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#2【物理世界と概念世界の流浪手記】世界の単純な構造、論理。

この世界は抽象度をあげれば、論理体系の集合体である。それは人間が、論理的な脳構造を持ち、論理の道具である言葉に支配されているからである。

今回伝えたいことは、すべてこの二文で表現できる。少々難解で意味がわからない。少しづつ紐解いていこうと思う。

つい最近、「はじめての人類学」という奥野克巳さんの本を拝見した。非常に好奇心を刺激され、人間や世界に対する理解が深まったので、ぜひ読んでほしい。

この本では、世界の辺境の地に住む民族に実際にフィールドワークをして、生活をともにすることで人類の理解を深めてきた数人の人類学者の経歴や成果がまとめられている。その中で、遅れた文明で生活していると判断されがちな未開人の民族の思考と、高度化した文明の中で生を営む我々の科学的思考は本質的には同質で、どちらも優劣がつけられないという話が出てきた。

本考察はその話から着想を得て、超個人的に体系化したものである。つまり、以降の話は自分の頭の中でテキトーに構成したイデオロギーなので、どこか信頼できる文献を参照していないです。ご容赦ください。

アニミズム、宗教、そして科学

時計の針を巻き戻し、まだ多くの人類が狩猟採集を営んでいた時代に戻るとしよう。

そこでは、今と比べて圧倒的に人の数も少なかったため、自然と人間の距離は近く、両者は限りなく共生関係に近かったと想像できる。
その時点では、科学というものは存在せず、人間は身の回りの現象を理解するときに、科学以外の視点を使うこととなる。この時代、科学の代わりに使われた視点がアニミズムである。アニミズムとは、人間、動物、植物、天体などの自然の万物に霊魂が宿るという思想である。

突如降り出す雨、吹きあれる嵐、吐血や痙攣。
眼の前の異質な自然現象について、彼らは理解したかった。人間はありとあらゆるものに意味を見出そうとする性質があり、意味がわからなかったり、理解できない事象は恐怖の対象である。知らなければ自身の生存が脅かされる可能性がある。その知ることにより危険を回避する性質に対応するのが好奇心だと考察している。知ろうとする欲望、理解しようとする欲望、そしてそれを伝えたり説明したりする欲望が好奇心であり、それがなければ人間は無知ゆえに、命の危険にさらされ続けることになる。

話を戻すと、太古の人間は自身の生存を脅かす自然現象を理解するために、ある程度の論理が必要であった。「この現象はこうで、この現象はこのために生まれている」という論理の体系を作り上げる際に出てきたのが、自然の中の精霊や呪い、神様などの概念である。そのような存在を作り上げ、論理的に仕立て上げたことで、現象を理解し、安心感をもたらそうとしたのである。
「水の精霊が怒っているから、雨が降り出した。鎮めるためには、生贄や供物が必要だ。」
「人間が急に暴れ出した、何かきっと悪い呪いが憑いているかもしれない。お祓いをしてもらおう。」
などのようである。このような例が複数集まり、原始的な論理体系アニミズムは作り上げられていった。

続いて、宗教についてだが、人間の数が増え、次第に人類が自然との共生関係から外れていき、人間中心の考えになって生まれたものが宗教であると考える。自然の精霊というよりは、人間が産み出した神様が主役であり、その神によって、世界を論理的に解釈しようとしたのである。アニミズムの論理が、人間が増え、時間が経過したことにより蓄積された知識や言葉によって、より高度化・複雑化した論理の体系になっているのが、宗教であるとも言える。

最後に科学であるが、これが最も論理が複雑化された論理体系であり、現在最も多くの信者がいる宗教である。あらゆる事象において、科学という解釈を用いると、なんか合理的に説明がつくことから、人間が好奇心を満たし、命の危険を脅かさない、最も安心感がおける存在として科学が崇高な存在であるかのように据えられている。

まとめると、アニミズムも、宗教も、科学も、どれもすべて、「こうだからこうなる」というただの解釈を整理して、まとめて、発展させたものに過ぎない。すなわちどれも論理体系である。それぞれの違いはどれだけ高度化・複雑化されているか、またはどれだけ合理的・現実的かについてのみであり、根本的な論理の思考法についてはどれも同じであり、優劣は存在しない。
この優劣が存在しないというのがミソだと思っていて、哲学者のニーチェ的に表現するならば「事実は存在しない。ひとつの解釈である。」ということである。すべて、人間が世界の構造を解釈するために用いた論理体系であり、どれも事実にはなり得ない。

