13. 百瀬博教 不良ノート 文藝春秋
あまり声を大にして、この作家が好きだと言えないような人がいて、その代表格は村上春樹だろう。ほぼ全ての作品を読んでいて、新しい小説やエッセイを心待ちにしているというと、ハルキニストかと揶揄されるのが面倒なため、まあ一応は読んでいるという雰囲気を醸し出している。実は、初出の雑誌も集めているとは言えずに。
もしくは松浦弥太郎で、松浦さんのことを好きで著作も結構持っているとはなかなか言えずにいる。そう言うと、ていねいな暮らし?と半ば笑いながら受け取られそうで、松浦さんが編集長時代の暮しの手帖は好きだったと言うに留めている。生き方や暮らしへの提言のような著作はやはり受け入れられないけれど、くちぶえサンドイッチをはじめとした、エムアンドカンパニーズの頃やCOWBOOKSを始めた頃の著作や掲載雑誌は未だに持っている。松浦さんの物を選ぶ視点やセンスには本当に影響を受けていて、同じくCOWBOOKSの品揃えも自分の本棚へ深い影響を与えている。青山のZUCCAの二階にあった頃を懐かしく思い出す。
その二人は本当は好きなのに何となく公言できない例で、一方、好きなのかそうでないのかを迷ってしまい、大きな声で好きだと言えないのが百瀬博教だ。百瀬さんのことは安西水丸さん経由で知り、「スノードーム」の共著の一人と認識していた。また、例の帽子を被っている人物写真はそれまでも見たことがあり、その印象を持ちながら「不良ノート」に出会うことになる。
安西さんの装丁は装画にありということは間違いないけれど、それとは別に背文字に特徴がある場合が多い。自身の「青インクの東京地図」を例として、ゴシック体と明朝体に分けられたタイトルと著者名がスミ一色で背幅いっぱいに入っていて、著者名もタイトルと同じくらいの大きさで配置されたそのバランスがとても好きだ。その代表が百瀬さんの著作だと思っていて、初めて不良ノートを目にしたときは、裁ち切りの装画といい文字の配置といい、安西水丸装丁好きにはたまらないものだった。また、1993年発行なので活版最期の時代だろうけれど、触ると凹凸がわかるくらいに強く押されて印刷されていて、その全てが気に入った。
それで、この上巻の最初の一篇である僕の刀を読んだとたん、一気にその文章に痺れてしまった。後で知ることになるが、この僕の刀は百瀬さんが出所してはじめて私家版にした本のタイトルで、本人としても特別なものだったのだろうが、初めて読んだのがこの一篇だったため、すごい文章を書く人だと思った。心から痺れた作家の本は集めなければならなくなる。そうやって他の本を集めていくと、石原裕次郎にまつわる本が多いため、誰かが本棚を見たら石原裕次郎のファンなのかというような感じになった。
不良ノートを読んだときに感じた魅力は何だったのだろうと後になって考えてみると、様々なエピソードの裏にある背景が豊富なことだろうと思う。それがこの本いっぱいに広がっており、全体から豊かな印象を受けたのかも知れない。それは初期の村上春樹にも言えることだと思っていて、最初の二作品といくつかの短編が裏にある世界、つまり僕と死んだ親友とその親友の恋人との世界と繋がっていて、それがノルウェイの森に続いていった。とにかく、不良ノートからも同じように広い背景を感じたのだった。
その広くて豊かに感じていた背景が崩れていくように感じたのは、幻冬舎から出た「プライドの怪人」を読んでからだった。おそらくこの本に書かれていることは、作家として確立した後に起こったことが多いのだろうけれど、百瀬さん曰く下獄して作家になるまでのこともいくつか書かれていて、こんなことだったのかと思うことが多かった。また、他の本の端々でも表れていた嫌悪感がはっきりと感じられて、本人はそれに無自覚でいるということに、さらに嫌悪感が増していった。結局は、読む前に感じていた人物像と何ら変わりはないというか、このプライドの怪人周辺によって一般的な百瀬像が作られている、もしくは自身で作っていたのだなと感じた。
それで百瀬博教が好きというと、僕の好きな百瀬さんは初期の作品のなかの百瀬さんであって、一般的に捉えられている百瀬博教ではないと言いたいところだが、そういった面が初期の作品とも共存していたと思うと、胸を張ってそうとも言えないと思えてくるのだった。それでも今、百瀬博教がどの程度知られていて、どれだけの人がそれぞれに百瀬像を思い浮かべられるのかと思うと、そんなことを気にすることなく楽しめばいいのかも知れないとも思う。