第4回 指揮者という夢
こんなに笑える書き出しだったっけ? と思いながら、徐々に記憶がよみがってきました。
岩城宏之『森のうた――山本直純との藝大青春記』(河出文庫)——朝日文庫、講談社文庫に続いて、今回が3度目の文庫化です。
「藝大のタイコの二年生だった」という“ぼく”が、著者の岩城さん。1932年東京生まれ、東京藝術大学在学中にNHK交響楽団副指揮者になり、2年後の1956年にN響を指揮して24歳でデビューします。
その“ぼく”の前に現れるのが、やたらに生っちろいハンペン顔、手が出ないようなダブダブの上着を着て、食堂の隅からこちらへ向かって走ってくるオランウータンみたいな男です。威勢よく「イヨーッ」と大声で、土建屋まがいの挨拶を誰かれかまわず繰り返します。
「なんだ、こいつ?」とあきれていると、「すごい才能の作曲科一年生」なのだと紹介されます。
藝大の音楽学部には、独特のヒエラルキーがあって、最上位に作曲科、指揮科の少数エリート民族がいて、これにピアノ科、弦楽器科が続いて先進民族をなし、あとは人数の多い声楽科があり、楽理科、邦楽科ときて、いちばん下に管・打楽器科があって、タイコ屋はその劣勢民族中の最下層だという、ヒガミ根性が“ぼく”にはありました。
そこへ「イヨーッ」が現われ、「岩城サン、オレのことをナオズミっていってよ。ナオは不正直のジキ、ズミは不純のジュンです」と初対面の挨拶をするのです。こうして「山本直純との藝大青春記」は始まります。
岩城さんがタイコ屋になるまでの紆余曲折もケッサクですが、何につけても大らかな「よき時代」の大学(しかも藝大!)で、1年間好き勝手をやっていた“ぼく”の前に、入りたての一年生のくせに、こんな自信満々なヤツは想像を絶する、というナオズミが出現します。
後年、ともに日本を代表する指揮者になるわけですが、最初からウマが合うというか、惹かれ合うものがあったのでしょう。さっそく喫茶店のはしごをしながら、音楽談議に花を咲かせます。
父親が戦前の有名な作曲家・指揮者、母親がピアニストという家庭に育ったナオズミは、英才教育を受けた音楽一家の超エリート。「ピアノはパラパラ弾けるし、バイオリンでもトランペットでも、何でもござれ」のサラブレッド。
しばらく話すうちに、「オメェ、どんな風に音楽をやってきたんだ?」「何となくオメェの音楽教育は貧しそうだから、これ読むと何かの参考になるかもしれねぇヨ」などと言いたい放題で、いつの間にか上級生が聞き役に――。
そして2、3日後に見せられたのが、古ぼけたぶ厚い皮表紙の「オレの小学校二年のときの日記」だったというのです。
中身は読んで確かめていただくのが何よりですが、かの指揮者の山田一雄先生に、ベートーベン交響曲第1番の講義を直々に受け、来週までに「第一楽章の最後までピアノで弾けるようにしておいで」と言われ、「いつしようけんめいべんきやうしやう」と結ばれます。
ナオズミの「天才的な耳」にも驚嘆します。ただ、そのナオズミも、藝大の試験には一度失敗しています。自伝『紅いタキシード』(山本直純、東京書籍)によると、変声期にぶつかった直純さんは、歌の試験で手痛いしくじりを演じます。
声が出ない! 「シオカラ声を振り絞ってひどい歌を無理やり歌った」ものの、ここではじめての大挫折を味わいます。
やがて指揮者の渡邉暁雄(あけお)先生に、直純さん、岩城さんの二人が聴音テストを受けます。
先生がゆっくりうなずいて、もう一度、違う不協和音で試します。またもやダミ声が、こともなげに正解を連発。
“ぼく”の結果は推して知るべし。すっかり落ち込んでしまいます。
「あとがき」で岩城さんは、こう述べます。
こうして始まる二人のドラマは、一日でも早く“棒が振りたい”——ともかくオーケストラの指揮がしたくて、したくて仕方がない――という情熱とエネルギーがほとばしる涙と笑いの青春物語です。
顔を合わせれば、“棒の振り方”をめぐって真剣にぶつかり、しばしば壮絶な議論——何時間も大声を張り上げてやりあう、けなしあう、つまりはケンカ――になります。
探求心、向上心の火の玉になった2人組が、「上野の杜(もり)」に巻き起こす、縦横無尽、疾風怒濤の音楽修行。失恋あり、大学祭でのバカ騒ぎあり、ただでコンサートにモグりこむ、カラヤンの練習場にこっそり忍び入る、などなど、奔放な逸話が満載ですが、夢に向かって突き進む真っすぐな眼差しと、ひたすらな意思が、この破天荒を貫く心棒です。
