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#17 【マレーシア留学】「宗教におけるコミュニティと経済」

マレーシアで生きているほんとに多様な民族と関わることが多く、それらの対比あるいは、それらと日本の対比をすることで、得られる気づきが非常に多いのが、好奇心旺盛な私からしたらありがたい。

というわけで、自分が最近、参加したヒンドゥー教のイベントで得られた気づきをまとめる。

宗教におけるコミュニティと経済

2024年4月頃、ヒンドゥー教のお寺で無料で食事を提供するイベントをやっていた。

学内にはいくつかヒンドゥー教のお寺があり、ヒンドゥー教徒で賑わう。マレーシアはインド系(南側の由来の人が多いためタミル人、話す言語もタミル語である)が約1割ほどいて、街を歩いていればそんなに見かけることはないが、このイベントばかりは、「こんなにインド系いたのか」と驚かされるほど、インド系マレーシア人でごった返す。
とはいえ、こちらのイベントはヒンドゥー教徒のみに開かれているわけではなく、宗教関係なく誰でも参加できるようであったため、友人のお誘いで、ありがたくお邪魔させていただいた。

ヒンドゥー教は仏教との共通点を多く有しており、お祈りするときも両手を合わせる合掌の形式であり、目を閉じて静かに祈りを捧げる。

ヒンドゥー教は多神教なので、かなり多くの神が存在しており、お寺の中にも複数体の偶像が鎮座している。ヒンドゥー教徒でさえも全体の神様の数を把握していないらしい。だが、日本の八百万の神の精神とは異なり、どこかしこに神様がいるという考えではなく、純粋に神の数が多いようである。寺院によって、鎮座している仏像も違うようで、それぞれの家にも別々の神様がいるらしい。

始まりの神「Ganapathy」
なにかの初めや始まりにまつわる神様で、この寺院ではこの神からお祈りする

また、輪廻と解脱のために祈り、修行する点も仏教と類似している。
輪廻は死後に別の生き物に生まれ変わることを意味していて、ヒンドゥー教では、生まれ変わる生き物は「カルマ」という行いの結果に左右されるそうである。

仏教徒の相違点といえば、「カースト制度」で、仏教は平等を重んじているが、ヒンドゥー教のカースト制度では、生まれつき定めらた身分に応じた階級が存在する。良い行いをすれば高いカーストや幸せな生き物に、悪い行いをすれば低いカーストや苦しい生き物に生まれ変わるとのことらしい。

そして、ヒンドゥー教徒の祈りの目的は、この輪廻から解脱することであり、解脱とは、生と死の輪廻から抜け出し、自由と幸福の境地に達することであるようだ。解脱するためには、カルマを消滅させる必要があり、そのために、神への信仰や礼拝、瞑想や修行などが必要となっている。


一連のお祈りを終えた後、食事をいただくために席についた。以下がその様子である。

食事にありつく人々。これは会場の一部の写真で、他の場所には広いテーブル席が用意されており、そこでも食事を取っている人々がたくさんいる。
提供された食事。バナナの葉にスパイスの効いたカレーと副菜が並ぶ。

この写真の料理が、参加者ざっと200人以上(概算)に対して、無料で配布されるのである。緑の葉っぱはバナナの葉であり、この料理はその名の通り「バナナリーフ」と呼ばれ、インド系マレーシア料理を代表する料理である。普通に屋台で食べても400円以上は確実にするものだ。

普通に考えて大赤字である。
なんでこんなことができるのか?このイベントの意味はなにか?
と考えたとき、今回のタイトル「宗教におけるコミュニティと経済」に結びつく納得のいく解答が自分の中で得られた。

まず、無料でこのイベントが開かれば多くの人物がやってくるのは確実であろう。大学外の寺院であれば、友人や親戚、地域の人が集まって、大きな集会の場として機能する。その集会を通じて、同じ宗教を共有する人々は同じ卓をかこんで、食事をすることにより会話が生まれ、そこから転じて人々のつながりが生まれる。

人々の交流が促進され、人々はつながりによる幸せを感じることができるわけである。寺院でイベントが行われているため、お祈りも同時に行なわれ、信仰心を高める機会にもつながっている。人々はほとんど無意識のうちに、同じ宗教を共有するもの同士のつながりを強め、そこからヒンドゥー教の帰属意識が、このつながりや連帯感のようなものから形成される。すなわち、コミュニティの強化が食事と交流と祈りを通じて行なわれるというわけだ。

おもろいことにどんな宗教を見ても、このような同じ宗教の人々が集まり、ときには食事をする定期イベントが盛り込まれている。人々は生きていくながらで何度も何度もそのイベントを経験しているため、イベントを経験するたびに、同じ宗教コミュニティ同士でのつながりを深め、無意識的に帰属意識が刷り込まれているわけである。

そして、この帰属意識の刷り込みが、寄付にも繋がってくる。宗教による恩恵を受けたと感じれば、それに対してお金を渡そうという気持ちが芽生えるのはごく自然なことだ。このような定期的なイベントを通じて、コミュニティによる安心感と幸せを感じ、寄付をする機会と動機を作り出して、得られた寄付を使って再度イベントとして、教徒に還元するという循環が起こっているのである。

これは宗教というコミュニティが何千年も続いてきたもっとも大きな理由だと思う。持続的な寄付による収入が確保されるシステムが構築されており、なおかつそれがコミュニティ内で公正に分配されるため(とりわけ、弱者救済を掲げている宗教は多く、貧困層などの社会的弱者に多く分配される印象がある)、宗教にとっても、宗教を信仰している人にとってもwin-winの関係である。このコミュニティ内における資源の循環を基とした、持続的な運営が、宗教における経済なのである。

また、コミュニティについて言えば、大きな宗教であれば、イベントの日が祝日となっていることは先も述べたが、例えばイスラム教国家では、ラマダンという断食の期間が終わった後の祭典である「ハリラヤ」が祝日になっていることが多い。このイベントでは人々は親戚や家族の人、地域の人を呼んで、住み開きのようなことをする家が多いので、人々が集まり交流する土壌ができている。もともとは宗教的な意味合いのあったこのイベントだが、毎年のカレンダーにイベントが載っていて、定期的にそのイベントがやってくることがもうすでに文化として根付いているので、人々はそのまま無意識的にイベントに参加して交流を深めたり、信仰心を深めたりしているのである。

この定期イベントを文化にまで成し遂げれば、コミュニティの密度や持続性という観点でみれば最強であろう。コミュニティ内で独自カレンダーをつくり、この時期は、みんなで集まってこれをするものという文化の刷り込みを参加者に対して行うことができたら、コミュニティ活性化としては最高なのではないかと感じた。


以上の考察を基に、対比的に日本を見てみると、日本人は無宗教の人が多いためか、そもそもこのコミュニティと経済の循環のシステムがないので、人々とつながる機会が少なかったり、孤独を感じる人が多かったりしているのかもなと、ふと感じた。
(宗教の勧誘をしているわけではないし、無宗教を否定しているわけではない。)

だからこそ、宗教の循環の経済と宗教コミュニティ運営は、コミュニティを強化し、コミュニティを持続的にするという目的であれば、かなり日本の地域コミュニティとの相性が良いのではないかと考えた。

例えば、日本の田舎では宗教と似た経済システムとコミュニティ運営が町内レベルで行なわれているところもあるが、特につながりの希薄化が指摘されている都市でやる意味が大きいだろう。

日本の大都市こそ、コミュニティと循環の経済で、助け合いの集落文化を根ざすことが、人々のつながりと幸福につながるのではないかと無責任ながら思った。


今回も読んでいただきありがとうございます!!

参考資料


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