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映画『ジョーカー フォリ・ア・ドゥ』 感想・解説(ネタバレ)

妄想は、すべての人に感染する。

『ジョーカー フォリ・ア・ドゥ』を鑑賞しました。かなり地味です。ハーレクインが出るので、コミック要素があると思っていたので、完全に足をすくわれました。これはスゴい。地味ですが、かなりの問題作だと思います。

なので、前作の衝撃もあって、今作は地味で普通だと感じていました。しかし、次第にそれが怖くなってきたのです。なぜなら、本作で描かれる「狂気」が、当たり前に、日常にあるということを受け入れてしまっている自分がいたからです。

誰しもが「狂気」を自分の中に飼っているのだと、思い知らされた感覚です。
それを表に出すのか、出さないのか、それだけの違いにすぎないと。

そもそも人間社会は、妄想を集団で信じられるからこそ成り立っています。最もわかりやすい例が、お金でしょう。ただの紙切れに、価値があるという妄想を共有することで、社会が成り立っていますよね。

その感覚と同じように、誰かが描いた強烈な妄想は、次第と現実になり、社会の一部へと溶け込んでいきます。そうして、誰も疑問を抱かない状態になっていく。当たり前のように、そこにあるものだと受け入れてしまう。その恐ろしさを痛感しました。

さて、本作を読み解くための「キーワード」は2つあります。1つは、タイトルにもなっている「フォリ・ア・ドゥ」、そして2つ目は、冒頭で大体的に出てくる「シャドウ(とペルソナ)」です。どちらも精神医学・心理学用語です。

簡単に言えば、「フォリ・ア・ドゥ」は、妄想が感染すること。「シャドウ」はどうしても認めたくない自分のことであり、その対となる「ペルソナ」は他人に見せる顔のことです。それを理解したうえで観ていくと、かなり楽しめると作品だと思います。

ストーリーの中心となるのは、アーサー(ジョーカー)の裁判。殺人事件を犯した彼に、責任能力があるのかどうかが争点です。弁護側は、メンタル疾患により、アーサーとは別人格のジョーカーが殺人を犯したと主張します。一方で、検事側はもちろん、責任能力はあったと主張します。

「殺人に至るには引き金となる出来事があった」「悪いことをするのは、本当のあなたではない」という弁護士や、かつての親友。それに対して「そもそもヒドい人格で、それを隠すための演技をしている」「自分勝手な理由で殺したのだ」という検事。はたまた「狂ったことをしてこそ本当のあなただ」「狂っていなければあなたではない」という観衆と、ハーレクイン。

「本当の自分とは?」その葛藤が常にあるのです。普通に考えれば、殺人を犯したジョーカーは間違いなく「シャドウ」であり、他人を思いやり手を差し伸べることができるアーサーは「ペルソナ」と言えるでしょう。しかし、逆を言えば、ジョーカーから見たアーサー」こそが「シャドウ」という見方もあります。

だからこそ、本人も迷い、嘆き苦しむのです。それが「失笑恐怖症」で表現されています。苦しみながら笑うアーサーの姿は、胸を締めつけるものがあります。

誰からも理解されず、なかば自分自身を諦めていたアーサー。そこに現れた、ハーレクインという理解者。誰からも自分自身を否定され続けた彼が、選んだ先に待ち受けるものとは…。

私は、結果を予想しながら観ていたので、予想がハズれて衝撃でした。

そのほかにも、「統合失調症」を視点にしても楽しめます。上記した「妄想」は、一般の人が考える妄想であり、頭の中で考える空想や想像と同じものです。しかし、統合失調症の症状としての「妄想」は、当事者にとっては紛れもない事実であり、実際に起こっていることです。なので、「妄想」に着目すれば、服薬をやめたあとから「妄想」がどんどんヒドくなり、その時間がどんどん伸びていくことに気づくでしょう。

次第に、どこからが妄想で、どこからが妄想でないのかわからなくなるかもしれないと思いましたが、本作はその点をしっかり描き分けていたように思います。もしくは、そうではなく私が思惑にハマってしまっているのか。

といったように、たくさん考えることができて、とてもすばらしい作品でした。やっぱり、映画はいいですね。

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