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研究日記2024年9月の報告書。

今月は素晴らしい本や作家に出会えた月だった。月の前半は忙しかったし、全体的に細々とやることはあったが、あまり記憶がない。月の前半と後半で大きく印象が分かれていて、前半はもう2ヶ月か3ヶ月ほど前のように遠く、後半は眠ってばかりいたので記憶が曖昧である。正確に言えば後半は、一日12時間くらい寝ていたものの10時間くらいは作業していたし、色んなことを考えていたはずなのだが、あまり印象に係留していない。そして本ばかり読んでいた。そのことだけを覚えている。

今月読んだ書籍

『なつかしい本の話』(江藤淳。なかなか面白かった。ここから何冊か買った)
『木の教え』(かなりひどい。作者は聞き取りの名手らしいが、聞いた話と本人の考えの区別もわからないし、聞き取りなのに聞き手が語るのは邪魔くさいし、何より低級のライターが文字数稼ぎで余計な助詞などを付け足しまくるような文体が最悪だった)
『調査されるという迷惑』(宮本常一ら。調査されることは地域にとって迷惑にもなる。それは、勝手に解釈されたり発信で変なイメージ付けをされたりもするから。勉強になる)
『未来からの挨拶』(堀田善衛。面白かった)
『Peter Doig』(本当に素晴らしい。後述)
『生きているヒロシマ』(土門拳。衝撃的なもの。後述)
『DUCHAMP』(Janis Mink。デュシャン作品が色々まとまっていてありがたい)
『美しい春画』(展覧会の図録。展覧会については後述)
『芸能としての建築』(渡辺豊和。京都の寺町通の古本屋にふらっと入って見つけた。めちゃ面白かった)
『古文書返却の旅』(網野善彦。網野さんの背景が知れて面白かった。宮本常一らが借りたたくさんの資料を返して回った話。)
『地獄の季節』(ランボー。こんなに凄かったんだ、という感じ。フランス語で読めるようになってみたい。)
『法隆寺を支えた木』(面白かった)
『国宝伴大納言絵巻』(出光美術館。古い版の本は持っているのだが、新しいのも買った)
『呪術の世界』(別冊太陽。これなかなか面白かった。呪術には2種類あって、「類感呪術」と「感染呪術」とあるのとか知らなかった。「呪術は当時最先端のテクノロジー」という一文が特に刺さった)
『物、ものを呼ぶ』(図録、展覧会については後述)
『誰も不思議に思わない』(堀田善衛。『未来からの挨拶』の方が面白い)
『日本文化の問題』(西田幾多郎。楽しみにしていてやっと買ったけど、あんまり面白くなかった)
『五重塔』(幸田露伴。素晴らしかった。後述)
『銭湯』(町田忍。銭湯を中心としたまちづくりを考えたい、と思うなど)
『路上の人』(堀田善衛。本当に素晴らしかった。一気に読んでしまった)
『南無阿弥陀仏』(柳宗悦。仏教の本は、だんだん漢字が多過ぎてゲシュタルト崩壊してくる)
『所有論』(鷲田清一。かなり面白かった。めちゃ分厚い。輪読会などしてみたい)
『水と清潔』(福田眞人。割と面白かった。マクベスの「きれいは汚い、汚いはきれい」の引用が印象的。昔のキリスト教は汚いほど良いとされていたこともあるらしく、汚物の上に座る聖人の絵もあるらしい)
『宮本常一「忘れられた日本人」を読む』(網野善彦)
『Eugene Atget』(Photo poche、後述)
『EUGENE ATGET』(Phaidon 55、後述)
『めぐりあいし人々』(堀田善衛、めちゃ面白かった)

何冊か触れてみる。

『生きているヒロシマ』(土門拳)

『生きているヒロシマ』は実に考えさせられた写真集である。原爆に被災した人々の様子が記録されている。顔の半分の皮膚がなくなり、どこか別の場所の皮膚を、明らかに素人のような拙い糸で縫い付けられた少年の顔。腕とお腹の皮膚がくっついた女性。駄目になった皮膚を機械で巻き取るように剥がしていく様子。おそらくは一度全てちぎれた後に縫い付けられた子供の指達。亡くなった子供の葬式をする父親。そしてそのような災禍が溢れているにも関わらず、はにかみながら女性の髪を結う別の女性たちの朗らかさ。心の奥に手を突っ込んまれ掴まれるような凄惨な状況たちと、それを呪うでもなく、過ぎたものとして前を向こうとする人たちの対比は、僕にはやはり異様に見えた。そしてそれは日本の過去の姿ではなく、未来の姿でもあり、現在の日本の姿でもあるように見えた。

