【読書感想文】『統合失調症の一族 遺伝か環境か』
ロバート・コルカーによるノンフィクション作品『統合失調症の一族 遺伝か環境か』を読んだ。
12人の子供のうち6人が統合失調症に罹った一家・ギャルヴィン家の半生を描いたノンフィクションである。
12人兄弟の末っ子であるメアリーの視点を中心にしつつ、詳細な記録を元に家族の歴史が時系列に展開されていく。並行して、統合失調症についての社会の理解や研究がどのように進んできたのかが描かれる。そこでは、統合失調症という謎多き病が遺伝的な要因によるものなのかそれとも環境的な要因によるものなのかという議論が中心に展開される。
しかし、統合失調症の原因は今現在も明らかになっておらず、遺伝か環境かという議論はこの本の本質ではないように思う。したがって、日本語版の「遺伝か環境か」という副題はややミスリードなものに思える。
というのも、統合失調症をはじめとする精神疾患において重要な部分は発症それ自体の予防もさることながら、そのあとの関わり方や対処の仕方にあると思ったからだ。
統合失調症の兆しがあっても、社会的なスティグマのために本人も家族もそれを隠そうとして、その間にますます症状が悪化していくということもあるだろう。そしていよいよ病的な症状を呈するようになると、周囲の方が耐えられなくなって、隔離したり攻撃的な態度で接するようになり、ますます狂気を助長するようになるということが少なからずあるのではないだろうか。
ジョアオ・ビール著『ヴィーターー遺棄された者たちの生』は、ブラジル南部にある「ヴィータ」という薬物依存症患者や精神病患者のための保護施設で生活する、統合失調症と診断された女性・カタリナの生涯が描かれた作品であるが、この作品を読むと統合失調症という診断が時に社会の構造的な欠陥を個人の責任に転嫁する方便になってしまっていることがわかる。
著者の粘り強い調査の結果、カタリナが患っていたのは統合失調症ではなくマシャド・ジョセフ病という遺伝性の難病であることがわかる。そしてその病気は精神性の病気ではなく運動障害の一種なのだ。
当時のブラジルの貧困な地域では精神医療は完全に崩壊しており、そこではトリアージ(傷病者の振り分け・選別)が行われていた。多くの患者はろくな診察も受けられずに薬物依存症、パーソナリティ障害と診断されて追い返される。さらに家父長制が残る社会では、暴力を振るった側である夫の言い分が通ってしまう。カタリナは一方的に統合失調症と診断され、ヴィータへと送られた。そしてそこでカタリナは何年間も誤った薬を投与され続けることになったのだ。
統合失調症患者にとって薬は欠かせないものだ。ギャルヴィン家の兄弟たちも調子が良くなって薬を飲まなくなった途端に症状が悪化した事例が多くある。しかし、薬が万能というわけでもないことは肝に銘じておくべきだろう。
薬というのは、その病気の原因やメカニズムが十分に解明されている場合に最も効果を発揮するものだ。統合失調症のように、原因やメカニズムが十分に解明されていない場合には、薬がターゲットとしているものが曖昧になったりズレていたりすることがあるのだと思う。実際、統合失調症の治療薬でもドーパミン受容体の働きを抑制するものもあれば活性化させるものもあったり、かなり混乱した時期もあったらしい。
また深刻な副作用もあり、ギャルヴィン兄弟のうち二人は副作用が原因で死亡している。
カタリナの場合にもそうだったが、一度統合失調症と診断された人間は声を封殺されて薬漬けにされてしまうことがある。
カタリナの場合は誤診だったわけだが、むしろ診断によって社会との接点を失い、薬と孤独によって正気を失いつつあったと言える。カタリナは自分が言葉を忘れないためにノートに詩や文章を書き続けた。そして、著者のジョアオ・ビールだけがその言葉を真剣に受け取り、晩年ではあったものの真実を解明したのだ。
統合失調症の患者が薬漬けにされてしまう状況は症状の抑制と並行して別の狂気を燻らせてしまうことにもなりかねないのではないだろうか。
刑務所に入所することによってむしろ犯罪者同士の繋がりができてしまうことや、出所後の社会復帰の困難から再犯に走ってしまう傾向があることと似たような問題もないわけではない。
さらに、現状の薬が一定の効果を持つ中で、統合失調症の治療薬の開発に莫大なコストを投資するインセンティブが製薬会社にないという理由で新薬の開発が進んでいないという状況もある。
