『詩集 みくさのみたから 皆元のすべ』飯田茂実 著
ヨガ教室の生徒さんから、私と同じようなことを述べているということで勧められ、お借りして読ませていただいた本である。
今回このような機会をいただいたということで、紹介を兼ねて解説ならびに所感を述べることにする。
所感を一言で述べると「素晴らしい」。
それはつまり、
生命に余計なものを付け加えて、生命を縛りつける言葉ではなく、生命にこびり付いた余計を素へと晴らし、生命の縛りを解き放つ言葉の数々なのである。
この本は七章443ページに及んでいるが、
第一章の最初に、「第二章から先はことに、入口を身につけてから目を通して下さるよう、お願いいたします(p15)」とあることもあり、
ここでは、
第一章にある言葉で、私的に気の向いたものを抜粋し、私的に解説するに留める。最後に「みくさのみたから 皆元のすべ」さんのリンクを貼っているので、興味を引かれた方は購読されたし。
第一章の前に、まずは「はじめに」の言葉から抜粋する。
みたからと結びあわせる
いのちの術は、全人類、全宇宙、全てのすべてと関わりがある。しかしながら、関わりがあるからといって全人向けではない。何事も関心がない者にとっては不向きなのである。
ヨガもまた同じように、全人類に関わりがありながらも全人向けとは言えないのである。
ありきたりな道
大方の人は物事の「シンプルな本質」よりも、権威、技術、特別な何かに幻想をいだいて価値を見出し、多くの「複雑な知識」を学びたがるものである。無論、御多分に漏れず『ヨガ』もまたその一つに違いない。。。
それ故に、
「伸び」をするだけで、ハタ・ヨガ教典において特殊な秘宝とされる「三重の締付(バンダ・トラヤ)」を、まったく無理なく自然に行うことになることなど思いもよらないであろう。
この「みくさのみたから」と同じく、私の提唱するヨガもまた、伸び・あくび・ため息などを基盤においており、生命のことは、生命を信頼し、身体が進むべく心地よさに任せるというのが結論なのである。
それはまったくややこしくなく、とことんシンプルであり、誰にとっても開かれており、まったくあたりまえの営みなのである。
ちなみに、「あたりまえを あたりまえに」これが尾山ヨガ教室の謳い文句である。
この本は、幸福や健康を外側の何かから得ようといつもアンテナを張っている方々はもちろん、ヨガを熱心に愛好している方々にとっても福音となり得る。
興味を持って己の心身を生命・自然の観点から読み進めるのなら、きっとヨガやら権威やら名声やら技法やら流行やら……の囚われから自由にしてくれることであろう。
さて。
第一章の終わりに、
と書かれてある。
私的に、以上の3つを整理すると、
1.たなそえる(胸、感情面、哺乳類脳、慈愛などに関連する)
2.まことのる(頭、思想面、人間脳、智慧などに関連する)
3.ちのみちとおす(肚、身体面、爬虫類脳、元気などに関連する)
となる。
つまり、「みくさのみたから」とは、これら3つの測面から総合的に心身に働きかけ、心身にこびり付いた余計を取りのぞき、心身の働き(気の流れ)を整えていく術だと解釈できる。
勝手ながら、ここから先は 身体面 → 感情面 → 思想面 と人類の進化の過程にそって話を進める。
1.身体面 - 肚 - 爬虫類脳
まずは、身体的に詰まり滞っている気道を通すという測面からの言葉を抜粋する。
これは力(ちから)・ヨガと呼ばれる密教ヨガに相応するであろう。身体的な詰まりが通ると、自ずと元気が湧き上がるのである。
のびをして いのちのみちをとおす
念仏の如く繰り返しているのだが、ここにも書かれている通り「伸び」は筋伸張ではない。「伸び」はチカラを込める筋収縮である。
