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研究日記2024年7月の報告書。

はじめに

今月はなんだか早かったような気がする。印象的なこととして、畑田君と収録しているPodcastの収録を3回連続で失敗した。一度目は僕が寝坊してしまい、二度目は僕自身の研究についてのディスカッションが白熱しすぎて、4時間ほど話しっぱなしでPodcastの収録はできずに終わった(有意義ではあった)。三度目は予約したはずの部屋が取れていないトラブルがあり収録できなかった。僕は一か月ほどの間、あまり人と話さない。そのため畑田君と話すとディスカッションでえらいことになる。まずは僕がため込んだ思索をバーっと話し、それから話し込む。この対話を収録する目的で始めたPodcastの収録には失敗している。

今月も色々考えた。自分の考えや研究の構成もまとまりを見せ始めた一か月だった。

リアリティデザインとしてのデュシャンの試みについて

デュシャンの遺作に、《Given》という作品がある。H : 1.778m×W : 1.245m×D : 2.426mの立体作品で、作られた空間を、壁にあけられた2つの穴から覗いて眺めるものである。デュシャンはその穴にカメラを入れてステレオで撮影し、ドン・ペリニョンの箱に収めてもいる。これはドン・ペリニョンの箱、とそのままの名前で呼ばれる。覗き込むとちょうどHMDのように作品の3次元空間がみえるという。1968年に世界で初めてのHMDが開発される少し前の1966年にすでに、デュシャンがVRのような作品を作っていたことに驚かされる。この作品は、2次元と3次元の関係を曖昧にすることに主題があった。

マルセル・デュシャンの遺作《Given》。https://www.artpedia.asia/%C3%A9tant-donn%C3%A9s/より引用。
マルセル・デュシャン《ドン・ペリニョンの箱》https://realkyoto.jp/article/lecture_fujimoto-yukio/より引用。

これとは少し別な文脈で、デュシャンは現実と非現実の間の薄さを示す「inframince(アンフラマンス」という言葉も作っている。ここにもバーチャリティの匂いがする。

有名な《泉》という作品は、リチャード・マットという名で署名されている。そのため本当は誰の作品なのか議論をよんだ(そして今もよんでいる)。デュシャンは他にもローズ・セラヴィという名義で女性として作品を発表したりもした。彼はよく嘘をつき、人々の認識を揺らがす人だった。僕はつねづね、嘘はVRだと思っている。嘘をつかれることによって、その人間にとっての現実(リアリティ)は決定的に改変されてしまうからである。デュシャンは数多くの嘘をつくことで、現実を改変し混乱させ、現実と非現実の境界にゆさぶりをかけようとしたのではないか、と思う。

《泉》。R.Mutt(リチャード・マット)の署名。https://www.artpedia.asia/fountain/より引用。
ローズ・セラヴィの肖像。デュシャンの女装らしい。https://www.wikidata.org/wiki/Q2919541より引用。

デュシャンは一般的にコンセプチュアルアートの始祖のようにみなされる。しかしVR的な《Given》の作品構造やバーチャルを意識したアンフラマンス、嘘というVRの実践などをみるにつけ、彼のやりたかったことはアートというよりもむしろ、リアリティのデザインそのものだったのではないかという気が、僕にはしてくる。

デュシャンが生きていた時代は、アンドレ・ブルトンがシュルレアリスムを宣言し、コルビュジェがサヴォア邸を作った時代だった。彼らが同時期にパリにいたのだから、信じられない時代という感じがするが、彼らの妙な同時代性と連関は、デュシャンをリアリティデザインの人、と捉えると、急に見通しがよく必然的なものに思われてくる。

シュルレアリスムのシュルレルは「超現実」を意味し、この「超」は超スピードのように、程度が甚だしいことを意味した。現実は漫然とみれば今の状態だが、本当の現実とはリンゴが大きくなったり虫になったりしうるもの、という理解の主張がシュルレアリスムの骨子だった。その意味でシュルレアリスムはただの異形なものの創作というよりも、新しい現実理解そのものを提示しようとした試みなのだった。一方で建築においてモダニズムの始祖とされるル・コルビュジェのサヴォア邸は、機能主義の代表作ともみなされるが、よく見ればそれはパリの権威的な宮廷建築の反転であり、権威から逃れる暮らしを物質的にそこに現出しようとした試みとも捉えられる。

