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椿が花をつけ始めた もうずっと昔に お父さまが植え付けた椿だ 以前は庭師なども入ってもらって 綺麗に剪定してもらってたけれど いつの間にか それもされなくなってしまった 花が咲くと そのあたりがぽっと明るくて 冬でも暖かな気分があったと言うけれど わたしが物心つくころには 荒れ果てた 大きな木にもうすっかりなっていて 夏でも暗い影を作って 傍に寄るのも わたしは怖くて嫌だった そんな椿が花をつけ始めた 厳寒の冬には 花が少なくなるというのに 秋ごろから みっしりと花芽をつけ
Ⅰ 雨が降り止まない 暮らしは続いてゆく Ⅱ 窓ガラスについた無数の水滴で 風景が歪む 向かいの家の大屋根で 鴉が濡れそぼっている Ⅲ 打ちつける雨に紺色の レインコートの背中が霞んだ Ⅳ 庭先の水たまりでズック靴が 片足 泥にまみれている 靴の上で 雨蛙が一匹鳴いている Ⅴ 昨日開いた絵本のページに 今日雨が降った 窓辺で金髪のルーシーが泣いた Ⅵ 台風はもう行ってしまったの? 寝床の中で子どもが尋ねる 風が止んで 黄色い窓灯りに雨筋が 絹糸のように浮かび上がる
あの頃私は風を知らなかった 世界は今よりずっと健康で 私はどこへも行くことができた 私は空になり 海になり 波消し防波堤になり 外国航路の貨物船になり 鴎になり 波止場の小さなパブになり ギター弾きのギターになって 町から町へと旅して回った 思うまま 私はどこへも偏在できた 病院の大きな桜の木になって とある少女の命を見つめた 競り市場のある漁港の雉猫になって 漁を終えて帰ってくる漁船を迎えた あるいは重油の臭いのする鐵工所で 飛び散る火花となって石を焦がした 宵闇があた
網目から一つの言葉が 次の言葉を救い出す 彼ら、彼女らは喜び勇んで あたりを自由に跳ね回る 網目の向こうで言葉たちは メデューサに見入られた何ものかのように 硬く閉ざされて 身動き一つ取れなかった 救い出されたとたん 彼ら、彼女らは柔らかく スライムのようなものになり あたりをぴょんぴょん跳ね回るのだが 初めて大気に触れた遺跡のように 放っておくと 言葉はたちまち劣化してしまう そこでスライムに形を与え 色を与え 香りを与えて 幾たりか 一纏めにして 囲いのなかに 僕は彼
氷を浮かべたアイスティーにミルクを垂らすのは 邪道だろうか ゆっくりと ミルクが氷のあいだを グラスの底に沈んでゆくのを 掻き混ぜもせずに 僕はひたすら見つめていたい そのもやもやを 馬頭星雲と比較するのは 大袈裟にすぎると思われるだろうか? エルキュール・ポワロ風に言うならば 小さな灰色の脳細胞のなかで アイスティーに沈むミルクと馬頭星雲を 人は並べてみることができる 人の脳髄とは便利なもので あるいは あんたが思っているよりいい加減なもので 足元の小さな蟻一匹から まだ
永遠がもしあるとすれば あの人は 幾たびとなく生まれ変わり 今このときも誰かの隣で リュートを弾いているかもしれぬ ビルの屋上から足を投げ出し 足下の小さな諍いを 微笑みながら だまって眺めているかもしれぬ 永遠がもしあるとすれば あなたの隣で 悲しみに涙している人が もしかしたらあの人かもしれぬ 生まれたばかりで 左右の手に それぞれ絶望と希望を握りしめ 安らかに眠っているその赤子が もしかしたらあの人かもしれぬ 永遠がもしあるとすれば あの人は どこか 地平線のある広
ありふれた いつもの光景が やさしい視界に入ってくる 机の上の 昨日しまい忘れた詩集だの ゆうべ冷やしておいたミルクだの 牛乳瓶の野の花だの そういったものたちが 自由気ままに やさしい視界に入ってくる 朝から夜まで やさしい視界のシャッターを 僕は一日開け放しておく そうすると 向かいの足の悪い老人だの 今日花開いた野萱草だの 電線工事のクレーンだの そういったものもときどきは やさしい視界の中を過ぎる あまりに強い日差しのせいで 昼間は視界がいっぱいになり 僕はそっと