伸びの発声は、文字での表現は難しいものの、私的には「んむぅ!」というよりも、「ふんぐぁぁぁ、ふんぐぃぃぃ、ふんぐぅぅぅ、ふんぐぇぇぇ、ふんぐぉぉぉ」などの表示が分かりやすく思う。
チカラを込めてイキんだ結果、締まった声帯の隙間から漏れる「かすれた音」になる。
溢れくる生命の波に乗っかかるなら、事あるごとに伸び、伸び、あくび……などと連続して起こるものである。
ところで、
ここでは『悩み』を『名病み』と当てているが、実に、「悩み」とは『名前(思想観念)』によって起こる病気(気の停滞)なのである。
ここでの「いのちのみち」は、ハタ・ヨガでいうところの「気道(ナーディ)」に相応するであろう。
世の中には伸びはもちろん、欠伸も起こらないという方も少なくないようではあるが、欠伸ならば起こってしまう方も、意図的に起こせる方もそこそこいるであろう。
欠伸は出てしまうものであると同じように、伸びもまた体操のように意図することなく反射的に起こる爬虫類脳(本能)の働きであり、意図的に行うものではない。
※ ただし、私自身に関する限り、 欠伸反射を意図的に誘発することは可能だが、意図的に行うことはできない。伸びはある程度意図的に行うことができる。
頭痛・肩こり・首こり
朝ごとに伸びを続ける
赤ちゃんを観ていると、目覚めぎわになると「ふんぐぅぅ〜あ"ぁぁ〜、ふんぐぁぁ〜あ"ぁぁ〜」っと伸びを繰り返し、やがて「あああーっ」っと泣き出したりする。
※ この「ふんぐぅぅ〜」はチカラを込めて緊張していくとき、「あ"ぁぁ〜」はチカラを抜いて弛緩していくときの発声を表現している。
赤ちゃんを観ていると、名前をつけて色形を分別する「人間脳」はもちろん、喜怒哀楽などの感情を表現する「哺乳類脳」もあまり機能していない様子である。
伸び・欠伸は、本能的に刺激に反射する「爬虫類脳」の働きであり、ヘビやトカゲなどの爬虫類にも起こるでのではなかろうか。
ちのみちとおす
常日頃から伸び・欠伸をどんどん繰り返し、もっともっと元気になってしまおう。
イケ声を楽しむ(三分くらい試してみます)
人間脳は、曖昧な自然音を、明確な人工音へと変換してしまう働きがある。犬は「ワンワン」、猫は「ニャー」、鐘は「ゴ〜ン」、ベルは「リンリン」などなど、日本語なら「あ」から「ん」+ α の発音に変えて自分達に分かりやすく表現するのである。
ここでの「ついつい出てくる倍音声」は、人工音では表現できない声であり、人間脳にとっては分かりづらい曖昧な声であり表現しづらい声である。
加えて、オナラのように誰にも聞かれたくない恥ずかしい声と思う人も、人前では下品で失礼な声と思う人もいることであろう。
何にしても、
さまざまな要因が相まって、人間は伸び・欠伸を意図的に抑え込んでしまうのである。
史上最強・世界最速の 整体法(三分くらい試してみます)
自身を観ていると、「伸び」は爬虫類脳による背骨の反射動作が基盤にあるらしく、予備動作なく反射的にサッっと素早く動くことができる姿勢をとる。
赤ちゃんを観ていると、「んがぁ」などといったイケ声とともに肚(下腹)から背骨を波立たせて反射的にパッと動くが、爬虫類であれ哺乳類であれ、素早く反射的に動くには、肚から背骨をムチのように波立たせることが必要なのである。
ちなみに、一般的な体操やヨガのポーズではこうはいかない。そこには予備動作が必ず含まれるため、どれだけ早く動こうと意図しても反射に比べてワンテンポ遅いササッとした動きとなる。
話がずれた。
ここでの「イケ声」を出すためには、肚にチカラを集め、全身を協力してチカラを込める必要がある。逆に「イケ声」を出したなら、肚にチカラが集まり、全身が協力してチカラが込められてしまうのである。