ル・コルビュジェによるサヴォア邸。著者撮影。

彼らの活動は互いに関係もしており、デュシャンはシュルレアリスム作家らの展示空間の空間デザインをしているし、コルビュジェはシュルレアリスムの画家でもあった。つまり彼らの活動は明らかに繋がっていた。有名なロンシャンの教会は、シュルレアリスムの絵画が元ネタとなったと言われている。

要はデュシャンもブルトンもコルビュジェも、帰属される領域こそ異なるものの、嘘や絵画や物語や物質などのメディアを用いて、リアリティのデザインそのものに取り組もうとした人々だったのではないか、と僕には思われてくるである。1900年台初頭のパリで、第一次世界大戦の動乱を背景としながら、新しいリアリティを創出しようとする「リアリティデザイン」の企図は同時的に共鳴し創作や運動として盛り上がり起こっていたのではないか、と思うのである。

日本のリアリティデザインの萌芽

日本においてこうした「リアリティ」への介入と改変の試みが顕著にみられるのは明らかに、平安末期から鎌倉、室町にかけてである。

平安末期ごろに鴨長明が災害文学としての『方丈記』を著した頃、一方では定家が抽象和歌の完成度を高め『新古今集』を編纂していた。同時代に法然もいた。少し下に栄西がおり、やがて道元がでてくる。そうした中で「無常」の観念も育てられていく。平安末期には末法を背景として浄土庭園が発達し、アニメーション的表現としての絵巻物が成立し、空間的なVRとしての来迎図などが凄まじい完成度に至る。すなわちリアリティを凝集させるような新しい芸術表現がこの時代に花開いたように見受けられるのである。

もう少し時代を下ると、一休宗純がいる。彼は頓智坊主としてのイメージが強いが、佐渡に流罪となった世阿弥を呼び戻し、世阿弥の義理の息子であった金春禅竹に禅を教授したりするなど、能に禅の息吹を吹き込んだ。また茶のはじまりである村田珠光に禅の影響を与え、連歌の宗祇にも影響を与えたりするなど、様々な文化に禅を吹き込みながら、フィクサー的な立ち回りをした。ほとんど同じ時代に雪舟がいる。こうして禅を軸とする様々なリアリティ創出の文化が花開いてくる。この頃には当麻曼荼羅縁起絵巻などの絵巻や空間表現としての法然上人涅槃図などもあらわれ、バーチャルなリアリティの現出を企図したとしか思われない絵画表現や空間表現はさらなる高まりをみせる。頭の中にBlenderが入っていたのではないかと思わされるような異様な立体感のある赤鶴の能面もこの時代に生まれた。能面もまた異様な完成度に結集していった時代である。

これらの時代は明らかに動乱の時代でった。法然も幼い頃に父を殺した賊を弓で撃っている。人が死ぬこと、自分を守るために誰かを殺すことですらありふれていた時代であっただろうと思われる。その乱世の反動として、それとは別のリアリティを凝集しようとする力が生まれてくる。それが日本におけるVR的なものの一つの始まりであろうと思われる。そしてデュシャンやブルトンやコルビュジェの時代には、第一次世界大戦などの動乱が通底音になっていた。

ま、こういうことをつらつらと考えながら、世界の様々なバーチャル文化の通底音を探ろうとしている。フランスにおいても日本においても、おそらくこうした文化の通底音は、無常ではない。無常は時代に取り残されたものの寂寥で、日本においてすらバーチャリティを創出する力は、生きた葛藤に裏打ちされたもう少し力強いもののように思われる。