『めぐりあいし人々』

この本は戦時中から戦後までの堀田善衛の語りの記録なのだが、戦争体験について土門拳さんの写真集を通して考えたことと通じる部分も多かった。

堀田善衛さんは、戦後に上海から佐世保へと帰る船の中で『リンゴの唄』が日本国内で流行っていることを知り、衝撃を受けたという。

あの敗戦ショックの只中で、ろくに食べるものもないのに、こんなに優しくて叙情的な歌が流行っているというのは、なんたる国民なのかと、呆れてしまった(中略)もう革命運動などはだめだ、この国の優しさに寄り添って、流れ流れてどこまでも行ってやる、そんな虚無な気持ちになってしまいました。

『めぐりあいし人々』

スタッズ・ターケルの『よい戦争』の中で、1980年台の米国人の多くが原爆は正しかったと話す記録を見て、僕はずいぶん腹が立ち、米国を嫌いになりかけた。戦争には、後世に伝えない方がいいものもある気がした。

堀田さんは同じ著作の中で、エジプトにいたときにコンゴのジャーナリストがやってきて、涙ながらに話された時のことを述懐している。

当時のエジプトはナセル大統領のもと、第三世界の盟主的存在でしたから、カイロは、一種アフリカの独立運動の巣窟といったような様相を呈していました。今後もまだ独立以前でしたが、あるときコンゴのジャーナリストがやってきて、私を部屋の隅にどんどん押していくんです。よく見ると、その真っ黒い顔−巨人軍にいたクロマティにちょっと似ていましたね–の大きな目から涙が溢れている。

何事かと思って、よく話を聞いてみると、広島と長崎に落とされた原子爆弾の原料であるウラニウムは、コンゴから産出したものだ。もし、われわれがもっと早く独立していて、ウラニウム鉱山を自分たちで管理することができていたなら、ああいうことは絶対させなかったはずだ、というんです。コンゴの国民は、心からそう思っていると、広島と長崎の市民に伝えてくれと、涙ながらに訴えられて、思わず私も涙が出ました。

そういう民衆の間での心の交流というものが、むしろ歴史というものを創造していく本体なのではないでしょうか。

『めぐりあいし人々』

『路上の人』(『芸能としての建築』『法隆寺を支えた木』)

『路上の人』は本当に素晴らしかった。中世ヨーロッパを舞台に、社会の枠組みからは排除されながらも移動しつつ様々な知識を蓄え、社会や国家についても深く知る”路上の人”を主題とした作品である。そもそも大学の原型はキャラバンであり、知の集団はある場所からある場所へ移動した。それぞれの場所で知を伝え吸収し、学問を醸成させたのである。そしておそらくは、ちょうど宮廷道化師(Jester)のように、そうした人々は一般的な規範から外れた人たちであったのではないかという気すらしてくる。

日本において大工の多くはもともと流浪の民であったことが、『芸能としての建築』の中で語られている。仕事のある場所からある場所への流れ、各々の場で腕を磨いた。彼らは芸人のような旅人であり、「遊芸の民が、他界からの使者として村落共同体にお目見えしまた去ってゆく呪術的世界の体現者であったように」、寺や神社を造営する大工たちもまた呪術的世界の担い手であった。

『芸能としての建築』の中で、城郭の秘密の経路などを作った大工は殺されたり、生贄とされたりしたとあって、本当か?と訝しんでいたら、法隆寺の宮大工であった西岡常一さんの先祖はもともと大阪城の秘密の場所の造営に関わり、その結果殺されそうだったところを、逃げ出して別の領主に匿ってもらい、ほとぼりが冷めてから法隆寺に戻ってきて居着いたということが書かれてあって、本当だったんだと驚いた(『法隆寺を支えた木』)。

流浪とは何か。一般社会から外れること、そしてそれゆえに世界をよく知れること、外から客観的に見られること。一般社会の規範から外れるがゆえに存在を認められるものの暮らし方。移動とは何かと問えば、元は逃げるという人間の動物としての本能が原初にあるのだろうが、逃げることの価値を反転させ、規範から外れることによってある種の規範への意識を持ち直すこと自体を存在意義とする存在の、不安定さと華やかさに思いを馳せた。