本のなかの「イケ目」の説明では「目の玉をかるく上のほうへ向ける(p23)」とか、「イケ声」の説明では「かならず口を開けましょう(p25)」と書かれているが、そんな決まりを作ることなく本能に任せるのが適切であろう。
また「イケ顔」の説明では「口・鼻・首・肩をおもいきり心地よいほうへ伸ばしてあげます(p25)」と書かれているが、伸ばしてあげるではなく、チカラを込めて動かしてあげるの方が適切な表現といえよう。
自身を観ていると、伸びのさなか、眼球は上向かないまま目を閉じ眉を下げたしかめっ面や、目を閉じ眉を上げた表情も盛んに起こるし、もちろん眼球が下向くときもある。口は歪な形に閉じることも開くこともある(赤ちゃんを観ていると、泣くときに上眼になることは多い)。
まぁ、伸びのときの表情を私的に表現するなら、性的緊張により"イク"ときの表情、アヘ目・アヘ顔である。これは上目にも下目にもなったりする。
また、
ここでいうイケ目・イケ顔を私的に表現するなら、一昔前の不良が?喧嘩相手を睨みつけるときの表情、口を半開きにして下顎をかるくシャクレだし眼球を眉間へ向ける顔である。
何にしても、
眼球がどこを向こうが、口がどこに動こうが生命の流れ、心地よさに従うのが適切である。
もちろん、
ここで眼球を上に向けるという生命の流れを疎かにするという話ではない。やはりこれは、本能を呼び覚ます大いなる術なのかもしれない。
以下、ページを遡るが、著書によるイケ目の効果である。
イケ目になって
確かに、眼球を眉間の方へ向けることでも思い切りチカラを込めやすくなる。これは身体的なことに加え、精神的に「恥ずかしい、失礼」など人間脳による社会的ルールのブレーキが外れて思いが切れやすくなり、より本能に従いやすくなるというのもその理由の一つであろう。
イケ目で生まれる ちのみちの流れ
この「ちのみち」は、ハタ・ヨガでの「中央気道(スシュムナー・ナーディ)」に相応するであろう。
中央気道とは、元気・根源力(クンダリニー・シャクティ)を汲み上げる気道であり、ハタ・ヨガ教典『ゲーランダ・サンヒター』第三章64節の解説には、
とある。
そもそもハタ・ヨガとは、中央気道に元気・根源力を通すための術であり、中央気道の詰まりが取り除かれるのなら、自ずと元気・根源力が湧き上がり、やがては心気の消滅(=ヨガ)へと至る。
そしてこのとき人は、
自他分離のない元気そのものであり、身体を超えた【根源・真我】として在るのである。
2.感情面 - 胸 - 哺乳類脳
ここまでは、身体的に詰まり滞っている気道を通すという測面からの言葉を抜粋した。
ここからは、感情的に詰まり滞っている気道を通すという側面からの言葉を抜粋する。
感情的な詰まりが通ると、自ずと慈愛が湧き上がる。
今たなそえる大元居(十五分ほど試してみます)
ここでのイケ目は、ここに書かれている通り眼球をわずかに上向けるくらいが良いであろう。
というより、
目を閉じて至福を味わうような表情になれば後は、自然に眼球は移動するはずである。このとき口は軽く開くかもしれない。
赤ちゃんが母乳を飲んだ後、目を閉じ、至福に浸っているかのような表情になることがある。おそらくこのとき、眼球はわずかに上を向いているのであろう。
大元居みっつの効き目/たなそえる元居
ここでの言葉をまとめる
1.胸の飢え渇き:不安であろう。その大元には自他分離による孤独の不安がある。
2.胸の闇:無自覚に抑えられた喜びや怒りや悲しみや楽しみの感情が停滞している状態であろう。この停滞が、やがては「胸の病」へとつながるのであろう。