今月読んだ本

『マルセル・デュシャンとは何か』
『建築の解体』(再読)
『禅と自然』
『道元入門』
『小さな家の思想ー方丈記を建築で読み解く』
『道元』(和辻哲郎)
『インターネット』(村井純)
『新版奇想の系譜』(自分がこれをまだ読んでいなかったことに驚く)
『ボクの音楽武者修行』(面白かった)
『異端の系譜』
『組版造形タイポグラフィ名作精選』
『般若心経 金剛般若経』(岩波)
『アニメーション 折にふれて』(めちゃめちゃ面白かった。一気に読んでしまった)
『歴史の歴史』
『江之浦奇譚』
『本歌取り 東下り』
『井岡雅弘画集』
『図版 ここが知りたかった!法然と極楽浄土』
『正岡子規のスケッチ帖』
『神護寺ー空間と真言密教のはじまり』
『高雄曼荼羅』(薄くて1500円くらいかと思ってノールックで買ったら3000円してビビった)
『家の哲学』(エマヌエーレ・コッチャ)
『哲学の使い方』(鷲田清一)
『BIG THINGS』(これも面白かったなあ)
『定家明月記私抄』(ついに読み終わる)
『法然と極楽浄土』図録

こんなに読んだつもりもなかったのに読んでいて驚く。

せっかくだからちょっとだけ書いてみる。

今月は禅や仏教なんかについてわりかし考えた月だった。僕には道元はいまだによくわからない。どうしてあんなに皆が興味をもつんだろう、と思ってしまう。言っていることがどうにも、エリートなんじゃないかという感じがする。「数寄は栓なし」とか言っちゃうあたりにそれが表れている。子供の頃に父を殺した相手にその場で弓を放ち命中させた法然のような動乱の真っただ中を体感した人の言葉の重さとは、やっぱり違うんじゃないかという感じがする。道元自身も十分に乱世の時代の中にいたはずなのだけど、経歴はどうにもエリートである。まだわからないが。探求中である。

『インターネット』(村井純)は、建築情報学をやる人にはぜひ読んでほしいと思う本だった。技術を社会の法や制度の中で考えないといけない、ということがよくわかる。技術だけが妙にドリフトしたような議論は、ある部分では必要だと思うけれど、よろしくない。やっぱり社会と規制と実利との調停の中で技術を考える必要があるのだと改めて認識させられた。

『正岡子規のスケッチ帖』は、多くの人に実にお勧めしたい本であった。正岡子規は著名な歌人だが、彼の絵はどうにも素晴らしい。彼はそれらを、病床で描いた。『病床六尺』は心を殴られるような強く鈍い痛みが与えられる本なのに、同じ時期に彼がこのような牧歌的な絵を描いたことに驚かされる。本の中に子規と親しかった漱石の文が載っていて、なんでも器用にさらっとできた子規が、これほど愚直に色味を追求しようと努めている、ある種の不器用さに驚く、と書いてあった。その理解に考えさせられた。17文字で無限の色彩のある豊かな世界を描き出すことのできた子規が、なぜ不器用に果物や花を丁寧に捉えようとし続けたのか。試行錯誤を繰り返し、葉脈や陰影を実直にみつめ、色を駆使して小さな対象の姿を必死に紙の上に定着させようと試みている。軽やかで美しい絵の裏にある、原初的な死生観のほのめきのようなものに、心を囚われた。

https://www.amazon.co.jp/%E6%AD%A3%E5%B2%A1%E5%AD%90%E8%A6%8F%E3%82%B9%E3%82%B1%E3%83%83%E3%83%81%E5%B8%96-%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E6%96%87%E5%BA%AB-%E7%B7%9113-14-%E5%BE%A9%E6%9C%AC-%E4%B8%80%E9%83%8E/dp/4003600479より引用。

杉本博司の『江之浦奇譚』は非常に面白くて、夢中になって一気に読んだ。杉本さんは数寄者だということが改めてよくわかった。『歴史の歴史』や『本歌取り』も実に面白かった。「本歌取り 東下り」は、図録のもとである松濤美術館の展示も見に行ったというのに、そこではあんまりわからなかった面白さが、本の中で初めてわかった。杉本さんの作品はどうにもハイコンテクストで、理解するのに文章が必要になる感じがする。江之浦にはまだいけてないので、改めて行きたいと強く思った。これらの本は、友人の写真家である山口君に通じる感じがした。山口君も、かなり数寄者だから。西洋感あるけれど。