昨今、科学が重要視されているが、科学という単一的な論理体系に従うことは、その他の論理体系を排他的に捉えて軽視する行為に近い。論理体系を平等に扱って初めて、自由な思考と解釈が解き放たれるのでないかと思っている

言葉と論理

そして、これらのような論理体系が生まれた理由としては、人間が論理的な動物であるからである。もう少し具体的に言うと、人間は言葉という論理的な道具を使って意思伝達をするからである。
前回の「#1 まえがき、言葉」でも論考した通り、言葉は概念をまとめ上げる輪郭のような役割を果たす。言葉があてがわれたものは意味を有する。
「この言葉はこの概念を表して、この言葉はあの概念を表す。」というように、言葉と対象の間に関係を生じさせ、論理を作り上げる。この関係が論理の最小構成単位であり、その関係によって生じた論理を通してでしか、人間は言語的コミュニケーションが図れない。

昔の人は、自身の理解を超えた恐怖あるいは神秘の存在(概念)を言葉によって明確化し、精霊や神を実体があるかのように切り取りだしたのである。生み出された言葉の数々が時間の経過と共に蓄積され、それらを使ってレゴブロックのように、今手元にあるブロックを組み合わせ、新たな一つの形を手探りで作り上げていったことで、高度化された論理体系が生まれていった。

実生活と論理思考

さて、この世界を単純に論理体系であると位置づけた思想を論理思考やら論理主義とでも呼ぶとして、論理思考は実生活を考えていく上で我々にどんな恩恵をもたらしてくれるだろうか。

ニューロダイバーシティと論理

ニューロダイバーシティという言葉をご存知だろうか。「ニューロ」は「神経」、「ダイバーシティ」は「多様性」を意味する。読んで字のごとく、人の脳の構造において、脳の神経回路は人によって違うので、それによる人間の特性の違いを多様性として認め合おうという概念である。

経産省のホームページでは以下のように述べられている。

「脳や神経、それに由来する個人レベルでの様々な特性の違いを多様性と捉えて相互に尊重し、それらの違いを社会の中で活かしていこう」という考え方であり、特に、自閉スペクトラム症、注意欠如・多動症、学習障害といった発達障害において生じる現象を、能力の欠如や優劣ではなく、『人間のゲノムの自然で正常な変異』として捉える概念でもあります。

ニューロダイバーシティの推進について (METI/経済産業省)

脳の専門でもなんでもないので、確かなことは言えないが、神経回路はとても論理的であると考えている。外界からの刺激が入り、電気信号が神経回路を通ってそれに対応するアウトプットを引き起こすのだとしたら、「こういう入力がきたら、こう反応する」のような論理的で、プログラミングのコードのようなプロセスを経ると理解できる。
その「こういう入力」に対して、どの神経経路を通って、「こう反応する」かがニューロダイバーシティ的には、人によってそもそもバラバラなのだから、それぞれが生きている人間の論理世界がそもそもバラバラであると捉えられる

私は、何度かいわゆる、自閉症(ASD)の人と関わったことがあるのだが、彼らは突然叫んだり、突然走り出したりする。自身の論理構造だけでそれを解釈しようとするならば、理解できない行動である。しかし、どうやらそれは喜びや楽しさの表現であり、彼らなりの反応であるそうだ。要するに、自分と違う論理構造を持つだけなのである。そこに優劣はない。人によって神経回路が違うから「こういうことがあったら、こう反応する」が違うのは当たり前である。もし自分のありきたりの論理構造だけで生きていれば、相手の行動が理解できず訝しがるだろう。その状態では論理の解釈の幅が狭いのではないかと思う。みんな違う論理の構造を持つことを前提として認め、あらゆる人と関わってその論理構造を理解し、自身の論理の解釈を広げる。すなわち、「こういうことがあったら、こう反応する」の「反応」に向かう論理の選択肢がひとつでなく、多数の解釈ができることを認識することが、多様性理解の第一歩かも知れない。

私は最近実践できていないが、まったく自分と異なる立場や年齢、人種、職業など何でもいいが、とにかく自分と違う論理構造を持つ集団のところにDIVEして、アウェイを体験し、自身との差異を知って、論理の解釈を広げる経験を人生の中でできるだけ多く持つことが、DIVERSITYを考えるうえで必要な実践だと思っている。

他にも、変な人とのところに行くと良いと思う。変な人を変だと思うことは、自分が変じゃないと思っていることの裏返しだ。自身の論理体系のみを肯定しないために、論理体系が独特だなと自分が思っている人のところに行って対話をすることで、論理の解釈が増え、単一だった論理の矢印の境界が曖昧になり、多様な解釈ができるようになる。その曖昧さを肯定する経験を繰り返していくことも重要な実践だと考えている。