3.胸のこわばり:これら不安や停滞した感情による胸の緊張であろう。
胸のこわばりを緩める
ヒトとは、自他分離を引き起こす自我を抱え"個人"となったときから孤独の不安にさいなまれる宿命にある。
それでも母親に抱かれているうちは安心するのであろうが、根本的に自他分離の認識がある以上、人間の胸は飢え渇き続けるのである。
さようなら グローバル・システム
様々な物事や知識や人を求め依存したり、人から承認されたり、人と時空間を共有したり共感し合うことが嬉しいのもまた、母親に抱かれる代償行為ともいえ、一時的にこの"胸の渇き(孤独の不安)"が潤うからであろう。
胸 を ゆるめる 喜怒哀楽
赤ちゃんを観ていると、生後すぐから大声をあげて泣くことや、全身にチカラを込めた伸び・欠伸などは起こるが、感情表現は起こらない。
一月二月過ぎるとようやく笑顔も増えてはくるものの、快・不快にかかわらず笑顔になってしまうかのようで、未だ感情的ではない様子である。しかし何となく怒った感じ?に泣いたり、奇声を発したりなど、表現が多様になってはくる。
赤ちゃんのように口を開き、大声をあげて、震えるほどに全身を使って泣く真似をすると心地よい。あるいは、大口を開き、大声をあげて、震えるほどに全身を使って怒るのもまた心地よい。
ちなみに、尾山ヨガ教室でのライオンのポーズは、欠伸をするかのように行ったり、大口を開き大声をあげて怒る勢いで行ったりしている。
※ 泣くも怒るも、大声を出さなくても、大声を出す勢いを作るだけでも心地よい。
赤ちゃんは「哺乳類脳」の発達に合わせて、周囲環境が制しない限りにおいて素直に感情を表現していくであろうが、「人間脳」が発達していくに従い、色形に名前を付けて記憶しはじめ、世界を分別し、自我を形成すると……
未熟な自我を成長させていくために"子供"は、社会的ルールを身に付けていき、それに縛られていくことにより、嬉しいときに喜べず、腹が立つときに怒れず、哀しいときに泣けず、好きなことを楽しめなくなったりする。
それでも、
成長した自我を成熟させていくために"大人"が、身に付いた社会的ルールを解いていき、押し殺していた感情を解放していき、凝り固まった自我を"素"へと晴らしいくのなら、自ずと慈愛が湧き上がり、やがては自我の成熟・消滅(=ヨガ)へと至る。
そしてこのとき人は、
自他分離のない慈愛そのものであり、感情を超えた【平安・真我】として在るのである。
3.思想面 - 頭 - 人間脳
ここまでは、感情的に詰まり滞っている気道を通すという側面からの言葉を抜粋した。
ここからは、思想的に詰まり滞っている気道を通すという測面からの言葉を抜粋する。
思想的な詰まりが通ると、自ずと智慧が湧き上がる。
まことのる 〜 吐息・声・眞コト・想い
ここでの「眞コト」は、ヨガでの【真言(マントラ)】に相応するであろう。
ちなみに、「言霊」とは発した言葉通りに事象が現れるという言動の働きをいうようである。
ここでの「眞コト」を分かりやすくいえば、生命が求めている言葉といえるであろうか。
それは何か?
それは、「富、権力、名声……」など人間脳による思想的欲求を排除した、より動物的な欲求であり、それは、個人的・局所的・衝突的な欲求ではなく全体的・大局的・調和的な欲求ともいえる。
生命は、のびのびイキイキ心地よく大調和のなかで生きようと流れ働いているのであろう。
伸びや欠伸は声を出すのではなく、チカラを込めた結果、締まった声帯の隙間から声が洩れるのである。
思い込みを広くあらためる
飢え渇き:感情的な停滞・不安
名病み :思想的な停滞・苦悩
氣づまり:身体的な停滞・緊張
自分とは何なのか? 世界とは何なのか?
