死の講義-橋爪大三郎-
先輩が勧めていたこの本を読んだ。
最終章で思わず涙が出てしまった。
そうか、自分は相対主義に苦しんでいたのかもしれないなと思った。
自分の「信」を表明する。
でも必ず反論や異論はある。
その反論や異論も吟味した上で、その「信」なのか?と問われると、そこに明確な理由や合理性がなかったりする。
だから、「信」なんだけど。
明確な理由や合理性があったら「信」と呼ばないでしょ。
そうすると、だとしたら受け入れられませんねとなる。
そして、合理性のある所でのみ歩みを進めることになる。
それだとつまんないんだよ。
自分で選択して、これを信じると生きて
成功しても失敗しても、そう生きて死ねばそれでいいんだ。
自分の死に方を考えることで、生き方も変わる。
今まで考えたこともないアプローチだったので、とても刺激を受けて一気に読んでしまった。
以下最終章から引用
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自分で決めて、そのように生きると、
その通りに死んだことになる
自分で思うように決めて、思うように死ねる、
ということだ。
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マルクス主義が退潮し、いまはポストモダンが主流だ。
でも、世の中は元気がない。
ポストモダンの本質は、相対主義だからだ。
相対主義は、人びとの足を引っ張る。
あなたの生き方には何の根拠もありませんよ。
高みに立って、偉そうにそう言う。
でも、相対主義にこそ、何の根拠もない。
相対主義からは、何も生まれない。
まじめに生きることの価値を、復権しよう
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いまの社会は、科学の時代、合理主義の時代である。
人びとは社会のルールを守り、科学を信じて生きている。
常識ある合理主義者だ。
でも、それだけではすまないところに来ている
なぜか
それでは、十分に生きていることにはならないからだ。
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生きるとは、何かを大事にすることである(価値)。
そして、
それを言葉で考え、言葉でわかることである(意味)。
価値と意味は、一人ひとりの生き方である。
学校では教わらない。
理性からは導かれない。
人びとに、価値や意味を伝えるのは、家族の役割。
共同体の役割。そして、宗教の役割だ。
近代になると、家族が孤立し、共同体がばらばらになる。
宗教がいくつも並立する。
そこで、相対主義になる。
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個人が、自分の生き方を選択する。
自分なりの価値や意味で、自分の生き方を基礎づける。
それが、相対主義でできるはずはない。
相対主義は、知識である。
あれもこれも、ありますね。知っていますとも。
知識なら、学校で習うことができる。
情報として、ネットで探すこともできる。
でも、自分の生き方を選択するのは、知識ではない。
知識を超えたことがらである。
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「選択」は、不思議な出来事だ。
選択する前は、どれでもよかった。
選択した後は、ひとつに決まっている。
これが、選択する、である。
誰もが、選択しながら生きている。
なぜ、それを選択するのか。理由はあるだろう。
でも、理由からストレートに選択が出てくるのなら、
それは選択でさえない。
ほかの選択肢があるから、迷う。
迷ったままでは困るから決める、のである。
つまり、決めるけれども、実は、理由ははっきりしない。
そして、決めることで現実が開けていく。
曲がり角を曲がるように。
そして、新しい自分になる。
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自分を自分にしている、選択の積み重ねは、
自分の「運命」ではないのか。
運命と言うのは、自分で決めているようでいて、
実は、思い通りに決めているわけではないからだ。
決めているのに、決めていない。
人間のやることには、こうしたことがままある。
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