以前はそれほど意識しませんでしたが、直純さんへの対抗心を燃やしつつ、真摯に学び、問いかけ、考え抜いていく岩城さんの批評的な眼力には目を見張ります。これはという場面、言葉を記憶に刻みつけ、それを見事に再現していく著者の筆力にも驚かされます。
カラヤンの「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」を聞いたナオズミが、「ヨー、すごいテクニックをしてやがるな。出だしのタタキなんか、完璧だぜ」と言ったひと言から、齋藤秀雄氏の指導の極意、「タタキ」について岩城さんが解説します。齋藤秀雄といえば、小澤征爾、山本直純らの師であり、やがては岩城さんも門下に入る指揮者です。
「タタキ」とは、指揮棒で空間の一点を打つテクニックであり、「齋藤理論」のキーワードです。これを説明するなんとも微妙な言いまわしに、岩城さんらしさがにじみます。
さらに驚いたのは、終章「森の歌」の記述です。『森のうた』という本のタイトルは、てっきり「上野の杜」が舞台だから、と思い込んでいましたが、この物語のクライマックスは、ショスタコーヴィッチ作曲のオラトリオ「森の歌」を、岩城、山本が結成した学生オーケストラ「学響」で演奏する(直純さんが指揮をする)という場面でした。それをすっかり忘れていました。
そして亀山郁夫さんの、芸術家の苦闘の日々を描いた『ショスタコーヴィチ――引き裂かれた栄光』(岩波書店、2018年)を読んだいまでは、この終章の印象もまた異なります。「森の歌」がどういう由来の作品で、いかなる曲想を持ち、それがこの日、藝大の学生たちによってどのように演奏され、それを聴衆がどう聴いたか?
そのライブの再現を、オーケストラの一員でありながら、同時に、驚くほどにクールに、多面的に描いてみせる著者の目に、指揮者の「脳内」――いや、まさに「身体」を感じます。この本の圧巻中の圧巻です。
「森の歌」をショスタコーヴィッチが完成させるのは1949年8月で、初演は同年11月。したがって、1953年の秋、これを日本で演奏するのは画期的な出来事です(日本初演は同年6月、京都)。
藝大「学響」の秋の特別演奏会は、これが2回目で、前年は上級生である岩城さんが指揮をし、今年は「ナオズミに譲る」ことになりました。
ショスタコーヴィッチはまぎれもなく20世紀を代表する偉大な作曲家の一人です。ただ、1948年の有名な「ジダーノフ批判(ソ連共産党中央委員会による芸術統制)」以後は、スターリン体制下の社会主義国家で、作曲活動を続けるためには、さまざまな妥協を余儀なくされました。
亀山郁夫さんは、こう記します。
岩城さんもこう言います。
評判が評判を呼び、とんでもない数の聴衆が押しかけます。明治期に建てられた奏楽堂に、100人近くのオケ、200人以上ものコーラスが一度にのっかると、ステージの床が抜けるのではないか、という懸念にくわえ、超満員の客席です。
ギュウギュウに詰め込んでも、外にはまだ長い行列が続きます。その時、ナオズミの大声が響きます。「オオ、いいじゃねーか。二回やったるで!」。
緊張と興奮のステージが始まります。
ナオズミの表情を追いながら、“ぼく”自身の揺れ動く心を見つめ、躍動する文章が続きます。
ここからのライブの描写は疾走します。映像が目に浮かび、音が聞こえてくる、そして堂内の熱気が押し寄せてくるような再現です。
「森の歌」という曲の流れを語り尽くし、指揮するナオズミの高ぶり、見守る“ぼく”の感動、そして「本心はスターリンへのくやしいゴマスリであったにせよ」、見事に構成され、「さすがにショスタコーヴィッチ」と唸らせる音楽の強さ、深さ、魅力。
バスが、テノールが、コーラスが歌い上げ、指揮台の上でナオズミが暴れ狂い、自分がそれを見届けている――この日、超満員の奏楽堂で一体となって奏でられた「森のうた」の臨場感が、余すところなく活写されます。
“ぼく”はこの日、藝大の宝物ともいえる「とっておきのシンバル」を借り出していました。
これが『森のうた』の物語です。青春を駆け抜けた岩城さんと直純さんの「祭り」。
読む前でも読んでからでも「森の歌」を聞いておくと(YouTubeでもなんでも)、このライブの場面がいっそう際立つと思います。ショスタコーヴィッチについての予備知識があれば、なおのこと――。
これを書いた岩城さんに、「ブラボー!」を言う機会がなかったなぁ……。本を閉じながら、そんな心残りがめざめました。