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『ドライブ・マイ・カー』どこが面白いのか

 年末休みに、amazon primeで視聴できるようになった映画『ドライブ・マイ・カー』を観た。
 原作は村上春樹の短編小説「ドライブ・マイ・カー」だが、小説のほうは50ページほどの短いお話なのに対して、映画は2時間58分もある・・!

村上作品はむずかしい?

村上春樹の作品は平易な文章で書かれているので読みやすいのだが、物語は難解だといわれる。わかりやすい起承転結がなく「何が言いたいのか分からない」という人も多いだろう。
 村上自身は物語のとらえ方について、既存の論理ではなく物語を総体として捉えることである、と語っている。僕は村上春樹の一ファンであるが、たしかに物語そのものをあるがまま受け入れることで、作品世界と現実世界での自分の存在とを同化させることができると思う。
 持論だが、素晴らしい物語は「必然性」で溢れている。村上春樹の物語はややもすればデタラメと捉えられかねない性質を持っているが、細部に至るまで「書かれているとおりでなければならない」と思える必然性で構成されているし、それらの言葉の集合体としての小説は、短い要約や「一言でいえば?」に対する答えでは到底あらわすことができない、絶対的な言語であると思う。
 さらにいうと、村上作品の源泉はアメリカ文学である。アメリカ文学についてここで長々と話すわけにはいかないが、乱暴にいえば「自己と世界の関係性の追求」がその根底にある。ヨーロッパのように歴史があるわけでなく、民族という集合体から解放された新大陸で、哲学思考の対象として行き着いた先は自己なのである。
 自己とは何か?存在とは?生死とは? ――

人は常に何かを演じている

 さて、ドライブ・マイ・カーの話。
 まず、なんといっても、物語に流れる異様な暗さが印象的だろう。生きることに対する絶望と諦念が登場人物たちを襲い、諦念でさえ物語中の大きな救いとなっている。
僕が思うことは端的に、
・生きることは演じること。生きる限り演じ続けなければならない
・演じる苦悩から逃れられるのは死ぬときしかない
・他人の台本を覗き見ることはできない

ということだ。

 舞台俳優でなくとも、人は常に何かを演じているものである。
ウェイターはウェイターの役を演じているし、客は客の役を演じている。もっといえば、母親は母親の役を演じ、子供は子供の役を演じているのである。そして、誰しもその役から降りることは許されないし、台本通りに演じなければならない…!
「いいや、私は自分の意志どおりに動いているし喋っている」
そう思う人もいるだろう。
 しかし仮に、今のその「役」を取り払ったとき、あなた自身の本質はどのように立ち現れるのだろうか?「役」を持たない絶対的な自己として、誰かと向き合ったとき、あなたはどのような人間で、どのような行動を取るのだろうか?
そのように考えると人は「役」なしでは上手く生きることができないのだと感じる。

そして、繰り返して言うが、人は台本通りに動かなければならない
注文を取りに来たウェイターは、あなたがまだ独身でいることを特に心配していないので、ウェイターに対して「なかなかいい人がいなくてさ、まだ独身なんだ。でも心配しなくてもいいから。」と弁解する必要はない。しかし、ウェイターには注文をしなければならない。たとえウェイターよりもコーヒーサーバーに近いところに他の客がいるからといって、その客にコーヒーを注文してはいけない。その客が現金強盗だったとしたら尚更で、そうなったらコーヒーを注文する前にあなたは怯えなければならない。あるいは、怯むことなく果敢に立ち向かってもいい。ここは選択肢が与えられている。ただし、間違っても現金強盗に対して、処方箋を渡して薬をもらおうとしてはいけない。

台本と違うことをしてしまったら・・・

 もし、台本から逸れた言動をするとどうなるか?そうすると、他者との関係性が変化し、前までとは少し異なる新しい台本が渡される。

 ここでの鉄則は「他人の台本を覗くことはできない」ということ。ただ、手元にある台本に従って、今を、自分自身を、生きるしかない。
 物語のキーマンでドライバーの渡利みさきは、家が倒壊し母親が生き埋めになる最中、助けるということや誰かに助けを求めるという行動を取らず、そのまま広島に向けて車を走らせた。
 舞台役者の家福は、亡くなった妻に対する一つの疑問に回答が与えられないまま、残りの人生を生きなければならない。それぞれ捻じ曲がってしまった台本を手に今を生きている2人なのだ。

そして、生きる限り演じることは続く。いわば「Show Must Go On(一度始まってしまったら何があっても続けなければならない)」である。

 小説では、渡利が運転する車のなかで家福が「少し眠るよ」と言うのだが、それに対する渡利からの返事がなかったことに家福が安堵するところで締めくくられる。演じることに疲れ、第一線の台本から逸れてしまった2人だからこそ作れる「演劇の小休止」なのだろう。

余談

個人的に、日常生活で小さなShow Must Go On をリアルに実感したとき、それはオーケストラの演奏中、スキューバダイビングの最中、そして車の運転中であった。いずれも途中で「やめた」と簡単にやめることができない。それはそれである種の怖さがあると思う。
でも実際は、人は常にそのような状態に置かれているのだろう。家族団らんのようなシーンであったとしても。
家族団らんの場で、急に「ちょっと待って。ちょっと一回、とめて」と言っても「何を?」と言われるだけなのだ。

※小説はこちら


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