『哲学の使い方』は、鷲田さんなりの哲学領域の概観とそこに対する問題意識が読み取れて面白かった。友人の研究者である畑田君におすすめしたい本だった。

はじめての写経

今月、はじめて写経をした。買った写経セットは全部で24枚あるから先は長い。実際にやってみると、月並みだが心が洗われるようで楽しかった。

写経。これから納経する。

手紙すらデジタルになった今の時代に、僕はどうして筆を持ち出して(筆ペンだが)写経などしているのだろうと我ながら訝しんだ。しかしやっていると、一文字書くごとに心が空になっていくのがわかった。

以前に詩人の最果タヒさんが、詩は音読するものであり、声に出して読み進める中ですぐには意味が了解できずとも音は流れ、それを流し続けていると最後にまるっと情感のようなものが得られるのだ、と書いていた。なるほどそうなのかと思い、それ以来詩は声にだして読んでいる。般若心経の写経もそれに近しいところがあった。一文字ずつ書いていくときは文字の形態を追うことに必死で、書き上げるとそれはちょうど音のように流れていってしまう。しかしその流れ全体の経験の中で、仏教の教えが心の中にまるっと情感のようなものとして立ち現れてくるように感じられるのである。筆を動かす中でそのような情感が立ち現れてくることが実に面白く、また美しく感じた。

そして一文字一文字丁寧に書きながら、昔の人のことを想った。近しい人を亡くしたり、我が子や親を亡くしたりすることがむしろ日常的であったような動乱の時代に、同じ般若心経をなぞっていった人の心の動きを想ったのである。一文字一文字書き進める中で、心は空になり、哀しみの心は次第に遊離してゆき、しかし教えが情感として立ち現れ始めたところで、再び哀しい現実が心の内に回帰してくるような体験だったのではないか。しかしそれは元のままの哀しみではなく、仏教の教えと混ざった全く異なる形のものとなっていたに違いない。それこそが苦しくも、確かに効用のある治療であったのではないか。そんな風に感じたのである。

技術の発展に伴って、人の寿命も生活水準も上がったというのに、戦争が起きているというのは実に愚かしいことこの上ない。隣国が武装しているからとかそういうこと以前に、過去の戦争はともかく、これからの戦争は誰がどう転んでも天地がひっくり返っても絶対に必要のないものであり断固排除すべきなのだ、という共通理解は、どのようにすれば世界の中に作れるものなのだろうか。般若心経を書き進める中で、そこにある否定の言葉たちは、世捨て人の言葉でなく、世に溢れ、はびこり、しかし人々の生を腐らせるような、根拠のない不要で俗な”現実性”の否定なのだと実感した。

写経が終わると、きちんと正座してやっていたので、両足全部が引くほど痺れて全く感覚すらなくなった。怖いくらいになくなったのでちょっと以後は正座なしでやらしてもらいたいところだなどと考えている。仏教の悟りの会得には程遠い。

一誠堂書店で紹介されけやき書店で堀田善衛を手に入れる

最近、堀田善衛の本が欲しくて店主に「堀田さんの本はありますか?」と聞いて回りながら、神保町をよく徘徊しているのだが、堀田さんの本は文学系のところにも全然なくて辟易していた。改めて一誠堂書店で聞いてみたら、「けやき書店さんにあるかもしれませんね」といって別の書店を紹介された。

行ってみると雑居ビルの6階にあり、地上をいくら歩いても見つけられないだろうという感じがする書店だった。中は人間一人ギリギリ通れるか、時々通れないかくらいの狭い通路で、脇にはぎっしりと書籍が並べられていて、バリアフリーなど完全無視という感じだった。

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旧「2023年3月に博士論文を書き上げるまで」。博士論文を書き上げるまでの日々を綴っていました。今は延長戦中です。月に1回フランクな研究報…

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