『Peter Doig』

何気なく、ボヘミアンズギルドという古本屋の膨大な書籍の棚からとった絵画集がドンピシャで気に入って、かなり高かったが買ってしまった。Peter Doigという画家も初めて知った。

一言で言えば、色はたくさんあるのに色味がない絵画たち、である。鮮やかな色はたくさんあるのに、まるでモノクロの絵を見ているかのような、淡さと強さがそこにはある。マティスの絵を見た時に、彼は色盲だったのではないかと思った。陰影ははっきり取れているのに、それぞれの色彩がおかしい。しかし陰影があっていれば全体としての立体感は取れるので、そのアンバランスが彼の絵画の一つの魅力となっているのではないか。Peter Doigの絵画にもやや近いものを感じる。というか、色が色として何かを主張するためでなく、ただ一つのモチーフを描くための材料に過ぎないのに、その使い方が異様であるせいで、それらの組み合わせ方自体が別の独特な雰囲気を発し始めるという、作為性のあまり感じられない歪みに、作品の独特さの源泉があるような気がする。

しかし美しい。

こういうのとか。https://mirror.lulamag.jp/art-culture/news/exhibition/peter-doig/2020

『所有論』(鷲田清一)

めちゃ分厚かったが、実に面白かった。輪読会などやってみたいと思わされる本だった。いずれ少しまとめたい。

『五重塔』(幸田露伴)

明治期くらいの本で、五重塔を建てたい職人の葛藤の物語である。途中に出てくる、いかにも江戸というような(歌舞伎みたいな)文体の演出はちょっと笑ってしまったが、冒頭部分や所々出てくる情景描写があまりに鮮烈で美しいのでぜひおすすめしたい。

一般的な風景描写が、広角のレンズを使って引きで風景や街の様子を撮っていくようなものだとしたら、『五重塔』の冒頭は75mmから100mmくらいのレンズで、カメラを手持ちで、ものすごく寄りの描写で生き生きとした世界をつかまえている。その描写の迫力、生々しさは日本文学の中でもあまりみない気がするくらいのもので、素晴らしい。日本の世界は静的なものでなく、こんなにも湯気の立っているような肉感さに満ちたものなんだ、と思わせてくれる。

『Eugene Atget』『EUGENE ATGET』

ウジェーネ・アジェという写真家の作品集である。僕はアジェを知らなかったのだが、東京都写真美術館のコレクション展で見て衝撃を受けて、すぐに神保町に行って探し、買い求めた。新品で買えるものがほとんどないし、中古でもあまり売っていない写真家である。しかし本当に素晴らしい写真に溢れている。

アジェはもともと俳優志望だったがうまくいかず、画家になったがうまくいかず、やがて芸術家のための資料として写真を撮り売り捌く仕事をしていた。その意味で彼は作家的な写真家ではなかった。晩年の少し前にマン・レイらによって見出され、コレクションされ、死後に名声を得た。

アジェの写真の素晴らしい点は、その場の空気感のようなものがはっきりと保存されているように感じられる点にあると思う。入り込める行き止まり、とでも言えるかも知れないような、その写真空間の中に入り込んで歩き回れるような感覚が美しい。アジェの写真をずっと眺めていると、残像のように、そこで動き回っている人の姿がみえてくる。100年前のパリの中を揺蕩っているような感じがしてくる。人が生き生きと歩き回り、快活な話し声が聞こえ、車のクラクションや子供の走る足音が聞こえ、市場の魚臭さまで匂ってくる感じがする。

構図やモチーフを明確にした写真家の写真より、むしろアニメの美術背景のような構図の作り方にも思えるが、そこに存在していた空気や人の流れを100年以上後に小さな写真たちからはっきりと感じ取れるというのはすごいことだと思った。

いくつかのアジェの素晴らしい写真を見ていた時、片目で見た時と両目で見た時の印象が全く異なることに気づいた。片目で見ると、像や看板などのモチーフに目が行きやすく、両目だと通路や暗がりなどの奥行きに目が向きやすい。そんなことを比べながら、ふと現代は「片目の文化」と言えるのではないか、と思った。片目で見てもわかりやすいアイコン性ばかりが重視され、現場で、両目で見なければ感じ取れない奥行きや生々しさの空気感やリアリティが軽視されている。建築も片目文化になりつつあって、写真では美しいが実際にいってみると奥行きがない、ということは往々にしてあり、逆もまた然りなのである。

