「成長」することに疲れたから別の仕方を考えた
思想家達が使う「のりこえる」という言葉に最近惹かれている。
というのは、ここ数年「成長」という言葉に疲れていて、もう心を燃やすようなことはしたくないとまで思うこともあって、ただ、やっぱり本を読んだり、尊敬する人と話したりすると刺激されて心が動く自分もいる。
なので、「成長」に変わる言葉がほしいのかもしれないと思うようになっていた。
「成長」という言葉もいい言葉と思っていると前置きして、
「成長」という言葉の呪縛を「のりこえる」という言葉と比較してみたい
まだ、メモ程度で荒削り。いずれ比較表にしたいな。
■年齢の呪縛
20歳だったらこれくらいできていないととか
40歳なのにこの程度で成長してないなとか
この歳なのにこんなこともできていないと自分を裁いてしまう
■短期間の呪縛
短期に成長することが価値と考えてしまうことがある
この1年で成長できてないとか
3年もやってるのにこの程度とか
■孤独の呪縛
成長は自分が○○できるようになった
〇〇が身についたなど
主語が「自分」
■インプットの呪縛
身につけることも削ぎ落とすことも成長だと思うが、
基本的に成長というと「インプット」のイメージがつよい
上記の通り身につける、吸収する(インプット)のイメージ
特に独身の頃よりインプットの時間が取れなくなっていて、このままじゃヤバいんじゃないかと焦ることがある。
■右肩上りの呪縛
成長というと、イメージとして、常に右肩上りの線をイメージする。前年比、昨日の自分よりどうかなど
■成果の呪縛
成果がないと成長を実感できない。
結果としての「成長」のはずが、
目的や手段化してしまい苦しむことになる
一方で「のりこえる」という言葉のイメージとしては、
まず年齢は関係ない。
何歳なのにのりこえられてないのかというように思わない。
短期でのりこえることが価値ではない
どちらかといえば、挑戦し続けている姿が価値とも言える。
自分だけでのりこえなくてよい
ひとりでのりこえるのではなく、仲間とのりこえたっていい
インプットというよりはアウトプットのイメージ
のりこえるべき対象に対して、自分や仲間の力を結集してぶつけてのりこえる
右肩上りでなくてよい
のりこえるためにその場に留まって挑戦しつづけていい
のりこえるのは成果があればもちろんそれに越したことはないが
どちらかといえば、挑み続けることが価値のイメージ
とりあえずアウトプット
もう少し言葉を磨きたい。
この本に刺激を受けて
「戦後文学をその最低の鞍部においてこえてはならない」
思想でも文学でも理論でも、その弱い所、欠点を探して批判することはかんたんにできるけれども、その思想なり文学なり理論なりについていちばん高い所、すぐれた所を把握して、そのうえでのりこえるのでなければ、本当にのりこえつくしたことにはならない、ということですね。