ヨガでは、個人的に信じ込んでいる思想観念の一切を否定し、聖典、聖者による真実に基づいた言葉である【真言】を信じ、あるいは確かめることにより、個人的に思い決め込んだ信念を破壊する。
※ ちなみに、真言を信じることは信愛・ヨガ、真言を確かめることは智慧・ヨガと呼ばれる。
古来ヨガとは、基本的にはこの2つの内どちらかであろう。
まことのりとは 身ずから生みだす
ここで「みたからをひらく」と表現しているが、「みくさのみたからを実践することを「みたからをひらく」と言います(p9)」とある。
そして第一章の終わりには、「みたからの入口をくぐれるようになったら、みたからをひらくまで、もう少しです。まずは身ずから、まことのりとを三十三ほど生みだして、始めから終わりまで憶えます。日ごとに、まことのれるようになったら、日ごとに、みたからをひらくことができます(p76)」とある。
その一方、
【真言】とは「聖典・聖者の言葉」である。そして、「身ずからの思想こそが真実を覆い隠している妄想・盲信である」というのもまた【真言】である。
故に、唱える言葉を身ずから生みだすことはあり得ない。
【真言(妄想・盲信を除去するための言葉)】とは、妄想・盲信の一切を除去した聖者が、各個人に適した言葉を授けるのものであろう。
世界三大まことのりと(繰り返し声に出して憶えます)
1つ目は「日ごとすべてが悪くなっている」などという思い込みを除去するため、2つ目は「こんなに不幸で、こんなに不健康」などという思い込みを除去するため、3つ目は「誰も 彼も 嫌になる」などという思い込みを除去するための言葉といえるであろう。
3つ目の「みんな みんな ありがとう」は、現状への抵抗(不平不満)をとめる言葉であるが、成長途上の未熟な自我はこの言葉を嫌い、ある人には感謝するが、ある人には不平をもらしたがる。何かしらの現状に不平不満を洩らし、衝突・抵抗を好むのである。
なぜなら、
恐怖への抵抗、欲望への希求、「あいつは少しもありがたくないだろうが!」という抵抗こそ、自我を維持・拡大する働きだからである。
つまり何でもかんでも「ありがたい」と思っていては、自我の働きそのものを縮小させ、その存在意義を維持できなくなるのである。
このように、
未熟な自我は本性を晒され解体・除去されることを最も恐れているが、成熟へと近づいた自我は、本性を死守することから離れ、その解体から解放へと向かう。
ヨガ(聖典・聖者)は、例えば【全宇宙はあるがままであり、すべてはあるがままで良い】などという【真言】を伝え、あるがままの現状への抵抗(不平不満)をとめ、自我を解体していく手助けをするのである。
頭のなかに埋め込まれていた制度
簡単にいえば、「私は〇〇である」という自己定義からの解放、これがヨガである。例えば「私は身体である」などという自己定義がある以上、四苦八苦から逃れる術はない。その逆に、この自己定義が外れたとき、そこに苦が起こることはあり得ないのである。
ヨガ(聖典・聖者)は、例えば【あなたは意識内に現れては消えていくあらゆる対象(感覚・感情・思想)を見守る意識であり、あなたは身体ではない。あなたは対象ではない。あなたは観照者である】などという【真言】を伝え、「私は〇〇である」という自己定義を除去していく手助けをするのである。
まずは言いきるところから
現実とは個人的な思いであり、個人的な思いが現実である。「幸せではない」と思っていればそれこそが現実なのである。
慣れない言葉を唱えていると、自我の幼稚な習慣により抵抗は起こるものである。それでも唱え続けることで古い観念は徐々に洗い流され、新しい現実へと開かれ、素直に自我が成長していくのなら、やがて自ずと智慧が湧き上がり、思想にすぎない現実・自我の消滅が起こる(=ヨガ)。
そしてこのとき人は、
自他分離のない智慧そのものであり、思想を超えた【実在・真我】として在るのである。
おわりに
以上、身体的、感情的、思想的に詰まり滞っている気道を通すという3つの測面からの言葉を抜粋した。
最後に、「いのちのチカラが弱るとき(p68)」の言葉を載せて締め括ることにする。