぬ女性が声をかけてきた。「すごい車の量ですね。空気が悪くて嫌になりますね」と彼女はため息をつきながら言った。私は曖昧にうなずいた。
彼女はふと笑顔を浮かべ、「でも、こういう時こそ深呼吸するといいんですよ」と続けた。「え?」と私は驚いた表情をした。排気ガスの中で深呼吸するなんて、どう考えても逆効果に思えたからだ。
「深呼吸をすると、体はリラックスするんです。もちろん、息を止めたい気持ちは分かりますけどね」と彼女は屈託なく笑った。彼女の言葉には特別な説得力もなく、むしろその軽さが印象的だった。
信号が青に変わり、私たちはそれぞれの方向へ歩き出した。その間も彼女の言葉が頭に残っていた。次の交差点に差し掛かった時、私は思い切って深く息を吸い込んでみた。排気ガスの匂いは相変わらずだったが、不思議と体が少しだけ軽く感じられた。
アドバイスなんて、時にはこんなものかもしれない。完璧でなくても、ちょっとした言葉が心を動かすことがあるのだろう。家に帰ったら、昨日のことをもう少し冷静に考えてみようと思った。
その日はなんとなく、いつもより穏やかな気持ちで仕事場に向かうことができた。