R・D・レインは、統合失調症が現れる時むしろ病理は社会の側にあると考えた。
ギャルヴィン家の事例で興味深かったのは、統合失調症的な兆しがありながらも発症を免れた5男のマイケルにとって、ある時期にヒッピーのコミュニティで生活したことが助けになったのではないかと考察されている点だ。
空軍の父と厳格な母の下で育てられたギャルヴィン家の男兄弟の間では闘争が絶えなかった。そしてそれは両親が当時のアメリカにおいて理想の家族像を追求した結果でもあった。
統合失調症には何かしらの遺伝子の異変が関係している一方で、それが発症に繋がるには環境的な要因が関係しているとする説が僕には一番しっくりきた。
一時期は、母親の教育や躾がフォーカスされていたらしいが、その母親当人が持つ母親像というのは常に社会のあり方に影響されるはずである。
すると各家庭はその当時の社会のミニチュア版に他ならず、少なからずその中に統合失調症を発症させるトリガーが存在するならば、それは家庭ではなく社会に問題がある証拠となるのではないだろうか。
家庭や社会から逃避したマイケルが発症を免れたというのはその点から見ると注目に値する。
遺伝子の異常が原因であるとして、それが単一の遺伝子の異常によるものなのか、複数の遺伝子異常の結果なのかわかっておらず、そもそも統合失調症を引き起こす特定の遺伝子異常があるのかさえわかっていないという事実が一方にはある。他方で、そもそも“正常な遺伝子”とはどのような考え方なのかという疑問がある。
無数の遺伝子のうち一つも遺伝子異常を持たずに生まれてくる人はいるのだろうか? 癌の発症だって遺伝子異常の一つだ。
最近ではニューロ・ダイバーシティという考え方もあり、何が正常で何が異常なのかという考え方自体が古いものになりつつあるように思う。
もちろん、精神異常を引き起こしやすい遺伝子異常というものがあるにしても、そうした遺伝子異常にも無数のパターンがありそれが環境的な要因によって精神異常の発症につながるのだとしたら、統合失調症の発症パターンにはいくつものヴァージョンが存在することになり、それに単一の治療を施すことはむしろ制度の側の限界によるものなのではないだろうか。
ニューロ・ダイバーシティという観点で注目するとまた興味深いことが見えてくる。統合失調症患者は脳に適切な抑制が働かない傾向があるために感覚過敏になってしまうらしいのだが、脳にかかっている抑制を外していくということは芸術や仏道修行において目指されることの一つではないだろうか。
岡本太郎は『今日の芸術』の中で、誰もが「ほんとうは芸術家」なのであり、それがつまらない常識や固定観念によって阻害されているのだと述べている。大乗仏教でも仏は外に求めるものではなく、自分自身の中に誰もが持っているはずのものであり、それが無明(執着心のようなもの)によって曇って見えなくなっているのだと言う。
芸術や仏道修行というのは、芸術や仏に目覚めるために、制作や瞑想などを通して脳を特殊な状態に持っていこうとするものである。
では、統合失調症も芸術家や仏教僧も同じように、脳の制御が外れて感覚過敏になっているのだとして、それが病的に顕れる場合と創造的に顕れる場合の違いとは何なのだろうか。
脳の制御が外れると無意識の活動が表面化することになる。すると、表出した無意識の状態がどのようなものであるかということが重要なのではないだろうか。
つまり、現れ出た無意識に病的な症状が見られるならば、それはその人の置かれていた家庭や社会の状況を表現していることになる。
以前職場で中年の女性が「Aさんが私の悪口を言っている」という被害妄想を口にしたことがあった。当のAさんはそもそもその女性のことをよく認識すらしていなかった。すると、その女性の言い分は妄言として片付けられてしまったのだが、職場や社会がその女性に対して優しくなかったことは事実である。シングルマザーだったその女性は、年のせいで物覚えも悪く職場で邪険に扱われているところがあった。そうした職場の小さな悪意や嫌悪の集積が女性の無意識の中で、Aさんという存在に置き換えられてしまったのではないだろうか。
すると、この本でも述べられていたが、精神病というのは白か黒かで簡単に診断できるものではなく誰もがグレーゾーンに身を置いていて、社会との齟齬が顕在化した時点からを病気としているだけなのではないかと思った。