まだまだ心は柔らかくて傷つきやすいけれど、一緒にいくよ
いつも心のどこかに「大丈夫だと思うけど、またああなってしまうかもしれない」不安がある。
ああなってしまうが指すのは、私の場合、適応障害やうつ症状を発症したその一連のすべてなのだが、眠りが浅かったり、誰かの何気ない言葉でひどく傷ついてしまったり、不安に駆られたり、ふと消えたくなってしまったりすると、「ここで踏ん張らなかったら、何かがふつりと切れてしまって、何もできなくなってしまいそう」な自分に戻りそうな不安がいつだってすぐ側にある。
心が不安定な自覚がある時は、とにかく早く家に帰って寝ることにしている。仕事でまだ家に帰れないような時は、人と接するのを避けてるかもしれない。私は結構、人から発せられる言葉や態度や空気感やらそういったものを感じやすいようなので、ピリピリしてる人や言葉がきつい人、マイナスな言葉や愚痴が多い人には近寄らないように気をつけていたりする。自分の精神の手綱を握力が弱まっている中で必死に握っている時にダメージを受けてしまったら、立ち上がれなくなりそうな怖さがあるからだ。
正直なところ、ここまで不安が一緒についてくるなんて思っていなかった。症状が快方に向かって、なんとかまた働けるようになって、社内だけでなく社外の人とも接するようになって、気がつけば9か月が過ぎていた。前の職場では3か月で症状が出始めて次第に悪化していったので、その時と比較したら単純に「もう大丈夫」なはずなのだ。私はもっと安心していいはずで、今の生活を続けていけるだろうことに不安を覚えなくていいはずなのだ。
でも、怖いし不安だし、いつもギリギリのところを踏ん張ってなんとか乗り切って今の自分を保っている感じがある。いったいあとどれだけ繰り返したら、この状態から抜け出せるのだろう。手放しに「私はもう大丈夫」と思えるのだろう。早くそうなりたくて、でもまだなれそうになくて、日々を積み重ねてそれを自信にしていくしかないのかもしれないと思っている。自信は何かの拍子にすぐにぽきりと折れてしまうので、植物の成長を支える支柱のようなものが私にも必要なのではないかと思い始めている。
単純なわたしは支柱……恋人が欲しい、などと思ってしまったのだけど、そういった相手は確かに支えになってくれるかもしれないが、相手に依存してしまってはよくないとも思うし、その相手が支えどころか悩みの種となってしまう可能性だって少なくない。私はこれまでにオレ様やデリカシーのない自由人や典型的なモラハラ彼氏とお付き合いしてきた経験があるので、今の私にそういう人とのお付き合いはめんつゆの3倍濃縮をそのまま飲み干すくらいの濃さがあるし、想像しただけでぐったりと疲れてしまう。
では友人か、と考えたところで、友人たちにはこれまでに支えてもらったのであまり迷惑をかけたくない気持ちもあって、実は現状を伝えてはいない。私の心の機微を忙しい彼女らに語って時間を割いてもらうのはなんだか申し訳ないし、まだアラートを出すような段階でもないと思っている。アラートを出すような状態がもし来たなら、私はその足できっと病院に行って自分で何とかしようとするだろう。
そう考えると、支柱ってどうしたらいいの、いったい何なんだ、何がいいんだ、と考えてしまうわけだが、私は誰かに頼るのが下手くそだなと改めて思わされる。自分でどうにかできるものならしたいし、人に頼りたくない。でも、また同じことを繰り返したくはないというジレンマ。
支柱と呼んでいいのかわからないが、こんな状態の私を癒し、元気にしてくれるものがある。推し(2次元のアイドル)の映画だ。詳細はムビナナで検索してもらえばたくさん出てくると思う。
今、私は仕事で大きな案件を引き継ぐ移行期間にあって、先輩に鍛えられる日々だ。正直、しんどい。トイレで泣いたりもしたし、今も不安で吐きそうだ。毎日ヘロヘロで、覚えないといけないことが多過ぎて頭がパンパンで、平日を乗り切るのに必死だ。
そうやってなんとか乗り切った土日。私は映画館に推しに会いに行く。大画面で彼らのライブが観れるのだ。応援上映だとペンラも振れる。彼らの姿に元気をもらい、歌を聴いて泣いて、MCに笑ったり感激したりして、心を満たされて映画館を後にする。5月中旬の公開日から週末になるとこれを繰り返している。今の私が何とか社会人として姿を保っていられるのは、ムビナナのおかげと言っても過言ではない。推しの、推しジャンルの力はすごい。支柱というか、私の栄養源だ。私を動かす力。ありがとう、アイドリッシュセブン……。
この記事を書いている今日も、映画館に足を運ぶ予定だ。ペンラの振り方や色を変えるタイミングもわかってきた。公開中はこうやって何度でも癒されに行きたいと思う。
推しに癒されて元気をもらっている身なので、推しのいる生活はいいぞと言いたい気持ちは大いにあるのだけれど、それはそれ、これはこれ、と思う時もある。現実は自分の足できちんと立って、自分の頭でちゃんと考えて何とかしていかないといけないことだらけだ。推しは栄養なのでその力になってくれる。でも、実際に自分の生き方を選択していくのは自分以外の何ものでもない。
現状が劇的に変わって、今よりものすごく良くなるなんてことはすぐには起こりえない。何事も地続きだ。やっぱりコツコツと日々を重ねていくしかないのだろうと思う。まだまだ弱くて脆くてかっこ悪い自分を認めて、受け入れた上で。
私は5年日記を昨年の7月末頃から書き始めたのだが、それより以前のことは記憶やスケジュール帳を頼りに書ける日だけ書いていた。去年の今頃の私は休職中で、自分の心と命を繋ぎ止めるべく通院しながら、一日に一回何かしら料理をすることで心を動かしていた。普段簡単なものしか作らない私が、アクアパッツァを作ったり、カスレを作ったりしていた。日記には、「料理をしていると無心になれるのでいい」と書いてあった。そうやって、余計なことを考えない時間を増やして、自分なりに自分の形を留めていたんだろうなと思う。
生きていくための気力がどうにも弱々しくなってしまうこともあるけれど、その度に休んで、栄養をとって、心を潤して、また日々に戻っていく。そうして、生きている。
書いてしまうと当たり前のようなことに思えるけれど、日々を忙しなく過ごしていると忘れがちだったり、そもそも自分を振り返る時間を取れていなかったりする。
時々はちゃんと振り返って、自分を労って、現状を把握するといいのかもしれない。今の私の場合なら、生きる気力が弱々しくなっているので、推しに映画館へ会いに行って、好きなものを食べて、今夜はゆっくり湯船に浸かって早めに寝るとか、そういうことをしてみようと思う。
難しい問題とか将来への不安とかてんこ盛りだけど、今考えてもどうしようもないことはとりあえずどこかへ置いておく。きっとなんとかなるし、なるようにしかならないものだから。
そうして過ごしていくうちに、不安が小さくなって、自分の心が少しでも強くなっていたらいい。自分に自信を持てるようになっていたらいい。そんな風に思う。