どうやって、ここまで歩いてきたのか 私は覚えていない もうずいぶんと若いころ 私はいろんな荷物を下ろしてしまった あの日 天使の顔をした可愛らしい者たちが 涼やかな声で 私を誘う歌を歌いながら 向こうから扉を開けてくれた 私は扉の前に担いでいた荷物をすべて下ろし 勇んで向こう側に足を踏み出した とたんに天使たちの声は止んで 荒れ果てた 蔓の絡みつく棘の森が 行手を遮っているばかり 私は騙されたのだろうか? 途方に暮れて振り返ると そこに出てきたはずの扉はなく 乾いてひび割
秋茜が急に増えたねと君が言う 田畑と山と川ばかりの古い町だ ゆっくりと 空の高みを旋回する鋭いものに 僕らはいつも見られている 長閑に声が降ってくる 心地良さそうに 二度の戦があって 名残を止めようとする意思がある 草原を踏み荒らした人馬の跡は 綺麗なものではなかったはずなのに あたりを染めた血の色のことも知らぬげに そこいらじゅうに 美しすぎる追想の標が建てられる その標を取り巻くように 血の色の 曼珠沙華が群れ咲くとしても 白に近い 淡藤色の著莪の花が 春には死者を悼む
乾いた廃墟になる前にその界隈は死んでいる 無論雨はその<町>にも降る そこを<町>と呼んでいいのなら 誰かが行く前に通りは閉鎖される 雑草が<道>を縁取って生い茂る それを<道>と呼んでいいのなら 彼らが去ったあとに 身なりのいいスーツ姿の男が来て その場所にボトル一本分の葡萄酒を注いだ 彼らは帰ってこなかった 葡萄酒のせいで 土地が干涸びてしまったから 弔いをする前から<町>はそこにはない 労いが必要なほどに <道>は何もしていない それでいいと男が言ったので 残った者
虫取りの朝 牛乳配達の瓶の音 朝顔の 花びらの上の朝露 その朝顔の観察日記 ラジオ体操の出席カード 水着を入れたビニールバッグ 駄菓子屋の前の氷旗 店先の竹床几 電信柱のミンミンゼミ アイスキャンデーと排気ガスの臭い ちゃぶ台の上の計算ドリル そうめんの赤い糸緑の糸 タオルケットと額に貼り付いた髪の毛 甲子園のサイレンと竹製のうちわ 網戸の向こうの入道雲 出さなかった暑中見舞い 出すつもりの残暑見舞い 扇風機になびく細い布地と 蚊取り線香の匂いと麦茶 りんご飴を照らす
蝶の通る道がある 蝶と妹と三人で 少年は愉快に駆け比べをする 道のそこここで白百合が 懸命に伸びをしてそれを見ている 白百合が祈りに似ているのは 八月だからだ 少年が複葉機に似ているのは 八月だからだ (決してドローンなんかでなく) 妹が前に出ようとすると 少年がそれを押し止める 狂気という名の短剣が 少年の懐で汗に濡れる 八月でさえなければ ⎯⎯ 駆け比べは終わったろうか 息を弾ませながら 少年は蝶と妹に笑顔を向ける 片袖で汗を拭いながら 妹も少年に笑顔を見せる 八月
四角錐と円柱のあいだで 鞭を振り回しながら 象使いが怒鳴っている おれには何の関係もない 男がそうおもっていると サーカス団の団長が近寄ってきて 囁くような声で男に言う すまないが 探しに行ってきてくれないか? 探すって、いったい何を? 象さ、もちろん いなくなってしまったんだ それはおれの役目じゃない、そう言いかけて 男は言葉を飲み込む ツィードのスーツを着込んだ紳士な団長の顔が あんまりローワン・アトキンソンだったので あんたには報酬にこれをやろう 団長が差し出した
墓じまいがあって また一つ 墓石のあった場所が開けていた 徐々に風通しがよくなってゆく墓地は まるで 誰かの記憶のようだとおもった 墓地は告解の場に似ている 声に出すわけでなし 跪くわけでもないけれど 墓地は告解の場に似ている こんな真夏の猛暑日に 手を合わせ 頭を垂れると 項が日に焼けてゆくのがわかる 首筋を汗が滴り落ちる それが悔恨かもしれないとおもう 私は墓場で鞭打たれるのだ 私自身に それ自体が詩のように ひとつひとつ 出会ったこともない人の墓碑銘を 声に出さずに