想像力と論理

私はアートを見るために、よく美術館に行く。
しかも、美術館には半日近く滞在することもある。

アートの何が面白いの?意味わかんない?が率直な感想だろう。
私も美術館にいって、知的にわくわくはするが、「あああ!楽しかったぁ!」と思ったことは一度もない。
割と私は、アートをビジネスマンのような理由で見に行っている。

アートって「非現実の論理体系」ではないかと思っている。
よくアートと科学は対比的に捉えられることがあるが、それは前者が非現実の論理体系で成り立っているものが多いのに対して、後者が現実的で合理的な論理体系で成り立っていると捉えられがちだからであろう。

故に、アート作品は科学的だったり、現実的な視点でみると意味がわからないものが多い。それもそのはずで、アートはアーティストの頭の中で、構成された独自の論理体系に基づいて、アートを作成している側面がある。
しかも、それが自分の想像できる範囲の論理を超えてくるものが多いから理解はしづらい。

それでも、説明を読んだり、絵をじっくり眺めたりすることで徐々にその論理の構造が見えたとき、「この人はこういう観点でこのアートを作ったのか」ということを理解でき、論理の解釈が広がる。
美術館で、たくさんの非現実的な論理体系をさらしつづけることで、自分の単調だった「こうなれば、こうする」という論理の解釈の幅が広がり、「こうする」のアウトプットの部分の選択肢が増えていく。それは思考の可能性の幅が増えるとも捉えられるため、自由な思考と解釈が許されるようになる。この自由な解釈が想像性の源であり、美術館は想像力を鍛錬する最高の場である。要するに、私は思考のトレーニングのために、「変な論理の宝庫」である美術館に行っているとも言える。

トレーニングを積めば、解説を読まなくても、なんとなくアーティストの表現したかったことがわかったりする瞬間が増える。そして、「こんな考え方もあるのか!!」と、あらゆる考えに対して、寛容になりやすくなる。寛容さは多様性を考える上でも重要であると言えるだろう。誰に対しても寛容になれれば、誰かを排除する必要もない。

そのうち、美術館を舞台にした多様性理解のワークショップでも作ろうかと思う。参加者もあらゆるバックグラウンドを持った人を集めて、アートの多様な解釈を共有するカオスの機会は想像性を刺激する上でも意義はありそうだ。

世界のすべては論理からなる

さて、冒頭の二文に戻ろう。
脳構造や宗教、言葉などを通じて、世界が論理で構成されていることを説いてきたわけだが、「いくらなんでも世界のすべてが「論理」から成り立っているわけではないだろうよ。」と思う人もいるだろう。けど、よく考えてみると、

「この世のすべては論理から成り立っていない」⇒
「論理では語れない何か(概念)が世の中にある」

この主張自体、非常に論理的である。
論理の外の概念を生み出そうとしている時点で、その行為自体が、新たな言葉を生みだす過程とほとんど同じであり、言葉の論理の特質上、これは至極論理的である。

つまり、この世のすべては論理からなりたっていないという疑いの主張が論理的である時点で、この世のすべては論理からなると仮定できる。

哲学者デカルトの方法的懐疑(ところん疑ってみる手法)を使って考えてみても、どれだけ疑って別の主張をしても、その主張が言葉と脳に支配された論理的なものである時点で、この論はある程度の整合性が保証できるといえるかもしれない。

ゆえに、私は思う。
この世界は抽象度をあげれば、論理体系の集合体である。それは人間が、論理的な脳構造を持ち、論理の道具である言葉に支配されているからである。



とまあ、今回も深夜テンションで書きなぐった乱文の極みなわけで、論理、論理といいつつ、論理が破綻した文章を書いたことを申し訳なく思う。いろいろ偉そうなことを言っているが、これもただの解釈であり、なんか自分なりに世界が論理でできてるなという閃きを得たから、共有したくてうずうずした感情の産物である。「こういう考えもあるのか、ふーん。」ぐらいで受け取っていただければ幸いだ。ここまで我慢して、お付き合い頂いた方、本当にありがとうございました。何かの気づきになれば嬉しいです。

今回も前回同様、個人的に好きな言葉で擱筆しようと思う。
自己分析に悩める就活生になんとなく響けばいいなと思う。

平野啓一郎
「たった1つの本当の自分など存在しない。裏返して言うならば、対人関係ごとに見せる複数の顔が、すべて本当の自分である。」

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