アジェの写真を知れてよかった、と思いつつネットで本など探しつつ見てみると、パリに「ウジェーネ・アジェ通り」という通りがあることを知った。アジェの名を冠した通りである。その風景が、あれ、見たことあるぞと思って調べてみたら、昨年パリに行っていた時のホテルの近くの通りであり、「Corvisart」というホテルから最寄りの駅までほぼ毎日通っていた路であった。僕はもうアジェに出会っていたのだと思った。

アジェの写真。東京都写真美術館の展示でみたもの。

名古屋への出張

今月も出張で名古屋に行った。VR学会の大会@名城大学に参加した。「イマーシブメディアと都市指向VRの将来像」というオーガナイズドセッションに登壇した。東大の池井先生の主催で、NHKの半田さんと3人での登壇である。僕はバーチャリティを前提とした都市・公共性論について話した。

OSはVR学会の最終日の最後で、すでに帰っている人も多かったらしかったが、それでも結構な数の人が聞きに来てくださっていた。しかし、OSは同時間帯に3つありかぶっていたので、人もずいぶん分散し、リアル会場ではその3つのどれかに参加しながら他の会場のオンライン配信を聞いていたという人もたくさんいたようだった。できればなんとか時間はずらして欲しい(タイムスケジュールを見ると、十分にずらせた)とは思った。

あまりディスカッションの時間はなかったが、とても面白かったと発表後に言いにきてくれた人たちもいて、よかったと思えた。

先月に引き続き、今月もよね一を食べた。

LLM講座の受講スタート

LLMについて、原理などを詳しく知りつつシステムとして実装する際の勘所を知りたいと思い、松尾研究室の主催するレクチャーコースに参加し始めた。授業の内容は大変充実していて、講師の説明もわかりやすくて楽しい。授業を受けるのは久しぶりである。

毎週水曜日の夜に講義動画のリアル配信があるのだが、これまでリアルタイムで聞いたことはわずかにしかない。動画はアーカイブとして配信されるので、それを自由なタイミングで聞いている。これまでこういう形の講義はあまり経験がなかった(というのも、コロナ禍の頃にはすでに博士課程に入っていたので、授業のようなものから遠ざかっていた)が、配信動画で授業が進められることの良さを改めて強く感じている。

ちょっと空いた時間に受講を進めることもできるし、宿題などを見ながら改めてわからなかったことを何度か聞いて確認することもできる。ノートを取るのに一生懸命になることもないし、一方的に話すような形式の講義は、オンライン配信がやはり一番いいかも知れない。教室の密な環境で、腰痛いなと思いながら授業を耐えることもない。授業として出すにはゆるすぎる即興的な話題や自由な議論などはリアルの方がいいだろうが、オンラインで動画がアーカイブされる講義は非常にありがたいのだと実感した。

また、週に一回リアル配信があり、その度に動画が公開されていく、という塩梅もいいのかも知れないと思う。YouTubeの動画が新しくアップされるのを毎週楽しみにしているような感じがある。毎週出席しないといけないとなると義務感があるが、毎週新しい講義がアップされる、となると楽しみに変わる。面白いものだと思う。自分が講義をするとしたら、説明的な内容の動画は事前に配布し、電車の中とかちょっとした時間に見てもらい、講義の時間は対面で話し合うとかそういう方がいいかも知れない。その会は別に参加しなくても、動画の視聴と宿題だけやれば受講はできる。あくびをされながら授業するのも苦痛だろうと思われるので、そういう義務的な受講はなしでいいような気がした。

ただ登壇などをする中で、話す側にも授業のような形式のメリットはやはりある、とは思う。長く話すことを想定して話題を練り上げることで、構成のアイディアや発見が生まれることもあるし、会場からの熱量あるフィードバックが得られる際には楽しい。でもそれはやっぱり、ただ教えるのではなくて、相互的な交流を前提とした登壇だからだろうと思う。

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旧「2023年3月に博士論文を書き上げるまで」。博士論文を書き上げるまでの日々を綴っていました。今は延長戦中です。月に1回フランクな研究報…

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